【3】甘露(1)

 その日、夕暮れの空の裾は薄紅に染まっていた。

 黒い影が街道を歩いている。影は一人の少年の姿をしていた。

 少年の名は甘露〔かんろ〕という。華奢な体つきだが、背中は真っ直ぐに伸びていた。左肩に麻袋を担いでいる。父親に頼まれて、隣町で買い物をした帰り道である。

 天辺の藍から紫を経て紅となる空を見上げる。しばし見入りながら歩みを緩めた甘露は、常にない胸騒ぎを覚えて立ち止まった。

 空は美し過ぎた。甘露と年の近い村の子供たちならば、この空を見ても今の甘露のように畏れを感じることはなかっただろう。だが、美しさの裏側に潜む異変の兆しを見落とすほど甘露は愚鈍ではなかった。愚鈍どころか、ややもすると本人が持て余すほどの才気を生まれながらにして備えていた。

 何かが起ころうとしている。人の力の及ばぬ高みで。あるいは、誰も辿り着くことのできない深みで。

 ぐっと唇を引き結ぶと、形の良い鼻から深く息を吸った。

 肩の荷物を揺すり上げると、再び家路を辿り始める。


 家へ続く道の途中で、甘露は姉の出迎えを受けた。

「お帰りなさい」

 姉の声は慈しみに満ちていた。甘露は喜びを隠すことなく、姉の手を取って甘える。

「ただいま戻りました」

 二人はどちらからともなく歩き出した。姉を見上げた甘露は、いつになく強張った姉の横顔に怪訝な顔をする。

「姉さん?」

「あのね、家に赤ちゃんがいるのよ」

「えっ」

「あなたが出かけている間に、うちに来たの。捨て子なんですって」

「お母さんの子供じゃないの?」

「ええ。でも、きっと母の子供だということにするんでしょうね。あなたにも、きっとそう云うでしょう。私が本当のことをあなたに話したことを、誰にも話してはだめよ」

「うん……」

 甘露は肯いた。姉は、時々こうして大人たちが甘露に告げることとは真逆のことを甘露にこっそりと伝えてくれる。どちらが真実か、甘露が迷うことはなかった。姉は決して甘露に嘘をつかなかったからだ。生きてゆく上で、それがいかに困難なことか、甘露は幼いながらに知っていた。

「甘露。私と約束してほしいの」

「何を……?」

 甘露は訊いた。

「もうすぐ、お祭りの日が来るの。分かる?」

「うん」

「いい? お祭りには行かないで。どんなに誘われても行ってはいけない」

「これから、ずっと?」

 甘露は不安そうに訊き返した。

「ううん。今年だけよ。来年はいいの。山の光を見ないで。その日は、両目を布で塞いで、どこかに隠れているのよ」

 姉の顔には血の気が無かった。

「いいわね? 約束して。甘露」

「やくそく。……うん」

 甘露は聡い子供だった。姉のただならぬ様子が、これが遊びでする口約束ではないのだと甘露に感じさせていた。この頃から既に、彼の洞察力と理解力は非常に優れていた。

「甘露、私を捜してはだめよ」

「……?」

「私は、あなたの心の中にいるの。ずっと。だから、どこにも私を捜しに行かなくていいの。覚えていて……」

「姉さん」

「私は、あなたを愛しているの」

 ふわりと姉が笑う。それは甘露がこれまで見た中で、最も気高く美しい笑顔だった。


 数日後、甘露は祭の芝居の主役に選ばれた。喜び勇んで姉に話すと、姉は微笑みながら驚くべき言葉を甘露に投げかけた。

「私と約束したでしょう?」

「えっ」

「あなたは、お祭りには行ってはいけません。明日、皆の前で私を『雨乞い』にすると話してちょうだいね」

「……」

 姉が腰を屈めて甘露に目線を合わせる。琥珀色の瞳を覗き込んだ甘露は言葉を失った。それは、花盛りの二十一の娘に相応しい眼差しではなかった。数え切れない涙で洗われた瞳だと甘露は思った。手を伸ばして、姉の肩を小さな手で抱き寄せると、姉は声を上げて笑った。

