【7】アンダルシア(2)

*     *     *


 漆黒の空に一点の光が瞬いている。やがて、光は別の風を選んで軌道を変えた。高度を下げて近づいてくる。光の正体は絽々の翼である。

「そろそろ降りるよ」

 予告する声は捺夏のものだ。見下ろした地面の上には、飛竜たちの姿があった。一匹残らず翼をばたつかせ、キュウキュウと歓声を上げて、歓迎の意を表している。絽々は嬉しそうに鼻息を吹き上げた。

「荷物持った? 下に着いたら、すぐ降りて」

 ふわりと着地する。希莉江は、軽やかな身のこなしで絽々の背から飛び降りた。叉雷と捺夏が後に続く。

「うーわ」

 小走りに絽々から離れた捺夏が、どことなく悲しげな声音で云った。

 四方八方から、飛竜たちがちょこちょこと走り寄り、あるいは上空から駆けつけて来る。まるで打ち寄せる波のようだ。中央で揉みくちゃにされている絽々は、両羽根を高く挙げ、誇らしげな顔をしている。

「うぅっ。絽々がいろんな色の毛玉だらけになる。後で洗ってあげないと」

「行こう」

 叉雷が希莉江を促す。

「ねえ。あれ皆、ロロの家族なの?」

「うん、親戚。家族は、ここにはいない」

 後ろから応えたのは捺夏である。


「ただいまー」

 捺夏は、ノックも無しに玄関の扉を開けた。鍵はかかっていない。

「大胆ね」

「おれにとっては、自分の家みたいなもんだからね」

「土足で入って大丈夫なの?」

「うん。靴で平気」

 居間は暗い。灯りが点いていないのだ。捺夏は迷いのない足取りで左の壁に向かい、スイッチを押した。途端に部屋が明るくなる。

「アンディ、どこだろ?」

 振り返って捺夏が問う。その後ろに、廊下に続く扉が見えた。扉は開け放たれている。

「寝室で寝てるよ。真夜中だぞ」

「じゃあ、起こしてきて」

「お前なあ……」

 叉雷が苦笑する。

「その必要はない」

 幾分眠たげな声が、居間に漂っていた和やかな空気を凍りつかせた。叉雷と捺夏が一斉に声の方向を見る。希莉江は目を丸くして、声の主を見つめていた。

 アンダルシアは、一体いつからそこにいたのだろうか。叉雷たちには全く気配を感じさせずに、寝室から移動したようである。

「先生」

 いち早く平静を取り戻した叉雷が呼びかける。

「ご無沙汰してます」

「何だ。まだ生きていたのか」

「お陰様で」

「最後に会ったのは、いつだ。去年の暮れか」

「そうですね」

「その娘は? どこから攫ってきた」

「後で、詳しくお話します。今夜は、ここに泊めて頂いても宜しいでしょうか?」

「いいよ。どこも空き部屋だ。好きに使ってくれ」

「捺夏。彼女を案内してくれ」

「分かったよ。ついてきて」

 後半は希莉江に向けられた言葉である。捺夏と希莉江は、アンダルシアと擦れ違いながら廊下の奥へと向かった。


 居間に沈黙が落ちる。

 足音が遠ざかってもなお、二人は何も話さない。アンダルシアは疲れたように壁に凭れている。

「何だ、あれは。お前、自分が何を連れてきたのか分かっているのか?」

 ようやく、アンダルシアが口を開く。その声は掠れていた。

