【3】甘露(2)

「伽羅屋……。懐かしい屋号だな。よく昔話に出てくる」

 幼い頃から繰り返し聞かされた昔話の中で、悪人の屋号はいつも伽羅屋だった。いつだったか、長老から聞いた話を姉に話した時のことを思い出す。姉は嫌悪も露わに云った。そんな馬鹿げた昔話を信じられたなら、私はもっと幸せに生きられたのではないかしら、と。

 今、村には伽羅屋という屋号を持つ者は一人もいない。なぜだろうか。

 飛白。この人が伽羅屋の「最後の一人」なのだろうか。

 甘露には、記されなかった屋号の名が分かっていた。彼の家が持つ屋号だ。屋号を持たない者たちは、姉と同じように拾われて殺されたのだろう。――いや、違う。

 拾われて殺されたのではない。殺されるために拾われたのだ。

 甘露は最も新しい村民帳を棚から取り出した。頁を捲り、馴染みのある名前の羅列を確認する。

 それを目にした瞬間、甘露は息を呑んだ。

 次の頁を捲り、甘露は眩暈を覚えた。

 そこには、甘露の名が屋号とともに記されていた。隣には弟の名がある。

 だが、弟の名の上には何も無かった。無い。何度見返しても無い。本来そこに記されるべき屋号が。

 だとしたら、あれは誰なのだ。毎朝毎夜、常に甘露の近くで生きているのは誰だ。無条件に甘露を信じてやまない、あの幼い少年は誰だというのか。

「あぁ……」

 世界が壊れてゆく。これが僕の愛した世界の真実なのだろうか。だとすれば、あまりにも惨い。

「僕のせいなのか?」

 お前が拾われたのは、僕のためなのか。お前は僕を生かすための贄として、これまで生かされて来たのか。

 甘露は、姉が姉を生かした相手から受け継いだものの正体を知った。それは命だった。消えたりはしない、伝わってゆくと姉は云った。

 そうだ。命は続く。決して途切れることなく。

「僕が繋げる」


 家に帰ると、弟が甘露を待っていた。どこに行っていたのかと尋ねられて、甘露は曖昧に微笑む。

 甘露は弟を見た。弟もまた、あどけない顔で甘露を見上げる。甘露を信じきっている眼差しを見返した時に、甘露は思った。この命を姉に返そう。

「お前に、どうしても頼みたいことがあるんだ」

 弟が驚いたように声を上げる。何でも云って、と云う。甘露は、弟を心の底から愛しいと思った。弟の瞳は春の海のように光り輝いていた。

「お前の役を僕にくれないか。どうか、お願いだから」

 弟は迷いもせずに応えた。

 いいよ、あげる――と。


 夜の闇を目に映しながら、甘露は弟の傍らに横たわっていた。弟は眠っている。

 長い夢から醒めたような気分だと思う。甘露の心は凪いでいた。

 今なら分かる。なぜ姉が、あれほどまでに必死だったのか。強張った顔つきで、痛いほどに甘露の肩を抱いていた。死にたくない。確かにその思いもあっただろう。

 だが、死の恐怖を越えた向こう側に、姉は人として真に正しいものを見ていた。

 自分よりも、より若い者を生かす。自らの命を擲ってまで。そして云うのだ。

 どうか、私を覚えていてほしい――と。

 私は生きて命を知った。命の喜びを知った。

 私を忘れないで。けれど、あなたは生きなさい。姉が甘露に願ったのは、死にゆく自分を少しでも長く覚えていてほしいということだった筈だ。

 弟は姉のことを知らない。七年前に拾われた弟は、甘露とは血が繋がっていない。流浪の女が産み、切り立った崖の淵に捨てた赤子だ。だが、それが何だというのか。

 甘露は弟を生かして死ぬ。姉が甘露を生かしてくれたように。

 甘露はさらに考える。姉自身もかつて誰かに救われたのだ。甘露が姉の犠牲によって生きながらえたように。

 甘露は思う。簡単なことだ。弟に与えられた役目を奪う。ただそれだけのことだ。但し代償に払われる対価は、甘露の命だった。

 いつからか。誰かがこのからくりに気づいて行動を起こした。それは、一人の少年――あるいは少女だったのだろう。大祭の夜に目を閉じていた子供が、仲間の一人が消えたことに気づく。だが、周囲の誰もが、その子供は気が触れたと思っただろう。いもしない者のために嘆き、その行き先を探し歩く子供を、心ない者たちは狂人扱いしたに違いない。

