【7】アンダルシア(3)

 がたがたと扉を開ける音が聞こえたかと思うと、派手な足音がばたばたと近づいてくる。衝立の陰から、捺夏がひょいと顔を出した。

「何だ、ここにいたのか。探し回っちゃったよ」

「どうした?」

「ご飯にしようよ。おれと叉雷が用意したスペシャルディナーだよ」

「ふざけるなよ。目玉焼きにフレンチトーストのどこがディナーだ。せめて肉ぐらい焼いてから云え」

「よく分かったね」

「匂いで分かる。勿体ない。あの卵は、生で使えたのに」

「悪かったよ。そんなにお金に困ってるとは思ってなかった。いくらか貸す?」

「馬鹿にするな。飛竜のレンタル代は高額だぞ」

「唯一の収入源だもんね。おれたちから授業料を取っておけば、貯えも増えたのにねえ」

「出世払いだからな」

「あ、じゃあおれだめだ。まだ一人前じゃないし」

「村に土地を買ったらしいな」

「買ったんじゃないの。もらったの」

 捺夏は得意気に云い返す。

「大体、こんな時間に夕飯でもないだろう」

「腹が減ったんだよ。アンディだって、よく夜食作ってくれたじゃんかー」

「お前らが、ギャーギャーうるさいからだ」

「ほら、行って。おれはルールーと挨拶してから行くから」

 捺夏は希莉江の右隣に腰を下ろした。

「もう寝てるぞ」

 アンダルシアが立ち上がる。

「分かってるよ。見てるだけ」

「そうか。俺は先に戻る」

 アンダルシアは、言葉が終わる前に歩き出していた。

「――あの人、せっかちなのかしら」

「かなりね」

「展開が早過ぎて、ついていくので精一杯。でも、気分は悪くないわ」

「ここで暮らすの?」

「ええ。そうしても良いって」

「良かった。安心した」

「たぶん……あたしは、運が良かったのね」

「どういうこと?」

「あの村に着いた時には、随分嫌な思いもしたのに、あたし、あなたたちに助けられたんだわ。有り難う。本当に感謝してるわ」

「耕作機が買えるくらいの金額と、おれたちの仕事が釣り合ったかどうかは分からないけど。キリエが辛くなくなったんなら、良かったよ」

「辛くないわ。今は全然。それどころか、何だか、体が内側から燃えてるみたいな感じ」

「そうだね。そんな感じだ。悪くないね。最初に見たキリエより、おれは、今のキリエの方がずっと好きだよ」

「ふ、ふ……っ」

 希莉江の笑い声は湿り気を帯びていた。

「器用だね。泣きながら笑えるなんて。――まあ、キリエは良く頑張ったよ。おれたちは、キリエをここに置いてゆくけど……。あんたは、ここでゆっくり休んで、好きなことをしていればいい。いつか独り立ちするまで、アンディと喧嘩したり、仲直りしたり、遊んだり、学んだりするといいよ」

「ダッカも喧嘩したの?」

「しょっちゅう。くだらないことで。アンディなんか、酷いよ。なるべく人前では煙草を吸わないようにしてるんだけど、お説教の時とかは、歯止めが利かなくなるらしくって、灰皿に山盛りになるまで吸うわけ。でも、さすがにおれたちが煙そうにしてるのは嫌みたいで、窓を全開にするわけ。冬とか、余裕で凍え死ねるから。冬場に悪いことするのはお勧めしないね」

