そこにあるだけの愛

佐藤轍

プロローグ

 足先から伝わるひやりとした冷たさを振り払うように、杜本成亮もりもとしげあきは足を上げた。凍てつくような寒さと潮の香りを風が運ぶ。抉れ、色濃くなった砂浜を無視して、成亮はまた歩き出した。

 数歩前を歩く、彼に追いつきたくて、少しだけ歩を進めるスピードを速めた。

「ねえ。」

 彼は成亮を見ない。

有輝也ゆきや!」

 もう一度、彼の名前を呼ぶ。

 ぴくり、有輝也は肩を跳ねさせて、緩慢に成亮の方へと振り向いた。ぷっくりとした唇と不安げに揺らぐ重めの二重。成亮より幾許か高い目線は、ゆらゆらと成亮の前髪の切っ先辺りを彷徨っている。

「…何?」

「声かけたのに、答えてくれなかったから。」

「ああ…、ごめん。聞こえなかった。」

 有輝也は茶色の飴玉を横に流し、鈍色が覆い尽くす海を眺め始まる。彼の横顔はとても綺麗で美しい。なんて綺麗な横顔なのかしらなんて思考の列車が見当違いの駅へと流れようとする。

 違う違うと頭を振り、成亮は眼前の美しい彼に言葉を投げかける。

「俺、帰って受験勉強したいから、要件あるなら早くしてくれない?」

 ぴゅう、と潮風が呻る。あまりの寒さに、成亮は羽織っていた黒のダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

 再び、有輝也は視線を成亮へと投げかけた。ぷっくりとした唇が、ゆっくり、そして小さく言葉を刻む。

―――これはとある冬の話。友人をなくした、杜本成亮の話。





 がたんごとんと揺れる電車に乗って、実家に向かう。今年度成人式を迎える成亮は、いつもより早めの帰省をしていた。田舎へと向かう電車は静かで心地よい。電車の側面に添うように並べられた座席から滲むような温風が足に刺さった。

 うとうととしながら、ぐるぐるりと巻いたマフラーに顔を埋める。

 帰りたくない、切実のそう考えるけれど、それを回避する方法なんて知らなくて、重たいキャリーバッグ片手に帰省している。

 暫くの間、眠気との戦闘を続けた成亮は、地元の駅の名を告げる気だるげな車掌のアナウンスによって目を覚ました。駆け抜けるように飛び降りた駅は閑散としていて、ホームには数人の地元の若者がいるだけだった。若々しい制服姿の男女に引け目を感じて、またまたマフラーの中に顔を埋めた。

 成亮は駅近くのバス停でバスに乗りこみ、実家付近のバス停で降ろしてもらう。駅もバス車内も閑散としている。閑寂としたこの故郷に帰るたび、成亮の心臓はぎゅうと締め付けられる。

 最寄りのバス停から徒歩五分。辿り着いた実家は何の変哲もないクリーム色の二階建て。高校生の頃はバーベキューをしていた庭も、今は枯れ葉と根太い雑草に埋め尽くされている。きぃっと軋む鉄柵に手をかけて、実家の敷地に入った。

「…ただいま。」

 ひとりでに呟く。

 膨張色の壁が、茶色の玄関の扉が、成亮を拒んでいるような気がした。


 杜本成亮の両親は既に他界している。一家心中であった。修学旅行に行っていた齢十四の成亮を除いた二人の姉と両親は自宅に火をつけて、呆気なく亡くなった。理由は定かではないけれど、父の浮気に逆上した母が家族もろとも焼いたのだとか、その逆なのだとか、親戚の間で不確定な噂が蔓延った。

 結局、今でも原因と言うものは分からない。死人に口なし、知りたくもない。

 未成年である成亮を誰が預かるかで、親戚らは揉めに揉めた。最終的に幼い頃から両親と交流があった、久城一家に預けられる運びとなった。温和な性格である美和子みわこと慇懃な立ち振る舞いをする信二しんじは、成亮のことを実の息子のように可愛がった。成亮はたくさんの愛情を受けて、健やかに育ったと自覚している。

 だからこその、罪悪感だった。


 あら、玄関の扉の隙間から柔和な声が零れ落ちた。

「おかえりなさい。」

 リネン製のエプロンを首にかけた美和子はにこりと柔和な笑みを浮かべた。成亮はきょろりと視線を彷徨わせて、小さく「ただいま」と呟いた。

 まだ昼間ということもあり、玄関扉の脇に設置されている曇りガラスから鈍い光が土足場を照らした。

「早かったのね、シゲちゃん。」

「うん、バスが遅延してたから。美和子さんは玄関で何をしていたの?」

「え?ああ、今、知り合いの子が遊びに来るっていうから玄関だけでも綺麗にしておこうと思って。」

 彼女はまたまた柔和な笑みを浮かべて、エプロンのポケットから真新しい雑巾を取り出した。

 ああ、そうなんだ。と成亮は曖昧に笑った。

「シゲちゃんも手伝って。」

「わかった、先に二階に荷物置いてくるから美和子さんは待ってて。」

 成亮は玄関のすぐ近くにある幅の狭い階段を登って、二階へと向かう。そのまま廊下突き当たりの部屋へと重いキャリーバッグを運んだ。部屋の扉には可愛らしく『しげあき』と書かれたポップ体がぶら下がっている。