 たった一人の決意が、どこかで生まれた。そうして、幾人もの子供たちが命を落としていったのだろう。誰かを護る為に。死ぬことを定められた子供を生かす為に。

 姉は、その中の一人だった。甘露もやがてそこへ加わるのだ。

 それはまさしく、人にしかできない行為だと甘露は思う。誰かに命を救われ、堅く閉ざされた秘密という名の扉の陰から、忌まわしい儀式の存在を覗き見た者たち。『雨乞い』の芝居に隠された真実を知った者は、例外なく次の大祭で己の命を誰かに繋げた。だからこそ、甘露は今ここにいるのだ。

 私の代わりに生き長らえなさい。そう祈りながら、愛する者に命を預けて逝った者たちの声が聞こえてくるかのようだ。残された命の期限は七年。この秘密を抱いたまま、生きろ。生きて繋げ。それは半ば義務であり、同時に切なる願いだった。

「……深いな」

 呟いて、甘露は少し笑った。甘露に託された多くの魂の祈りを、どうして無視できようか。



 弟と弟の親友――彼の名も忘却の彼方だ――を伴って畦道を歩き、自作の凧を空に上げる際に、目を射らんとばかりに飛び込んでくる夏の陽光。弟が笑い、親友の背を押して走り出す。途中で振り返って、甘露にも笑いかける。その輝きが甘露にもたらすものは、大いなる喜びに他ならなかった。見よ。世界は美しい。

 よし。僕は死ぬ。この地上に確かに生きた歓喜を抱きながら。


 この頃には、甘露は己が何によって命を落とすのか――朧気ながらではあったが――理解していた。


 甘露は弟に云わなかった。己が死ぬ、とは。

 いつか弟も気がつくかも知れない。この村で行われてきた、忌まわしい儀式の秘密に。だが、もし弟が甘露の真意に気がつかぬまま生きてゆくことができたなら。それこそが、甘露の切なる願いが達せられた証となる。


 大祭が始まる前日、甘露は都へと飛んだ。大祭に隠されたおぞましい真実を、ある人物に語るために。

 甘露が訪ねたのは、数年前から、野菜の買いつけのために村に頻繁に通って来ていた青年である。青年の名は忘れた。ただ、短い赤の巻き毛だけを覚えている。

 青年を遠巻きに見るだけの村人たちとは違い、甘露は進んで彼と言葉を交わした。なぜ彼と関わろうとしないのかと友人の一人に訊ねると、訛り言葉で話して笑われるのが嫌だという答えが返ってきた。だが、実際に青年と関わりを持った甘露には、彼が他人の訛りを聞いて笑ったりする筈がないと分かっていた。

 今思えば、甘露の話す言葉は村には全く馴染まなかった。甘露の訛りのない言葉使いは、赤子の頃から甘露を見守っていた姉から受け継いだものだった。姉も、甘露の知らない兄か姉から話し方を学んだのだろう。母には訛りがあったが、父にはほとんど無かった。つまり、それだけ村の外から人は流れてきたということだ。あるいは、父は都で暮らしたことがあったのかも知れない。都では、訛り言葉を聞く機会はほとんどなかった。それほど、都と周辺の村々との断絶は深いのだ。

 青年の家を最初に訪れたのは、学校の下見を兼ねて都に出た時だ。都を案内してくれた上、彼が育てている美しい飛竜に乗せてくれた。いつからか、都で過ごす間は青年の家で暮らすようになっていた。

