【2】花梨

 夏の夜だった。

 甲高い笛の音。鳴り響く太鼓が、背後から忍び寄る足音と混じる。重い足取りだ。それを聞き取って、少女は振り向きざまに恋人の名を呼んだ。

「飛白〔かすり〕」

 少年もまた呼び返した。

「花梨〔かりん〕」

 花梨の年の頃は十四。飛白は十八である。物心がつく前から、二人はいつも寄り添い合って暮らしてきた。この村には、飛白と花梨が声を荒げて喧嘩をする姿を見た者は一人もいない。彼らの間に、浮ついた様子は微塵もなかった。同じ年頃の若者たちのように、幼稚な妬心に駆られて仲違いすることもない。二人は、ほんの小さな仕草や、ささやかな目配せから、二人は互いに相手の意図を察することができた。あまりにも大人びた恋だと村人は噂し、長年連れ添った夫婦のような二人の後ろ姿を、半ば驚嘆の眼差しで眺めるのだった。飛白と花梨が互いに抱く恋慕の情の深さは、それ自体が奇跡のように尊いものであり、仲睦まじいという言葉などでは到底足りぬものと思われた。

 二人にとって、互いを愛することはごく自然なことだった。魚が海で呼吸するように。時の満ちた花の蕾が、夜の中で静かに開くように。彼らは何の気負いも必要としなかった。

 だが、今夜は何かが違う。

「遅くなって、すまなかった」

 飛白は灯籠を手にしている。ほの暗い空間の中に佇む飛白の姿は、常世の国に入りそびれた亡霊のように浮き上がって見えた。少年の顔つきは常になく厳しい。花梨は不安に引き絞られた心臓を宥めようとするかのように、薄い胸を両手で押さえる。

「飛白」

 花梨が呼びかけると、もの云わぬ獣にも似た澄んだ瞳が緩んだ。

「こっちへおいで」

 飛白の手が差し出される。――その手の何と冷たいことか! 僅かに震えてさえいるではないか。

「どうしたの……? 何か、変よ」

「いいや。何も」

 青ざめた唇が降りてきて、花梨は反射的に目を瞑った。瞼を掠めた唇は酷く乾いている。瞼の下の柔らかな皮膚が、飛白の唇の動きにつられて引っ張られる、ごく微かな感触さえ感じられた。