「そう……」

「叉雷が酒に溺れるみたいに、アンディも煙に燻されたいみたいだ。たぶん理由があるんだよ。おれには分からないし、分かりたくもないけど」

「ダッカ。あなたたちがいなくなった後、あたしは、また二人に会える?」

「もちろん。盆暮れには、おれたちだけじゃなくて、アンディの弟子がたくさん戻ってくるよ」

「それを聞いて、安心したわ」

「頑張ってね。おれも、おれなりに頑張るから」

「うん」

 力強く肯く。その顔には、輝かしい笑みが浮かんでいた。


*     *     *


 翌朝。叉雷は、飛竜たちが呼び交わす声を聞きながら目覚めた。

 洗面所で顔を洗って居間へと向かう。扉を開けると、奥の台所に立つアンダルシアの背中が目に入った。

「おはようございます」

「おはよう」

 アンダルシアは振り向きもせずに応える。

「捺夏とキリエは?」

「もちろん寝てます」

「だろうな。ちょうどいい。昨日出来なかった話をしよう」

「はい」

「食器を出してくれ」

 叉雷が肯き、食器棚から皿を何枚か見繕って机に並べる。

「先生。紅茶でいいですか?」

「冷蔵庫に冷えてるのがある」

「あ、はい」


 アンダルシアが用意した朝食を二人で平らげると、叉雷は机の上を綺麗に片づけた。

「ちょっと先生に見てもらいたいものがあるので、取って来ます」

「はいよ」

 眠たげな顔つきでアンダルシアが応える。


 居間に戻った叉雷は、再びアンダルシアの正面に腰を下ろした。

「これを」

 一通の手紙を差し出す。アンダルシアは煙草の箱に手をかけてはいたが、まだ火を点けてはいなかった。煙草の箱を手放して、手紙を受け取る。

「何だ? これは」

「ある女性から送られた手紙です」

「恋文か?」

「まさか」

「ふうん。……予想外の人物からの手紙だな、これは」

「凄いでしょう」

「別に、お前が威張るこたあない。あの降魔師と手紙をやり取りしているなんて、知らなかったよ」

「云ってませんでしたっけ」

「聞いてません」

 冗談めかして応える。

「すみませんでした。先生のご紹介で出会った方だったので、てっきり連絡を取り合っているものだと――」

「別にいいよ。俺は、あの塔とは合わない。こちらから出向いたりはしない」

 アンダルシアは封筒を開いた。

「読んでもいいのか?」

「はい」

 折り畳まれていた上質な紙をアンダルシアの手が広げてゆく。便箋は二枚だ。一枚目に目を通し、二枚目へと続く。

「何とも曖昧じゃないか。『龍について詳しく知る人物をご紹介致します』。あいつ自身は知らないとでも?」

「おれだって知りません。何も。ただ、一度だけ見たというだけで」

「一度見られれば充分だろう。俺は見たこともない」

「本当に?」

「嘘をついて、俺に何の得がある?」

「……無いでしょうね」

「まあいい。そんな話はどうだっていいんだ。お前、アルカードという名に聞き覚えはないか?」

「いえ」

 アンダルシアは瞼を半分落として、遠くを見るような顔つきで言葉を続ける。

「かつて、西欧の地にドラクーラと呼ばれる者たちがいた。太古の昔に滅んだとされる妖たちだ」

「ドラクーラ? まるで……」

「龍のような名だろう。ドラコーンが訛ってドラクーラになったのかも知れない」

「それで?」

 叉雷が目を輝かせて先を促す。

「俺の師が遺した、古い文献を読み漁っていて気がついた。この名が初めて記録に現れたのは四百年ほど前のことだ。だが、以後数百年を経てもなお、そこかしこにアルカードという名が記されている」

 アンダルシアは卓上の小物入れに手を伸ばし、中から真っさらな紙を一枚引き出した。筆立てから一本のペンを取り、叉雷に差し出す。

「アンガルス語でドラクーラと書いてみろ」

 ペンを受け取った手が文字を綴る。筆記体で書いた字を、紙ごと逆向きにしてアンダルシアに見せた。

「その綴りを逆さに読むとどうなる?」

「――アルカード」

「そうだ。文献にはこう書いてあった。『人の生き血を啜り、人の生気を奪って生き長らえてきた種族。その名はドラクーラ。』アルカードという男は何十年を経ても同じ姿を保ち、さながら不老不死のようであった、と」

「その男は龍だったと? 龍は、人の姿に変化できるんでしょうか?」

「そんなことは分からん。ただ、お前が、龍のことを何かとてつもなく神々しく尊い存在だと思っているのなら、俺が見聞きした知識を伝えておくべきだろうと思っている」

 叉雷の書いた文字を見ながら、アンダルシアは呟くように言葉を洩らした。

「この国には龍はいない」

 視線を上げる。叉雷の瞳は、真っ向からアンダルシアを凝視している。

「いや、正確には『いてはならない』んだ」

 赤茶の瞳が叉雷を見返した。

「この国の名前は?」

「彩流泰籠帝国<さいりゅうたいろうていこく>」

「そうだ。お前が気が触れたように探し回っている龍が、この国の名に記されている。彩流とは、この国を縦横無尽に流れる川のことだ。おそらく、沿岸の海のことも含むんだろう。帝国も文字通りだな。では、泰籠とは何か」