「あなたの役を私にちょうだい。甘露」

「いいよ。あげる」

 姉の両腕が甘露を抱きしめる。細い腕は震えていた。

「私がこの役をもらうのは、これで二度目なの」

「一度目は?」

「七年前の夏に。だけど、私も今のあなたのように、他の人に役を奪われてしまった」

「……かなしかった?」

「ええ。とても」

 姉が肯く。

「でも、だから私は今ここにいるの。いい? 甘露」

「なに?」

「私は今、七年後のあなたに話しているの。七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」


 甘露が姉を『雨乞い』として指名した時の、村人たちのざわめきを今でも鮮やかに覚えている。甘露の両親は安堵の表情をしていた。特に母親は喜びを隠しきれないでいた。それを見て甘露は思ったのだ。

 『雨乞い』の役は、どうやら楽しいばかりではないようだ――と。稽古には加わらずに一人で過ごす甘露を、誰も咎めはしなかった。

 姉は、時折冷ややかな目つきで甘露の父を眺めていることがあった。侮蔑しているようにすら見えた。それを見ても、姉を煙たく思いはしなかった。それどころか、父に対して理由のない憎悪を感じることさえあった。清廉な姉に比べると、掟のみに縛られて生きる両親は暗愚なようにしか見えなかった。

 ある日、夕食の席で決定的な出来事が起こった。父が姉に向かって「誰に喰わせてもらっていると思っているんだ」と云った時だ。それまで言葉少なに食事をしていた姉が顔を上げた途端、甘露は目の前に稲妻が奔るのを見た思いがした。

「忘れられるって、幸せなことね」

 感情を押し殺した声が姉の唇から吐き出される。

「勘違いしないでちょうだい。あなたたちのためにこうする訳じゃない。七年後に誰が選ばれるか、知っているでしょう」

「……」

 父は答えなかった。それが答えだった。

「七年後のために、今の私に出来ることをするわ。残念ながら、私は七年後に誰が選ばれるのか見ることは出来ないの。あの人が私に与えてくれたものは、消えたりはしない。伝わってゆくわ。決して途切れることなく」

 母は暗い顔で姉を窺っている。卑屈な顔つきだと甘露は思った。村を統べる長の家に住んでいるのは、卑小な大人二人と、神の使いのような娘、不意に現れた赤子、そして甘露なのだ。崩壊という言葉などでは追いつかない、絶望的な荒廃だった。

「七年後に選ばれた子供は、一体誰を選ぶのかしら。忘れないでちょうだい。七年後にあなたたちが味わうかも知れない苦痛を、これまで誰が肩代わりしてきたのかを」

 姉は薄く笑っていた。寒気がするような美貌だった。それでいて、姉は誰とも娶(めあわ)されずに生きている。他家から申し出があるごとに、姉が頑として拒んでいるからだ。


 大祭の最後の日。甘露は姉との約束を守り、代償として姉を失った。

 やがて甘露は、姉が人々から忘れ去られたことを思い知る。だが、彼は姉を捜しはしなかった。

 姉は、甘露の心の中にいたからである。


*     *     *


 結論から云おう。

 甘露は最早、人の姿をしていない。

 迸る光の乱舞の中で、彼は思い返している。

 あの夏。全てを知り、全てを手放した夜に至るまでの軌跡を――。



 弟が甘露の部屋で寝入ってしまったので、甘露は読みさしの本を開いたまま机に伏せた。蒸し暑い空気を少しでも和らげようと、目の前の窓を開けて風を通す。季節は初夏だ。梅雨が明けて、まだ間もない。