「云って。飛白」

 躊躇う様子を見せた後で、何かを振り切るように飛白が云う。

「おれは『雨乞い』に選ばれた」

「まぁ。凄いわ」

 感嘆の吐息は、すぐに冷たい予感に取って代わった。喜ばしいことを語った筈なのに、飛白の眼は縛り首を待つ罪人のように暗い。

「花梨。今からおれが云うことをよく聞いてくれ。そして、なぜそうするのか理解できなくてもいい、おれが云う通りに振る舞ってほしい」

「はい」

「明日、芝居の配役が発表される。本当の『雨乞い』は君だ。おれじゃない」

「えっ……」

「おれは君の役を奪う。知っているだろう? 『雨乞い』に選ばれた者だけが、他の者を『雨乞い』として指名することができると」

「なぜ――なぜ、そんなことを?」

「今は理由を話せない。だけどおれは、おれだけが君を助けられると知っているんだ」

「助ける? 何から……」

「それを話すには、君はまだ幼い」

「おさない……」

「それが悪いと云ってるんじゃない。誤解しないでほしい。ただおれは、君を助けたい。どうしても助けてやりたいんだ――」

 美しい花梨の顔が、瞳が、神懸かりした巫女のように生気を失ってゆく。

「あなた、死ぬのね」

「……そうだ」

 飛白が応える。花梨は小さく声を上げ、ぐったりとした体を恋人の腕に預けた。

「だめよ」

「君さえ生きていてくれれば、おれはそれで構わない」

「いや」

 弱々しく頭を振る。花梨の姿は、まるで凶暴な嵐に倒された咲き初めの花のようだ。

「花梨、聞いてくれ」

「……?」

「君たちの家族には、怖ろしい秘密が隠されている」

「秘密? 一体……」

「長の家系には、おれたちには知らされていない役割があったんだ。君は他村から里子に出されてこの村に来た。そうだろう?」

「ええ」

「君の上には姉が、そして兄がいた。今生きていれば、二十以上も年上の姉や兄たちだ」

「いいえ、私は長女よ。養女だけれど……」

「どんなからくりを長たちがこれまで使ってきたか、君に全てを話して聞かせるだけの時間が無い。だけど君は賢いから、きっと一人でも答えを導き出せるだろう」

「分からないわ。飛白」

「いいか。長の家には、必ず里子がやってくるんだ。彼ら彼女らは生け贄として捧げられる供物だ。長の血だけは絶やさないようにと画策しながら、里子だけは見殺しにする」

「なぜ? 何のことを言っているの」

「甘露〔かんろ〕を護ってやれ」

「――!」

 突然飛白の口から飛び出した弟の名に、花梨は動揺を隠せない様子で身震いした。甘露は、春に生まれたばかりの赤子である。病弱な母に代わり、花梨は自ら望んで甘露の子守をしている。今夜も、甘露を寝かしつけたのは花梨の歌声だった。弟と花梨の間に血の繋がりは無い。それでも、花梨は心から甘露を愛しいと思う。

「次の大祭で犠牲になるのは、君ではなく彼だ」

「なぜ、そう云い切れるの?」

「七年後には、君は『雨乞い』の役に選ばれる資格を失う。あの役は、七つから十四までの子供しか演じられないことになっている」

「でも、あなたは十八よ」

「おれを選ぶのは、『雨乞い』役の君だ。誰も君には逆らえない。花梨。おれは、本当は君にこの話をしたくはなかった」

 飛白は花梨を腕に抱いたまま、ゆっくりと大地に腰を下ろした。

「聞かせて。飛白」

「……長い話になる」

「構わないわ」

 掠れながらも、花梨の声音は凛としていた。飛白の唇が長い溜め息を吐き出す。

「飛白」

 観念した顔つきで肯きはしたものの、飛白はしばらく沈黙に身を委ねた。掌だけが、花梨の華奢な肩を確かめるように撫でている。


「おれは伽羅屋の飛白だ」

「知っているわ」

「君はおれを畏れない。それでも、この村での伽羅屋の評判は知ってるだろう」

「私が知っているあなたは、卑怯な人でも、嘘つきでもない」

「君は純粋で優しい。それに強い。君は本当に素晴らしい娘だよ。だからこそ、おれは君だけは助けてやりたいと願うんだ……。おれたちの家系は、かつて村の存亡に関わるような罪を犯した家系だと、未だに責められ続けている。それも、何百年も前に長の家系が口伝として伝え始めたお伽話の中での、おれたちの家系の描写だけを根拠にして」

「長老たちが読んで聞かせてくれたことがあるわ……。ひどい話ばかりだったわね。山火事の原因だったとか、隣の家から物を盗んだとか……」

「花梨。長老たちが語っていたお伽話には、重大な欠陥がある。あれを書いたのは、他ならぬ長の家系の人間だった。だとしたら、伽羅屋が犯したとされている罪の大半は、彼ら自身がしてきたことだとは考えられないだろうか?」