「竹冠は籠という意味ですか? それとも檻? 龍は檻の中にいる」

 竹によって編まれた籠。その中には、龍が囚われている。

「そんなところだ。では、なぜそれを奉る? 帝の別名は『彩龍王』だ。いてはならないものを現人神として崇めながら、同時に、龍の存在自体を否定しなければならない理由とは?」

「この国の成り立ちに、龍が深く関わっていたから?」

「当たらずとも何とやらだ」

「遠くはない。ということは、肯定と思って良いんですね」

「俺にだって分からない。何が真実かなんてことは。これは、ただの憶測でしかない」

「龍が人の治世に干渉したりするなんて、考えてもみませんでした。だけど――捺夏と二人で各地を旅していた時に、気がついたことがあります」

「何だ」

「龍を奉る社や偶像は、彩泰以外の至る所で目にしました。それなのに、この国にだけ、それらが無い。でも、そんな筈はないんです。だって、この国が西稜と呼ばれていた時代には、東稜や南稜、北稜との文明差は全く無かったんですから。

 考えてもみて下さい。稜国全ては、かつて「倭の国」として統一されていた。そこから東西南北に国が分かれ、さらに、西稜のみが宗香と彩泰とに分かれた。宗香では、龍への信仰が今でも残ってます。もちろん鳳凰についても。つまり彩泰は、為政者が変わった際に、それまでの信仰や風習を捨てた。捨てざるを得なかったんだと、おれは思ってます」

「そうだな。彩泰の戦のやり口を見ていると、新興の成り上がりが、古き良き友を懸命に調伏しようとしているように感じるよ。降魔師たちを塔に囲って、飼い殺しにしているのも、同じ理由だろう。彩流神宮<さいりゅうじんぐう>の祭主や神官どもは、本心じゃ降魔主ごと降魔寮を潰したくてたまらんのだろうな。そうしない理由は、流石に稜国全ての降魔師を相手に戦うのは得策じゃないと分かっているからだ。何たって、降魔主は龍すら殺せる力を持っている」

「人が龍を殺すんですか? なんて畏れ多いことを」

「おいおい。神殺しは、人間にのみ許された特権だぞ」

「あんな美しいものを殺すなんて、考えられません」

「なあ。なぜ、お前がそれを見ることになったのかな」

 ごく小さな声で云う。叉雷は不思議そうにアンダルシアを見つめている。

「何でもないよ」

 アンダルシアは口元に苦い笑いを浮かべている。煙草の箱に伸びようとした指先を制するように、叉雷が声をかける。

「先生」

「うん?」

「おれの腕のことについては? そろそろ、隠すのもつらくなってきてるんですが」

「何を云ってるんだ。一生隠し通せ」

「冗談ですよね?」

「あー分かった、分かった。情けない声を出すな。いいよ。お前が心底信じた者にだけ、お前の腕を見せてみろ」

「えっ。いいんですか?」

「俺がいいと云ったら、いいんだと云ったろう。お前に初めて会った時にも、俺は同じことを云ったぞ。何度も云わせるな」

「それは覚えてます。でも、本当にいいんですか?」

「くどい。いいものはいい。お前が何もかも晒け出したいと思える相手にそれを見せることができれば、お前の道が拓かれる。まあ、これは俺の願望であって、実際そうであるかどうかは、その時になってみなければ分からない」

「仮定の話ですか」

「俺の勘だ。但し、見せる相手は一人だけだぞ。その相手と生涯をともに出来ると確信した場合に限る。下手な相手を選んだ場合、お前は自らの命を失うかも知れん。せいぜい覚悟してから打ち明けることだな」