 青年の家には、甘露の他にも少年や少女が住んでいた。いつも活気に溢れており、青年の友人たちが彼を慕って訪ねてくる。中でも、一人の女性を甘露は心待ちにしていた。美しい黒髪を一つに束ねた、化粧気のない中年の女だ。異様なほどの美貌が、姉の面影に重なることが度々あった。物腰は穏やかだったが、掛け値のない威厳に満ちていた。何気ない仕草に畏怖を感じることさえあった。

 都に行くことは、甘露にとっては容易なことだった。青年から教えを受けて、彼の飛竜を呼び寄せる術を知っていたからである。

 甘露の顔を見て、青年は云った。聞きたくない。甘露は取り合わず、これまでに知り得た全てを話した。

 僕が選んだ道がどこへ通じるのか、僕はもう知っています。結論から云うと、おそらく僕は消えるのでしょう。

 聞き終えた青年は酷く取り乱した様子で、甘露に思い留まるように云った。なぜ、お前なんだ。他の誰かでは駄目なのか。それこそ、村人が選んだ者をお前が諦めれば済むことじゃないのか。だが、甘露の心は変わらなかった。

 もし、あなたが僕と同じ立場だったら、どうしますか? 選ばれたのが僕で、あなただけが僕を助けられるのだとしたら。

 青年が答える。お前を助けるに決まっているだろう。

 甘露は顔を綻ばせて応える。そうでしょう。あなたはきっと僕を助けてくれる。つまり、そういうことです。

 ついに青年は甘露の強情の前に屈した。ばかやろう、と云われた。煙草の匂いが漂う部屋の主は、あの時、声を押し殺して泣いていたように思う。

「一つだけ、あなたに頼んでも良いでしょうか?」

 声もなく青年が肯く。安堵の笑みとともに甘露は伝えた。

「もしも僕を哀れだと思って下さるのなら、どうか、七年後の大祭を執り行わないようにして下さい。それ以降の大祭もです。もう二度と、あの山で人が殺されないことを僕は望みます。

 そして、どうか探して下さい。なぜ多くの人々が殺されなければならなかったのか。その理由を……。

 あなたに頼むべきことではないかも知れない。でもなぜか、あなたに話せば僕の願いが叶うような気がしたんです。だから、どうか――」

 青年が嗄れた声で答える。

 分かった。俺が何とかする。だから、お前はもう何も心配しなくていい。



 最後の夜、甘露は宿屋で働いている娘を訪ねた。娘は甘露の幼馴染みである。村の誰とも違う風変わりな訛りのある話し方は、まるで甘露のために歌っているかのようだ。

 娘が煎れてくれた紅茶を楽しみながら思う。多分、僕はこの人を好いている。狂おしいほどに。こうなるまでは気がつかなかった。甘露は少しだけ悔やんだ。もう遅い。もっと多くの話をしたかった。二人だけで他愛のない話を交わして、この娘といくつもの夜を明かしたかった。

 甘露は幾度か言葉を紡ごうとして、その度に唇を噤んだ。伝えるのは簡単なことに思えた。その後に何が起こるかが問題だった。

 明日を終えた時、甘露は消える。文字通り消える。僕には明日はあるが、明後日は無い。永遠に無い。全てが終わることを僕は知っている。

 娘の上気した頬を見つめる。甘露の知らない昔話を語る唇に触れたいと思った。机に手をかけて、体を寄せる。娘は驚きもせずに目を伏せ、わずかに顔を傾けた。甘露は触れるだけの口吻けを娘に贈った。それは甘露が自らに許した最後の甘えだった。これくらいは許されるだろう。甘露の世界は明日で終わるのだから。

 何も告げずに消えてゆく甘露を、娘が思い出して懐かしむことはおそらく無い。それでも、この瞬間だけは生々しい現実だった。体を離すと、甘露は満足そうに微笑む。娘は奥二重の愛らしい瞳を細めて微笑み返した。

