二章 残響

【1】深淵

 知る者は知っている。

 地底には、無数の横穴が存在する。様々な方角から思い思いに這い寄り、気まぐれに蛇行し、あるいは突然に方向転換を行って、海中に放たれた銛のごとく突き進む。厳密な等間隔や水平、螺旋などという言葉とは全くの無縁である。ただ、ひたすらに自由な喜びに満ちている。一種破滅的な軌道を描きながら、至る所で互いに絡み合う。これらの空洞は、まるで群れなす蛇である。但し、その蛇には体が無い。

 形なき蛇の群れは、ある一点を目指しながら収束してゆく。そうして辿り着くのだ。唯一無二の空間へ。そこに例外はない。ただの一つも。

 ある者は云う。それは道である。かつて地上に繁栄した巨大文明に生きる人々が災厄によって住みかを追われた際、活路を求めるべく掘り進めた道である、と。

 また、ある者は云う。これらは大自然によって生み出されたものである。大地の奥深くから噴き上がり、地上を燃やした灼熱の岩石が開けた孔である、と。

 いずれも誤りである。これらの空洞を作り上げたのは、人でも自然でもない。


 ――では、何者が?


 人のように意思を持っている。だが、人ではない。自然であるとも云えないだろう。古の文献にのみ姿を残す精霊と同様に、人智を超える力を持つ者たちである。

 空洞の中心に座す深淵には、人ならぬ者だけが立ち入ることを許されている。


 ゆらゆらと橙の光が揺れている。一人の青年が、灯籠を手に歩いているのだ。

 青年は、名を陸糸〔りくし〕という。背が高く、細身の体つきである。男にしては長い黒髪を、首の後ろで束ねている。鋭利な刃物を思わせる瞳は黒い。肌の色は少しばかり黄味がかっている。

 陸糸は、ひたひたと歩く。先の尖った木靴の足音は鈍く重い。少し遅れて、小柄な若い娘が跳ねるような足取りで歩いている。こちらの名は紅玉〔こうぎょく〕である。

 頭上にぽっかりと空いた空間を、獣の唸りのような音を立てて風が流れてゆく。

「私一人でいい」

 陸糸の声は冷え切っていた。彼の表情と同じく。

「だめよ」

 紅玉が高い声で反駁する。頭の左右の高い位置で、黒髪が団子のように結ばれていた。目と目の間がやや離れた、得も云われぬ愛嬌のある顔つきである。大きな深紅の瞳は忙しなく瞬きを繰り返している。浅黒い肌は赤みがかっていて、熟れた果実を思わせた。

「あんたに任せておけないわ。こう見えても、あたしの方があんたより先輩なんですからね」

 そう続ける紅玉の姿は、どう見ても陸糸よりは年少と思われた。陸糸は軽く顎を上げると、それきり紅玉のことは忘れ去ったように前進する。

「あんたって、ほんと愛想が無いのね」

 紅玉の言葉に応えは無かった。紅玉は唇を斜めにひん曲げると、丈の長い上着の袖を合わせ、その中に小さな両手を隠した。


 ある所で、空洞が大きく開けた。陸糸は紅玉を振り返り、身振りで「大人しくしていろ」と伝える。紅玉は小さく鼻を鳴らしただけで、無言のままそっぽを向いた。

 二人の行く手には、黒い壁があった。よくよく見れば、それは壁ではなく、壁を抉った巨大な横穴を塞ぐために山と積まれた土と岩である。穴を塞ぐ土の部分は、周囲の壁よりもくすんだ黒だ。そして岩は、灯籠の明かりを反射するまでもなく、自ら青紫の鋭い光を放っている。かつては空洞であり、今は壁の一部となった穴の中央下部には、人が一人ようやく通れるだけの穴が新たに開けられていた。

 壁に近づくにつれて、陸糸の歩みが速さを増してゆく。気が急いているのだ。ちょこまかとした小走りで、紅玉が彼に続く。

 壁の穴へと踏み込み、さらに先へ進む。壁と同じように作られた壁の間を、橙の灯りに照らされた二つの影がすり抜ける。三つ又の分かれ道の辺りで、陸糸は一度立ち止まった。どう見ても乱れのない衣服の裾を、彼は神経質さを窺わせる素振りで幾度か撫でつけ、襟と袖を整える。斜め後ろから、馬鹿にしたような顔つきの紅玉が陸糸を眺めていた。

 正面の道を行くと、行き止まりの壁に突き当たる。そこには、ひび割れた木の扉が嵌め込まれていた。陸糸の手が扉を押し開く。


 がらんとした部屋は、円形の土壁に囲まれている。

 必要最低限の調度品だけが転々と置かれていた。奥の壁に、木の扉が二つ嵌っている。

 まるで無のような静けさが陸糸たちを迎えた。部屋の中には、一人の少年の姿があった。

 滑らかな肌の色はやや白く、整えることなく垂れ落ちた長い髪は艶やかな黒だ。半目に開いた瞼の奥の瞳は闇のように黒く、白目の部分は輝かんばかりに白い。特筆すべきは、少年が纏う独特の空気である。神々しいまでの気高さと剥き出しの野生とが見事に調和している。だらしなく投げ出された細い腕や裸足の足元にさえ、紛れもない美が宿っている。少なくとも、彼は人ではなかった。たとえ、彼の姿形が人のそれであったとしても。