「つまり、それは――。女性限定ってことですね」

「お前が男と生涯添い遂げたいなら、別に止めはせん。だが、お前は都で流行りの同性愛好者たちとは違うだろうに」

「まあ、そういう趣味はあまり」

「そこは否定しなくていいのか?」

「じゃあ全否定します。無いです」

「捺夏は駄目だぞ」

「なぜですか?」

「あいつはお前の弟であって、伴侶じゃない。これ以上、お前の不運に巻き込みたくないだろう」

「そうですね。既に充分巻き込んでいる気もしますが」

「たった一人だ。よく考えて選べよ」

「分かりました」

「全くお前は……。相変わらず決まった女もいないんだろうな」

「何で分かったんですか?」

「顔を見りゃ分かる」

「探していない訳じゃないです」

「見つからないだけだと?」

「まあ、――そうです」

「頼むから、一本だけ吸わせてくれ」

「別に、喫煙禁止なんて云ってないじゃないですか」

「顔が云ってるんだよ」

「……なるほど」

「俺に禁煙しろと勧めるなら、先にお前が禁酒しろ。そうしたら、考えてやらんでもない」

「酒無しで、生きてゆける自信がありません」

「安心しろ。おれも煙草無しで生きてゆく気はない」

 いそいそと煙草を取り出し、素早く火を点けて口に銜える。目を細めて煙を吐き出す仕草は、日向で微睡む猫のように幸福そうだ。

「キリエを燻さないで下さい」

「分かってる」

「本当に?」

「……」

 アンダルシアの眉が下げる。ついでのように両肩を落として項垂れた。

「俺の引き取った子の中で、一番生意気なのはお前だ」

「光栄です」

 叉雷は、してやったりという顔で笑っている。


 煙草を三本灰にした後で、アンダルシアはおもむろに立ち上がった。

「お前に渡す物がある。ちょっと待ってろ」

 云い置いて廊下へ出て行く。叉雷は腰を浮かせて急須を取り、中の茶葉が萎れているのを見て立ち上がった。

 台所の流しに茶葉を捨てて、新しいものに替えているうちに、アンダルシアが戻って来る。流し台に急須を置いて振り向いた叉雷は、アンダルシアが手にしているものを見て目を丸くした。

「太刀ですか?」

 歩み寄って問う。

「ああ。俺の師匠からの預かり物だ。刃こぼれさせるなよ」

 叉雷の両手が太刀を受け取る。鞘から刀身を半ばまで抜き、根本に彫られた二つの文字に目を落とした。

「銘入りですね。飛天、ですか」

「斬れ味はいいぞ。ただ斬れすぎる。無闇矢鱈に抜くような物じゃない」

「お借りします」

「使えそうか?」

「何とか。……太刀に触るのは久し振りだな。でも、こんな大事な物をお借りして、本当にいいんでしょうか。おれには型が無いです。色々教えてもらいましたけど、結局我流で終わりましたね。拳闘と同じで」

「型にはまらないのは、お前の美徳だ。頭で考えるより、体が先に動くのは悪いことじゃない。お前には、刃物は持たせたくなかったんだがな。いずれ、これが必要になるだろうと思った」

「有り難うございます」

「喉元に突き立てられる刃をかわすために、自ら前へ踏み出すしかない時もある。求めているものがあるならば、探して来い。諦めの悪いお前のことだ。きっと見つけられるだろうよ」

「はい」

 叉雷は明瞭な声で応えた。鞘と柄を握る手に、自然と力がこもる。

「一つだけ約束してくれ」

「何でしょうか?」

「必ず生きて帰れ。それだけでいい。お前が捜すべきものを見つけたとしても、その代償に、お前の命を捧げたりは、決してしないでくれ。お前が戻らなかったら、俺の吸う煙草の本数が、今よりもさらに増えることを忘れるなよ」

「……」

 叉雷は無言で肯く。肯いてから、ふと口元を歪めた。噛み殺せない心の揺らぎが、碧の瞳に溢れている。

「どうした?」

「先生。あなただけは、忘れていないでしょう?」

「忘れるものか」

 アンダルシアの応えは素っ気ない。だが、叉雷には分かっていた。それこそが、アンダルシアなりの無感情の装い方なのだと。

「――良かった。大丈夫です。おれはまだ、捜しものを見つけていませんから」

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