 中空に月が浮かんでいた。月は満ちていた。


 突然誰かに呼ばれでもしたかのように肩を震わせて、甘露は目を覚ました。窓の外は薄暗い。それを一瞥して、すらりと伸びた体を起こした。

 繰り返される夏を六度通り過ぎ、甘露は十四になっていた。


 寝台を降りて部屋を出る。隣にある弟の部屋の扉は開いており、中で安らかに寝息を立てる弟の姿が見えた。廊下を裸足で進み、階段を降りた。

 外履きを履いて玄関から外に出る。夜明け前の墨色の空が甘露を迎えた。

 甘露はどこに行くともなく歩き出した。蝉の声は聞こえなかった。夏の半ばを過ぎれば、きっとうるさいくらいに鳴き始めることだろう。

 ふと、彼の姉のことを思った。

 姉を失ってから、甘露は誰よりも寡黙になった。

 姉は、この村を出てどこへ行ったのだろうか。その答えを甘露は努めて追うまいとした。なぜなら――答えは既に彼の胸の内にあった。闇を侵しながら燃える青白い炎のように。

 ここ数年の間、甘露は秋から冬までを都で過ごしている。学校には年上の友人の家から通っている。村では望むべくもない高度な教育を受けて、甘露は多くのことを学んだ。村に戻ると野良仕事に精を出した。彼は己の手を汚すことを厭わなかった。河川から水を引く大人たちを手伝い、田畑の実りを祈り続けた。自分に出来ることは、精一杯に今を生きることでしかないと分かっていた。

 甘露は知っていた。知りながら、目を逸らし続けた。

 それでも炎は消えなかった。今も燃え続けている。頼りなく揺らめきながら。


 大祭の準備は着々と進んでいた。

 太鼓の音。混じり合う笛の不吉な響きが甘露を導いてゆく。


 次の日。仕事を終えてから、甘露は弟に漢字の書き取りを教えていた。弟は楽しげな様子で、甘露が声に出す言葉を次々に漢字で綴ってゆく。時折、分からない文字を仮名で書くのが微笑ましかった。

 陽が落ちた頃、父と母は村の集まりに出かけた。弟に先に風呂に入るように云う。弟は鉛筆と紙を机に置いたまま、甘露の部屋を出て行った。

 残された甘露は、くたびれた体を寝台に投げ出すように寝転がった。

 昨日から、ずっと心のどこかで姉のことを考えていた。図柄合わせの最後のかけらが、甘露の内側から彼に呼びかけている。気づけ。気がつかないと、間に合わなくなる。だから早く。早く!

 なぜ僕は姉を捜さなかったのだろうか。

 それは、思い出だけを暖めて生きてゆこうと思っていたからでも、単に諦めていたからでもなく、甘露が全ての答えを知っていたからではないだろうか。

 甘露に与えられた役を、譲ってほしいと姉は云った。甘露が差し出した時、姉は何と云った? その役を与えられるのは二度目だと姉は云った。

 僕は何と云った? 一度目は、と訊いた。姉は――。

 七年前の夏と答えた。

 一度目は他の者に奪われたと姉は云った。奪われたからこそ、今ここにいると云った。悲しかったかと甘露は訊いた。姉は肯いて答えた。とても悲しかったと。それから……。

 七年後の甘露に話しているのだと云った。

 甘露は弾かれたように起き上がった。姉の声が耳元で囁いている。甘露は震える唇で言葉を紡いだ。

「七年後の今日、どうか私を思い出して。私があなたに話したことの全てを」

 ああ、そうだった。今日がその日だ。

「七年前――」

 悲しかったのは、姉が失ったからだ。甘露が姉を失ったように。

 姉もまた誰かを喪ったのだ。

 なぜ大祭は七年ごとなのか。なぜ毎年行われる祭で子供たちが芝居を打つのか。なぜ、芝居の演目は数百年前から変わらないのか。

 なぜ、その芝居の配役を大人たちの投票によって決めるのか。

 七年前、主役である「雨乞い」の役を担っていたのは誰だったか。


「姉さん!」


 絶叫が耳に届いた瞬間、甘露はおののきながら両耳を手で塞いだ。それが苦鳴としか云いようのない声だったからだ。

 七年ごとの大祭。その最中に、一人の子供が死ぬ。何かに殺される。そうして、家族からも友達からも忘れ去られる。人々は忘れるのだ。おそらくは、姉が見るなと懇願していた「光」によって。