 彼は王である。彼に付き従う者たちは、敬愛と畏怖を込めて彼を「王」と呼ぶ。彼に相応しい呼び名は他にない。彼こそが、陸糸と紅玉の主人であった。

 分厚い座面と後ろに傾いた背凭れを備え、金と赤い輝石で飾られた豪奢な肘掛け椅子の上で、だるそうに体を丸めている。つまるところ、この椅子は玉座なのである。

「失礼致します」

 陸糸の声が静寂を打ち破った。

「……お前か」

 傲岸とも聞こえる声音で、戸口に立つ陸糸を呼ぶ。陸糸は、身を屈めて恭しく頭を垂れた。吊り上がった陸糸の瞼には、少々不釣り合いとも思える柔和な笑みが浮かんでいる。

「お加減はいかがでしょうか」

「悪い」

 王の応えは、にべもないものだった。

「ほーら、陸糸のせいよ。王様、あたし下界で色々面白いものを見て回って来たんですよ。お話して差し上げますね」

 すかさず、紅玉が陸糸の前へと飛び出して来る。

「喧しい。下がれ、紅玉」

 言葉こそ冷ややかではあるものの、王の表情に険しさはなかった。

「顔色が悪いわ」

 心配そうに陸糸に囁く。陸糸は軽く肯くと、王の足元に片膝を突いて腰を屈めた。その隣りに紅玉が座る。

「王よ。どうか教えて頂きたい。あなたは、後どのくらい保ちますか」

「ちょっと! あんた、ひどい男ね。『あなたは、あと何年生きられますか?』なんて。病身の王様に、よくもそんな残酷なことが訊けるわね!」

「人の数えで三十年――。いや、それまで保つかどうか」

 冷めた声が、どこか他人事のように語る。その傍らで、紅玉が息を呑んでいる。

「王様……」

 微かに震える指先を、橙の紅で彩られた唇に押し当てて、紅玉が王を凝視している。

「陸糸。頼む。我が滅びる時には、お前が継いでくれないか」

 王が発した言葉に、紅玉の瞳が見瞠かれる。

「陸糸ですって?! 無理よ。南の衆が、黙って受け入れる筈がないわ!」

「受け入れてもらうほかない。人とも通じて来たお前なら、我よりも器用に立ち回れるだろう。我が娘の行く末を見守っていてくれ。お前にしか頼めない」

「承りました」

 陸糸は毅然として応える。そこに揺らぎはない。おそらく、彼は王の言葉を予期していたのだろうと思われた。

「無理だと思いますけど。陸糸が南でどれだけ毛嫌いされてるか、知らない訳でもないでしょうに」

「分かっている」

 王は静かな応えを返した。

「我に繋がる全ての者を我は感じている。その我が陸糸を選んだということを、お前も含め皆が重く受け止めてほしいものだ」

「そりゃあ、あたしは若輩の陸糸よりも頼りないですけどお」

「そういうことではない。永きに渡る時を正気のままで過ごすに足るだけの心の強さを、我は陸糸の中に見た。お前は軽いし移ろいやすい。だが、それこそがお前の特性であり、美点でもある」

「え、えへへー」

 紅玉は頬を赤く染めて照れている。

「紅玉」

「はーいっ」

 元気よく両手を上げて応える。

「お前は先に戻れ」

「……」

 上げた両手が力無く下がる。

「王様、あたしのことお嫌いですか?」

 白い額に己のそれを近づけて、紅玉の瞳が黒い瞳を覗き込む。

「いいや?」

 顎を上げて王が応える。その顔には、面白がるような笑みが浮かんでいる。

「さよなら。後で、あたしに逢いたくなっても知りませんよっ」

 捨て台詞を吐く。さっと立ち上がると、小走りに扉へと向かった。扉を開けたかと思うと、もう姿を消して去っている。

「かしましい奴だ」

 愛情に満ちた声音で云う。

「あなたのお戯れが原因で、恐ろしいことになりそうです。屋敷に戻ったら、紅玉から散々いたぶられるに違いありません」

「あれの小言や悪戯など、お前にとってはどうということも無いだろう」

「いいえ。胸を痛めています」

「嘘をつけ」

 ばっさりと切って捨てる。王は肘掛けから身を乗り出した。

「聞かせてくれ。雲雀〔ひばり〕の様子は」

「お元気そうでした」

「……そうか」

 気遣わしげな顔つきの陸糸に対し、王は苦笑いを見せる。

「そんな顔をするな。全ては我の蒔いた種から生じたものだ」

 陸糸は王を見上げている。ややあって、静かに面を伏せた。

「我は卑怯であった。己の荷を我が娘に負わせ、手ずから壊すことも創ることも諦めたのだ。我の意気地のなさこそが、あまねく全ての元凶だ」

 王の声は震えてはいなかった。王は涙に頬を濡らしてはいなかった。だがしかし、王は啼いていた。それは最早、声なき慟哭としか呼べぬものであった。

「我が娘は、我と我が妻の願いと祈りによって生まれた。穢れた天地を浄めるために生んだのだ。だが、実際には……。お前は知らぬだろうが、惨いことであったとしか云いようがない」