「新しい生贄ですよ。弟子が全員いなくなって、先生が寂しがってるんじゃないかと思って」

 赤茶の瞳に動揺を見て取り、叉雷は内心驚いていた。努めて表情には出さずに、冗談めかして応える。

「余計なお世話だよ」

 アンダルシアの手が食器棚を開け、中から煙草を箱ごと取り出す。

「あの娘の名は?」

「キリエです」

「あれは危ないぞ」

「なぜ?」

「妖の血が入ってる。あれは人妖(じんよう)だ」

「やっぱり」

 驚いた様子もなく応える。

「それなら、先生と同じですね」

「だったら何だ」

「おれ、旅に出るんですよ」

「勝手にしろ」

「あの子を預けます。育ててあげて下さい」

「嫌だよ。なぜ俺が」

 手の内で弄んでいた煙草の箱から一本取り、火を点した。

「先生なら、あの子を助けることができる。かつて、おれにそうしてくれたように」

「俺は、お前を育ててなどいない。ただ放っておけなかっただけだ。お前のことも、捺夏のことも」

 アンダルシアは苛立たしげに語る。

「お願いします」

 叉雷は深々と頭を下げた。

「やめろ。そんなことはしなくていい」

 白煙を吐き出しながら云う。対する叉雷は、未だ礼の姿を保ったままであった。

「分かった。しばらく預かってやる」

「有り難うございます」

 ようやく面を上げた叉雷が破顔する。

「先生。あの子は、おれの心を読みました」

「だから何だ。人妖なら当然だろう」

「それだけじゃありません。彼女には、人を惹きつける不思議な力がある」

「前にも云ったろう。人妖は人を魅了する。人の心を引き寄せ、生きる力を吸い取るために、人妖の姿はおしなべて美しい。桁外れの美貌を持つ者がいたら、まず妖の血が入っていると思っていい」

「あの子を無給で働かせていた主人は、異常なほどあの子に執着していたそうです」

「そうか。両親は健在なのか?」

「いえ。父親はいないと。母親に育てられたと云っていました。その母親も、二年前に亡くなったそうです」

「ということは、父親が妖か」

「……なぜ?」

「そう簡単に人妖が死ぬ筈がない。母親が死んだ真似でもしたというなら、話は別だが。おそらく本当に死んだのだろうよ。あの娘は、勘の利きそうな顔つきをしていたからな」

 机に近寄り、灰皿に灰を落とす。再び口に銜えると、アンダルシアは叉雷に背を向けたまま声を発した。

「俺がなぜ、伴侶を持たずに生きているか分かるか?」

「いえ」

「叉雷。お前は『特別』だ。忘れるなよ。あの娘と毎夜肌を合わせたとしても、お前は死にはすまい。だが、並みの人間であれば数年で昇天することだろう」

「どういうことですか」

「人妖は、己に対して好意を持つ人間の精気を吸い取る。人妖であれば誰でもそうだ。本能を制御することは出来ない。人が食物を摂らずには生きられないのと同じく、人妖は己を愛する者から命を奪う。あの娘の父親は、あの娘が生きているとも知らずに、今もどこかを彷徨っていることだろうよ。もし知っていたなら、母親の元に残しておく筈がない。人妖同士は互いの命を奪い合うことは出来ないからな」