 甘露が演じる筈だった役は姉に奪われた。だから姉は姿を消した。甘露は姉に救われたのだ。あの日、姉は晴れがましい舞台に立ったのではなかった……。

「あなたは、殺されに行ったのか」

 甘露は呻いた。それは最早、嗚咽ですらなかった。全身を貫く悲しみが、灼けつくような怒りへと変わる。

 姉は知っていたのだ。甘露が選ばれることを。なぜ姉がそれを知り得たのか、理由は分からない。分かっているのは、姉が甘露を生かしたという事実だけだ。それで充分だった。

 姉は姉自身の優しさに殉じたのだ。ただ甘露を生かすためだけに。


「今年は? 今年の大祭は」

 あの謎めいた夏から七年が経った。今年もまた、大祭が執り行われる。

 今年死ぬのは誰だ? 姉がそうされたように、全てに見捨てられて逝くのは誰だ。

「『――』!」

 甘露は弟の名を叫んだ。だが今はもう、弟の名前が思い出せない。

「僕は馬鹿だ」

 何ということだ。この日この時まで、大祭と姉の失踪との因果関係に気がつかぬとは。甘露は己の愚かさに呆れ果てる思いだった。

「誰かが村人を騙しているのか?」

 大祭の夜に子供が消える。それを裏づけるものは?

 見つけなければならない。そして捩じ曲げるのだ。定められた未来など無い。甘露が証拠だ。姉は変えて見せた。僕には、それに応える義務がある。


 衝動に突き動かされるままに、甘露は家を飛び出した。走った。怒りに燃え上がる琥珀の瞳が記憶の底から甦る。

 忘れることを幸せだと姉は云った。つまり姉は忘れなかった。甘露が姉を忘れなかったように。姉は、姉を生かした者のことを忘れることが出来なかった。

 甘露は、父や長老たちが古い文書や村人の記録を保管している場所を目指した。そこは朋の社と呼ばれていた。


「朱が塗られてる。判子の日付は……七年前の大晦日だ」

 姉の名前は血のような朱色で隠されていた。村の外への移住を表す黄色でも、死を表す黒でもなく。

 この朱色こそ、姉が村を出て流れ者になったとされた証だ。この日付の時点で村にいない者は、全て「流れ者となって去った」として処理されている。

 甘露は推理する。事実はこうだ。

 この村民帳を管理していた人間が姉の存在そのものを忘れたために、姉は「移住者」でも「死者」でもなく、「流れ者」となった。おそらく、この朱を塗った人物は、甘露の姉がこの村の住人であったことなど記憶に無いと云い張るだろう。そしてそれは事実なのだ。

 大祭でなければ、芝居は芝居は寄り合い所の前の広場で行われる。山頂で芝居を打つのは大祭の時だけだ。

 祭の最後に打ち上げられる花火。その後で、大祭の時だけは、さらに大きな花火が特別に打ち上げられるのだと教えられてきた。甘露が目にしたことのない光、姉が甘露から遠ざけた光が頂から溢れ出る。それは篝火だ。永遠に大人になれない死者を送るための――。その光こそが、村人たちに犠牲者の記憶を忘れさせるのだとしたら、全ての辻褄が合う。

 甘露は年を遡り、過去の村民帳にも目を通した。姉以外にも、同じ日付で村から流れたとされた者たちがいた。七年ごとの大晦日に、必ず人が流れている。いずれも名前を朱で塗りつぶされていた。

 七年前。十四年前。二十一年前。二十八年前。三十五年前。四十二年前。四十九年前。五十六年前。甘露の目が、朱色で汚された人々の名前をなぞってゆく。

「宗柳、鈴、花氷、朝霧、沫、滝、飛白、『――』」

 流れた者の屋号は、半数以上が伽羅屋〔がらや〕だった。この中では、姉だけが甘露と同じ屋号を持っている。だが、姉の屋号は記されていない。朝霧と沫も名だけが記されていて、屋号は無い。屋号が記されるべき場所には、何も書かれていなかった。眼前に立ち現れた不気味な作為に慄然とする。

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