【7】アンダルシア(4)

*     *     *


  『血を啜る少年の話』


 「いつ」とも、「どこ」とも分からないのですが……。

 昔々。ある所に一人の少年がいました。その少年は、人とは少しだけ違っていました。


 少年が生まれた国には、いつも白い霧がたちこめていて、人々は皆、寒そうに背を丸めて歩いていたものです。少年は人とは少しだけ違っていたので、いつまで経っても大人になれませんでした。だから誰にも怪しまれないように、数年ごとに住む場所を変えなくてはならなかったのです。

 少年は血が好きでした。赤ワインの比喩などではありません。本物の人の血です。錆びた味のする赤い液体なしでは生きられなかったのです。それも、冷えたものでは駄目で、人の体温と同じくらいがちょうど良かったのです。彼は己の腕の中で人が息絶える瞬間にこそ、生きる喜びを感じていました。

 少しずつ、本当に少しずつ背が伸びて、いつしか少年は青年になりました。見た目が大人になっても、彼は血を啜ることをやめられませんでした。それどころか、ますます多くの血を必要とするようになっていたのです。

 その頃には、数年ごとに住む場所を変えたりはしなくなっていました。数日ごとに、新たな生け贄を探さなければならなかったからです。

 飢えを癒やすために、彼は世界中を巡りました。それは、まさしく血塗られた旅でした。色で例えるならば、どろりと濁った赤としかいいようがありません。彼の旅は、景色を楽しむ喜びではなく、地方によって微妙に異なる血の味を愉しむ悦びのためにありました。彼は飽きることなく血を求め続け、彼と出会ってしまった人を片っぱしから殺してゆきました。人々との出会いは、彼にとって食料との出会いに等しかったのです。さながら彼は、不吉な渡り鳥でした。


 ――でも、幸福な日々などというものは、えてして長続きはしないものです。


 ある夏の夜のことです。彼は言葉の通じない国で、大勢の人に襲われて捕らえられました。人々は怒り狂っていました。彼が、人ならざるものであると本能で感じ取っていたからです。大きな十字架に磔にされた彼は、夜明けを待たずに灼き殺される運命にありました。

 いくつもの篝火が焚かれました。沢山の火が、彼の周りを取り巻いていました。その眩しさ、その熱さは、白い霧の国で生まれた彼にとって、どれほどに怖ろしいものだったでしょう。私には到底分かりません。

 ばちばちと燃える焔に呑み込まれそうになる、まさにその時。彼は足元に迫る炎よりも、もっと大きな光を天に見ました。彼を取り巻く多くの人々も、同じものを見ました。世界の終わりの光景とは、かくも美しいものなのかと感じた人もいたかも知れません。

 彼は、頭のてっぺんから足の先まで呑み込まれてしまいました。

 光が彼を食べてしまったのです。彼の視界は闇に閉ざされ、彼の意識もぼんやりと霞んでゆきました。

 それからの彼は、長い間眠っていました。長い、長い間――。

 死んでいるようでもあったし、生きているようでもありました。

 ……ところが、七百年ほど経った頃でしょうか。彼は突然飛び起きて、こう云ったのです。


「おれは化け物に喰われて、化け物になっちまった!」


 彼の言葉が真実だったとしたら、大変なことです。何しろ、彼は化け物に喰われる前から化け物だったのですから。

 化け物以上の化け物になった彼は、一体どうなってしまったのでしょう。

 それは誰にも分かりません。

 だけどもしも、あなたのそばにいつまで経っても年を取らない男の人がいたら。

 そしてもしも、彼の名前のイニシャルがA=Zだったなら。


 ――あなたは、今すぐ全ての荷物をまとめて、どこか遠くへ逃げた方が良さそうです。


*     *     *


 夜空が輝いている。

 闇を疾る閃光。鋭く枝分かれする稲光に続いて、轟音が耳を襲う。青白い光に眼を奪われる。紛れもない歓喜とともに、希莉江は思う。

 ……あぁ、何て美しいのかしら。

「そんなに雷が好きか」

 アンダルシアが呆れ声で呟く。どうやら思っただけではなく、声に出していたらしい。振り返ると、アンダルシアは笑っていた。

「だって、美しいもの」

 唇を尖らせて云う。

「まったく、お前は嵐の子だな」

「ラーラたちは大丈夫かしら?」

「平気だろう。裏庭には屋根がある。夏の水浴びでもあるまいし、お前みたいに豪雨の中へ飛び込んでゆくような奴はいない」

「でも、ちょっとだけでしたよ。すぐ戻りました。お風呂にも入ったし」

 黒く染め直した髪が、タオルをかけた両肩を覆うように垂れている。所々に、金茶の名残が見え隠れしていた。

「ルールーにも会ってきました。彼女、びっくりしてたわ。莉々〔りり〕が寒そうにしていたから、毛布を取りに戻って、また行ったんです。廊下がびしょ濡れなのは、あたしのせいです。後で拭いておきますね」

「放っとけ。朝には雨も上がる。裏口の扉を開けておけば、昼までに乾くよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて放置します」

「楽しかったか?」

「ええ。凄く」

 悪戯っぽく笑う。

「そうか」

 希莉江の逆側に顔を向けて、赤毛の生え際をアンダルシアの右手が掻く。

「そいつは良かった」

「先生?」

「飯にしよう。腹が減ったよ」

「あたし、作ります」

「分かった。ノルマは一人二品だ」

「先生は何を作るの?」

「肉と豆のスープ。アボカドのサラダ」

「サラダに魚のお刺身入れてもいいですか?」

「ドレッシングはオリーブオイルなんだが」

「お醤油で行きましょう。山葵も入れて。きっと美味しくなるわ」

「……好きにしろ」

 灰皿の底で煙草の火を消して、アンダルシアが台所へと向かった。後に続いた希莉江は、ふと立ち止まって振り返り、窓の向こうを見つめる。

 獣の咆哮のような雷鳴の音が聞こえる。光の乱舞に見とれる横顔は、穏やかに微笑んでいた。

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