「――あなたは、だから一人でいるんですか」

「くだらない話をした。忘れてくれ」

 火を消した煙草を灰皿に捨てる。少ししてから、アンダルシアは叉雷に向き直った。

「あの娘は俺が預かる。お前はもう、何も心配しなくていい」

「はい。有り難うございます」

 赤茶の瞳からは感情の揺らぎが消えていた。冷徹とさえいえる表情で叉雷を見ている。

「腕は誰にも見られていないだろうな」

「もちろん」

「誰にも見せるなよ。捺夏にもだ」

「見られてませんよ。だけど、なぜこうまでして隠さなきゃならないのか、分からなくなる時があります」

「この国にお前がいる。だからこそ、俺は何度でも云う。他国ならいざ知らず、この国では決して他人に腕を見せるな。俺が許した相手以外にはな」

「なぜ?」

「その話は明日にしよう。今日は俺も疲れた。あの娘に挨拶したら寝るよ」

「分かりました」

 アンダルシアは椅子の背凭れから大振りの白い毛布を取り上げると、それをばさりと肩にかけた。


 廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの裏口から外へ出る。

「あ、先生」

 正面に、銀のボウルを抱えた捺夏が立っていた。

「一足遅かったか。ここだと思ったんだが。あの娘は、どこへ行った?」

「惜しかったね。ついさっきまで、ここにいたよ。もう中に入った。『寒い、寒い』って云いながら。シェールの部屋にいるよ」

「まったく。お前は、目上に対する口の利き方がまるでなっちゃいないな」

 嘆息しつつ云う。捺夏を招き入れて扉を閉めた。

「おれの分まで、叉雷が行儀よくするから」

 云い訳とも開き直りとも取れる答えを返してくる。

「それに、アンディはおれの家族みたいなもんだし。だいたいアンディだって、おれより叉雷のことばっか気に掛けてたくせに」

「……確かに。お前のことで心配した記憶は無いな」

「だよね」

 廊下は途中で二股に分かれている。アンダルシアは居間の方向ではなく、右に曲がろうとした。捺夏が手を伸ばして、アンダルシアの肘を掴んで引き止める。

「何だ」

「あのさ、ルールーはどこに行ったの? あの子だけ見つからなかった」

「お前、まさか全員に挨拶したのか。凄い体力だな。ルールーは囲いの中にいるよ」

「あーあー、そうだったのか。去年来た時には、全然気づかなかったよ」

 顔を綻ばせて肯いている。

「無理もないさ」

「うわー、おめでとう! じゃあね、お休み」

 銀のボウルを掲げて挨拶をする。

「お休み」


 ノックの音は、さほど大きくはなかった。返事が無ければ、明日にするつもりだったのかも知れない。

「――サライ? それとも、ダッカ?」

「残念ながら、どちらも違う」

「……!」

 慌てる気配の後、扉は勢い良く向こう側から開いた。蝶番が軋む音が廊下に響く。

「あっ、あの……、お邪魔してます」

 希莉江が云う。背の高いアンダルシアの顔を、爪先立ちになって見上げている。

「俺はアンダルシアという。お前の名は?」

「あたしは、希莉江です」

「入っていいか?」

「はい」

 部屋に入ると、アンダルシアは希莉江に一脚しかない椅子を勧めて、自身は閉じた扉に背中を預けた。希莉江は背筋を伸ばして、アンダルシアの言葉を待っている。

「叉雷からは、どんな話を聞いた?」

「あなたが、サライたちの先生だと聞きました。それから、あたしがここで働けるように、あなたに頼んで下さるって」

「キリエ。お前は、どうしたい?」

「どうって――」

「本当に、ここで暮らしたいのか?」

「はい」

「よし分かった。お前は今日から、この家の居候だ」

 きっぱりと口にする。アンダルシアは薄く笑っているようにも見える。

「えっ! ……いいんですか?」

 応える希莉江はしどろもどろである。実のところ、彼女は全く期待していなかったのである。それだけに驚きは大きなものだった。

「ここで働きたいんだろう。思う存分働けばいい」

「どんなことを……?」

 不安の色が希莉江の瞳を翳らせた。忌まわしい記憶が、夏の終わりの花火のように激しく弾けながら脳裏に浮かび上がり、音もなく消えてゆく。

 ――寝入りばなに目に入る、五本の指。ほんの少しだけ開けられた扉の陰から、希莉江を凝視している男の顔。温い闇の中で男が呟いている。「お前は私のものだ。可愛い子」「私の希莉江」と。あの粘っこい視線。ねっとりと絡みつく蛇のような声。希莉江に対する主の歪んだ愛情は、今なお重い鎖となって彼女を苛んでいるのだった。

「自分で考えろ」

 アンダルシアが返事を返す。

「俺は、お前に一切指図はしない。掃除でも炊事でも洗濯でも洋裁でも踊りでも勉強でも虫取りでも、何でも好きにやれ。自分がやりたいと思うこと、やるべきだと思うことを。これまで、この家で暮らしていた奴らも、皆そうして来た」