「あなたの家系を貶めたのは、私たちの家系だと思っているのね?」

「そうだ」

 飛白は、花梨の問いにはっきりと答えた。

「七年前、おれを救って亡くなった従兄弟がいる」

「飛白、あなたに従兄弟はいない筈よ」

「……君が滝を忘れるのは仕方がない。君はあの光を見てしまったから。いや、たとえ見ていなかったとしても、前の大祭から七年近く経ってしまっているから、同じことだ」

「滝? 滝という従兄弟がいたのね」

「そうだ。彼は他村からの里子で、おれの叔父の家で育ったんだ。本当なら、絶対に選ばれる筈のない人だった。その時には二十二だったんだから。

 七つもしくは十四の『雨乞い』は、神聖な数の年齢だとされて特に喜ばれる。君の姉さんたちにとって不運なことに、彼女たちはそれに当てはまった。その上、君と同じように里子だった。このことは、朋の社にある村民帳さえ開けばすぐに分かる筈だ。分かるだろう、彼女たちの役割が。たまたまそうだったんじゃない。大祭の年に七つになる子を選んで拾ってきたんだということが。本当に七つだったかどうかなんて、今となっては分からない。村民帳を管理していたのは、他でもない長たちだったんだから。子供の年なんて、その気になれば一つ二つ誤魔化したって誰も気づきやしない。卑怯なやり口だが、あいつらはなりふり構わずそうしたんだ。自分たちの血を残すためなら、他の人々を身代わりにしても良いと考えていたんだろう……。

 だが、滝は二度の試練を乗り越えた。彼がおれを助けてくれた大祭から遡って七年前の夏、彼は十五だった。その七年前は八つ。君の姉と兄が亡くなっても、彼は死ななかった。だけど彼は、里子でもないのに『伽羅屋だから』と選ばれたおれを不憫に思ってくれた。せっかく生き延びた命を、おれなんかのために使って彼は死んだ」

 飛白の目に涙はなかった。ただ、深い悲しみと激しい怒りが彼の心を満たしていた。

「君の次は、必ず君の弟が選ばれる」

「なぜ? なぜなの?」

「彼は大祭の年に七つになる。たとえ君が彼に命をあげても、次の大祭が彼の命を絶つだろう」

「なぜ? 彼は長の実の息子なのに!」

「たとえ里子がいようとも、七つと十四という年齢が総てに優先するからだ。甘露と同じ年の子は、今この村にはいない。大祭までの間に出産を控えた家もない。だからといって、間近に大祭を控えたこの時期に七つの子を外から攫って村に入れるのは、あまりにも不自然だ。それに、最近じゃ都の取り締まりも厳しくなって、浮浪児は全て貧民窟に隔離されていて手が出せない。かといって、他国から子供を攫ってくるわけにもいかないだろう。昔ならいくらでも調達できたんだろうが、今は無理だ。流れ者の女が山の中ででも出産してくれない限り、そうそう赤子が手に入る筈もない。

 七年後に彼の命を救うには、今すぐ一歳に満たない赤子を拾ってくるしかない。君が彼に猶予を与えてくれるなら、甘露が七つの時でも構わない。七つと十四なら、優先されるのはより若い七つの子だ」

「赤ちゃんを拾ってきて、どうするの? 猫の子でも拾うように攫ってきて、この村で育てて、そうして、その子を殺すの? 七つになった途端に!」

「おれには、この祭自体を止めるだけの力は無いんだ。分かってくれ。それでも、君を僅かな時間だけ生かすことはできる。それだけでも、おれには充分なんだ……」

「なぜ、七年ごとなの。誰がそれを決めたの」

「伽羅屋の記録には、おれたちの家系が主張したことだと書いてあった。当初、生け贄は伽羅屋の人間だけと決まっていたんだ。だが、伽羅屋の家系そのものが絶えそうになった時、おれたちの先祖はようやく主張を始めた。『人として受け入れてもらえないのであれば、他村へ流れてやるぞ』と長老たちを脅したとも書かれていた。

 要点は二つ。全てに優先されるべき条件として、二つの年齢を設けること。七つと十四の子供たちは最も神聖なものであると決め、七つ未満、十五以上の子供を『雨乞い』の対象外とした。もう一つは、大祭の間隔だ。