「何が起こったのです?」

「紅玉たちがお前に教えた通りのことだ。我は無数の叫びを聞いた。いくつもの命が火に灼かれ、濁流に呑まれて消え失せた。その上、邪なものどもまで引き寄せてしまった。誓って云うが、我は、あれほどの破壊を招くなどとは思いもよらなかったのだ。――何と愚かであったことか!」

 吐き捨てるように云う。王は憤怒の形相をしていた。その怒りは王自身へと向けられている。

「お気をお鎮め下さい」

 陸糸は手を伸ばし、王の左足の踝に両手で触れる。押し戴くようにして、自らの片膝の上に王の足を乗せた。

「すまない」

「何を仰るのです」

「我の力で、あらゆる邪なものを葬り去れるものならば、これほどまでに悔いることもなかったろう。あれらを刈り取れる者は、雲雀をおいて他にない。それが我にはつらい」

 ふ、と息を吐く。王は背凭れに右腕をかけ、そこに顔を埋めた。

 王の足から手を離した陸糸が、深い溜め息を落とす。

「どうした?」

「どうか、私に今暫くの猶予を下さい」

「安心しろ。まだ時は残っている」

「まだ――ですか。私はいずれ、あなたの遺志を受け継ぐ名誉を得るのですね」

「我の負債だ。お前には、とんでもない外れ籤(くじ)を引かせてしまったな」

「いいえ……。光栄に思います」

 陸糸が顔を上げる。陸糸の瞳は強い光を放っていた。彼を見下ろし、王は満足そうに目を細めた。

「いい目だ」


*     *     *


 深淵の最奥には、巨大な鏡がある。

 正確には、鏡のような泉がある。縁まで満ちた水は、透き通ってはいない。浅い部分までは澄んでいるが、奥は暗い暗緑色である。深い。どこまでも深い。

 ゆらゆらと揺れる水面の底から、仄かな光が天井を照らしている。それを見下ろして、入り組んだ岩場の上に立つ者がいた。逆光で影となった、小さな体は紅玉のそれだ。

「紅玉ーっ」

 斜め後ろから、呑気な声が彼女を呼ぶ。

「何よっ!」

 怒鳴り返す声は怒っている。同時に悲しんでいる。

「どうしたんだよ。また陸糸に苛められたのか?」

 若々しい声は笑いを含んでいる。紅玉の背後に現れたのは、陸糸よりもさらに背の高い男だった。男の名は北辰〔ほくしん〕という。目元には細かな皺があるが、北辰の顔は幼子のように開けっぴろげで邪気がない。無精故にか、短い髭が顎にぽつぽつと生えていた。

「おお、いやだ。あたしの前で、あいつの名前を口にしないで」

「何をそんなに怒っているんだ? 聞かせてくれよ」

「陸糸のことに決まってるでしょう! あいつ、姫様を娶る気でいるんだわ!」

「そんな大それたこと、陸糸にはできやしねえよ」

 北辰は高らかに声を上げて笑う。紅玉は赤の瞳を怒りに燃やして、北辰を睨みつけた。

「ああ、こうしちゃいらんないわ。早く姫様に伝えなきゃ!」

「まあ落ち着きなって。王のお体のことなら、姫はとうに知っているさ」

「何ですって?」

 聞き返す紅玉は目を丸くしている。

「当たり前だろう。あのお方を誰だと思ってるんだ?」

「……知っていて、お戻りにはならないの? どうして?」

「俺に聞かれてもなあ」

 紅玉はすっかりしょげ返った様子で、くすんと鼻を鳴らした。

「姫様に逢いたい」

 幼い声で云う。北辰は困ったように笑い、小さな肩を逞しい腕で引き寄せた。耳元に声を落とす。

「こうして、ここを離れているのも、姫がご自分で決められたことなんだ。俺たちに出来ることは、少しでも長く王の世が続くように力を尽くすことだけだ」

「分かってる。でも……」

「俺たちが必要なら、姫の方から呼んでくれるさ。今の今まで、呼ばれていないっていうのが答えだ。そうだろう?」

「だけど陸糸は姫様に逢ってるのよ。ほんっと、ずるい男」

「へえ。紅玉なあ、そろそろ陸糸を認めてやった方がいいんじゃないか?」

「認めるって! 何を?」

「姫様にそこまで信頼されてるってことをさ」

 紅玉は顔を歪め、大粒の涙をぽろぽろと零す。やがて、北辰の肩に濡れた頬を寄せた。幼い手で北辰の服をぎゅっと握りしめている。

 北辰は、何も云わずに彼女を抱きしめていた。

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