 左隣のポップ体を目にいれないように、成亮は俯いたまま、部屋の扉を開けた。ゆらりと揺れる、ポップ体。

 一年ぶりの帰省だったが、部屋はきちんと清潔にされている。定期的に美和子が掃除しているようだった。予想していた埃っぽさを免れたため、安堵の息を漏らす。予定通りにキャリーバッグを置いて、階段を駆け下りた。



 ある程度の掃除を終えて、リビングへと向かった。アイランドキッチンに沿うように置かれたテーブルと椅子。木製の椅子の足にはフローリングの床を傷つけないように、布が被せられていた。靴下をはいたその足が、きちんと十六本ある。

 美和子と成亮は向かい合わせに座るのではなく、対角に座った。眼前には美和子が緑茶を注いだマグカップにあった。

 美和子が本当は緑茶よりもコーヒーが好きだということ、実は成亮はコーヒーが飲めること。敢えて、成亮は沈黙を選んだ。わざわざいう必要もないと思った。透明の緑の奥で揺らぐ茶葉を消し去るように、まだ熱いマグカップを傾けた。

「シゲちゃんも成人かあ、成長は早いね。」

「うん、美和子さんにはたくさんお世話になったから元気に育ったよ。」

「ちょ、もうやめてよー。そういうのは成人式の日に言ってちょうだい。」

 照れたように美和子は片頬に手を当てる。

「あの子もね、出られたらよかったんだけど。」

 美和子の重めの二重が閉じられる。瞼の裏では彼女のが思い浮かべられているのかと思うと、切なくて遣る瀬無い。

 美和子の本当の息子―――久城有輝也くじょうゆきやは、成亮の一番の親友だった。親戚同士で、同い年で、家も近所ということでたくさん遊び、たくさん話した。かけがえのない親友だった。放縦な性質を持つ成亮とは違い、彼は静かで生真面目な性格だった。

 彼もまた―――自殺した。自分の部屋で首を吊って、亡くなった。十八歳の冬のことだった。さっさと推薦で、芸術大学に進路を決めていた彼は天使に誘われたかのように呆気なく死んでしまった。

「…そう、だね。」

 美和子の口から彼の話題を出されると、成亮はどうしたら良いのかわからなくなる。優しい彼女が、有輝也ではなく成亮が死ねばいいと思っていたなどと考えているわけがないと分かっている。だけれど、頭の隅で誰かが囁くのだ―――お前が死ねばよかったのに、と。

 疑心暗鬼になっているそんな自分自身さえ、嫌気がさしてくる。成亮は彼女の目線から逃れるために、視線を手元にあるマグカップへと集中させた。

「…成人式、私は楽しみよ。なんたって愛おしい息子の晴れ舞台でもありますからね!」

「…うん。」

「人生悲しいことも楽しいこともあるけど、ここまで生きちゃったら、多少なりとも受け入れる余裕があるから。」

 空元気の声がリビングに響き渡る。成亮は口元をきゅっと引き結び、緩やかに視線を上げた。成亮の視線の先で、美和子は目尻を下げて、相変わらず柔和な笑みを浮かべていた。相変わらずの笑顔なのだけれど、なんだか悲しい雰囲気だった。

 ぴんぽーん、鈍い呼び鈴が鳴り、悲哀に満ちた空気が霧散していく。

「あら、あの子、来たのかしら。」

「いいよ、俺見てくる。」

 椅子から立ち上がろうとする美和子を手で制して、リビングの扉に近かった成亮が立ち上がった。

「ごめんなさい、ありがとう。」

 うん、と相槌を打って、成亮は玄関まで小走りで駆けた。この家はインターフォンが壊れていて、訪れる人間もそんなにいないものだからそのままの状態で放置されている。

 成亮が帰宅した頃より幾許か綺麗になった玄関で、適当に靴を履く。そしてかちゃりと錠を外して、扉を押した。

「はい、…どなたですか。」

 チェーンの隙間から鋭い光が差し込む。

「あのー――明智和あけちなごみと言います!久城美和子さんのご自宅はここでよろしいでしょうか!」

 朗らかな笑顔はまるで太陽のようで。目にいれると眩しくて閉じてしまいたくなる、そんな少年が成亮の目の前にいた。

「あ…はい、ここで、合って、ます。」

 ひどく、間抜けな声を漏らした。

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