 一年ごとに行われていた祭を、もう一年だけ先に延ばしてほしいと嘆願し続けた。せめて二年ごとにしてほしいと。それが受け入れられた大祭の次の大祭では、三年ごととした。それを繰り返して、とうとう七年ごととした。それから一度だけ八年ごとにしたが、それでは上手くいかないことが分かった。だから、確実に結果の出る七年ごとに戻した。そうすれば、あることが可能になると分かったからこそ、それに賭けたんだ」

「あること?」

「いいか、花梨。君がおれを覚えていられる期限は七年間だ。正確には、大祭で打ち上げられる花火を見ずに過ごした七月七日の夜から、次の大祭の七月七日の夜までだ」

「覚えていられる……。つまり、私はあなたを忘れるのね」

「そうだ。伽羅屋の先人たちは、多くの犠牲を出しながらそれを確かめた」

「私はあなたを喪って、あなたの記憶まで無くしてしまうの? 信じられないわ……。こんなひどいことが、現実だなんて」

「生き長らえたとしても、自分の身代わりになって亡くなった者を忘れてしまうのなら、わざわざ他人を連れてきて犠牲にすることもない……。十一代前の伽羅屋の当主は、最も愛する者を忘れ去る恐怖に耐えられず、号泣しながら自ら命を絶った。七年目の大祭の前日だったと記録に残っている。助けられた者は、ほぼ全員が誰かを助けて亡くなった。おれも、恩人である滝を忘れてしまうくらいなら、今ここで君に命を預けたいと思う」

「わ、私に――あなたの命を受け取れと、そう云うのね」

「君に受け取ってほしい。そして、できれば君の弟を生かしてくれ」

「何か理由があるのね?」

「君と同じように、おれにも多少は先が視える。彼は決してこの村の長にはならないだろう。けれど、彼はおれにも君にもできなかったことをする」

 飛白の唇が綻んでいる。笑っているのだ。花梨はそれを見つめながら、飛白がこれまでたった一人で負ってきた痛みと悲しみを思った。

「甘露は自分の力で、この祭に隠された真実に気づく。気づいた上で、真の長に己の命を譲る。彼に命を譲られた長は、この村の悪しき因習を根元から絶ち切る運命にある。おれに視えたのはそこまでだ」

「絶ちきる。私たちの命には、意味があったのね。そう思っていいのね?」

「そうだ。おれは、その子に賭けてみたい。文字通り、おれの命を」

「その子は、誰?」

「この村にはいない。今は、まだ」

「いつ生まれるの? どこで」

「甘露が君に命を救われる年に、君はその子を見ることができるだろう。見れば、きっと確信する筈だ。おれの命も、君の命も、決して無駄ではなかったと。全ては繋がってゆくものなのだと」

「分かったわ。でも……」

「花梨?」

「あなたを喪って、私は生きてゆけるかしら」

 それは問いではなかった。花梨の両眼から涙が溢れる。飛白は歯を喰いしばり、それでもなお、この上なく優しい仕草で花梨の両肩を抱き寄せた。

「――あぁ」

 小さな嘆息だけを口にして、花梨は声も上げずに涙を零し続けている。声を殺して泣くことに慣れてしまった者の気丈さと脆さが、そこにあった。

「花梨。許してくれ。君と、この村から逃れることも考えた。だけど――おれたちが逃げても、誰かしらが犠牲になることは変わらない。滝に救われたおれが、一人だけ逃げのびることはできない。もちろん、おれがそうしたとしても、滝は怒りはしないだろう。あの人は、本当に穏やかで優しい人だったから。だけど、おれは卑怯な真似をするおれを許せない。正しいと分かっていることから逃げる気はない。少なくとも、おれは君を助けることが出来る。それが全てで、それが答えだったんだ。……おれを許してほしい」

「もちろん、許すわ」

 花梨は泣き濡れた瞼を両手で擦る。顔を上げて、美しい微笑みを見せた。

「好きよ」

「おれもだ。君を愛しているよ」

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