 さようなら。あなたをとても愛しく思っています。そう、声には出さずに思う。

 人の命は火花のようだ。あっという間に弾けて闇に溶ける。


 大祭の最終日を、甘露は一睡もせずに迎えた。

 小鳥たちの囀りが甘露に告げている。

 ――さあ、行きなさい。舞台の幕は上がった。


 陽が陰り始めた。

 弟に持たせる荷物を確認してから、甘露は弟を呼んだ。

「行こう」

 弟は肯き、手にしていた本を甘露の本棚に戻した。

 階下に降りると、居間の肘掛け椅子に座る母の姿が目に入った。母の顔は哀れなほどに窶れて見えた。甘露は弟に外で待つように促し、母の前に膝を折って座った。母はあやふやな笑みを浮かべて云った。記憶が消えても、遺された物は消えないのよ。いくつもの命を忘れたことは分かるの。見覚えのない娘の晴れ着や、あなたの足には合わない靴を見る度に、私は自分を罪深いと思った。でも、まさか、こんな日が来るなんて思わなかった。

「お母さん。あなたは山を登って下さい」

 甘露は母の両目から流れる涙を見つめていた。

「僕は選びました。誰のためでもない、僕自身のために。僕のために泣く必要はありません」

 甘露は一礼すると、凛とした微笑を母への最後の贈り物とした。

「さようなら。お世話になりました」


 外に出る。待っていた弟が、首を伸ばして甘露の顔を見上げる。

「ごめん。遅くなって」

 甘露は弟の手を引き、弟の親友の家へと向かった。


 弟の親友は不在だった。昨日の芝居で台詞を忘れたと云っていたから、大人たちに稽古をさせられているのだろうと弟が云う。

「かわいそうに」

 甘露は正直な感想を述べた。あの芝居には何の意味もないことを、彼は知ってしまっていた。昨日までの二日間、山頂から花火が上がることはなかった。今夜は花火が上がる。打ち上げられる花火は七発。芝居の山場で「雨乞い」が天へ両手を差し伸べた時をきっかけに、打ち上げが始まるのだと聞かされていた。

「やっぱり、最終日なんだな」

 呟いた甘露を、弟が怪訝そうに見やる。

「何でもないよ」

 甘露は微笑んだ。白い包帯を握る弟の両手に、自らの両手で触れる。

「昨日はどうしてた?」

 弟は得意気に答えた。どこにも行かず、ここに隠れていたこと。両眼を包帯で覆い、決して目を開けずに夜明けを待ったこと。途中で寝入ってしまい、明け方に戻った親友が驚きのあまり大声で叫んだこと。それから二人で朝食を食べて、家に戻ってきたこと。

「ありがとう。約束を守ってくれて」

 甘露は弟を抱き寄せた。

「今日で祭も終わる。決して、山頂の光を見てはいけないよ」

 甘露の両腕は震えていた。

「僕のことを忘れないでいてほしい。……お前だけには」

 弟は答えた。絶対に忘れない、と。甘露はそれを信じたいと思った。それが叶わないかも知れないと思うからこそ、弟の言葉を信じたかった。

 甘露は弟の両眼を包帯で覆った。覆いながら、甘露は初めて自分のためだけに泣いた。嗚咽も無く。言葉も無く。

「生きなさい」

 僕の分まで、とは云わない。お前の命はお前だけのものだから。

「お前には、その資格がある――」

 どうか許してほしい。もう、お前を守れなくなってしまう僕を。

 弟はじっとしていた。小さな手が、甘露の背におずおずと回される。甘露は小さく笑った。

 命は何て暖かいんだろう。



 光が溢れる。脳も体も、もう無い。

 魂だけがある。感じる。あたたかい。

 弟に呼ばれたような気がした。それに応えて、忘れた筈の弟の名を幾度となく叫ぶ。

 失われてゆく。何もかもが。

 思考できたのはそこまでだった。

 甘露の意識の下には悠久の大河が流れ、彼の全てを押し流してゆく。


 ――解けてゆく。

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