「……」

「お前は自由だ」

 アンダルシアは当然のように云った。希莉江は目を見瞠いたまま固まっている。

「ただ、次の三つのことだけ守ってくれれば、それでいい」

「――何でしょうか?」

 アンダルシアの右手が希莉江に向かって差し出された。その拳は、ゆるく握られている。

「一つ。人の物を盗らないこと」

 親指だけがひょいと上がる。

「二つ。約束を破らないこと」

 次いで人差しが上がった。

「三つ。自分に嘘をつかないこと」

 最後に中指を上げて云う。

 希莉江はじっとしている。ひたむきな瞳がアンダルシアを見つめている。

「これだけ守れれば、お前はもう一人前の人間だ。俺はお前に何かを強制しない代わりに、お前をどこかへ導いたりもしない」

「……!」

 何かが啓けたような気がした。希莉江の心を包んでいた堅い鎧が、音もなく崩れ落ちてゆく。

「あたしは……」

 茫然としながら、希莉江が呟く。

「自分がどこから来て、どこへ行くのかは、お前自身が決めることだ。俺は、お前に『あっちへ行け』だとか『そっちは駄目だ』などとは、口が裂けても云わん。なぜなら、云っても無駄だからだ。

 お前が進むべき道の始点は、ここにある」

 右手の掌を下へ向ける。

「お前の下に横たわる、この傷だらけの床が出発地点だ。人は、どこからでも始めることができる。何度でも。自分がそれを望みさえすればな。そしてまた、どこでも好きに終わることができる。『もう疲れた』『ここで終わりだ』と云って己自身を見限ってしまった者は、そう口にした時点で、すっかり気の抜けた廃人になっている。そんな姿をいくつも見てきた。

 ここからどこへ行くか。今から何を為すのか。それは、お前以外の誰にも決められない。誰一人として、お前の代わりにはなり得ないのと同じ理由で。お前が決めなければ、選択は永遠に保留され続ける」

 圧倒的な眩さを伴って、アンダルシアの言葉が希莉江の心へと呑み込まれてゆく。長い間、胸の中に立ちこめていた霧が晴れてゆくようだと思った。

 目に映る全てのものが、これまでとは違って見える。なんて眩しい。心に射し込んだ一縷の光は膨張し、無限に拡散してゆく。

 希莉江は、己の心が震える音を聞いたような気がした。アンダルシアは、希莉江に選択を迫っている。彼は、希莉江が彼女自身の魂に従うことを望んでいるのだ。これを自由と呼ばずして、何を自由と呼べよう。

 魂の自由。これこそ希望そのものだ。希莉江が望み続け、ついに今この瞬間まで得られなかったものだ。

「素敵……」

 そう云って、希莉江は微笑む。ここにいるのは、宛てもなく彷徨う流れ者などではない。強い眼差しをした少女だった。じわじわと拡大してゆく静かな嵐を内に秘め、瞳を白く光らせて笑っている。

「あたしは、自分の命を自分で選ぶことができるのね」

 希莉江の命。希莉江の人生。希莉江の心。それらは全て希莉江のものだ。希莉江は、全身を燃やすような強さで願う。

 あたしは自由だ。もう二度と、あたしの自由を誰にも買わせてなるものか。

 この先どうなるのかなんて、誰にも分からない。どれほどの苦しみを――あるいは喜びを?――味わうことになるのかなど、分かる筈がない。だが希莉江はもう、不可視の未来自体を心待ちにしている己を悟っている。

 希莉江は椅子を引いて立ち上がった。

「お世話になります」

 腰を折り、深く頭を下げる。顔を上げると、アンダルシアの目元が笑っていた。

「さっそくで悪いが、少しつき合ってくれ」

 後ろの扉を顎で示す。

「上着は持っているか?」

「あ、あります」

「着た方がいい」

「はい」


 裏口から外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。壁沿いに歩くアンダルシアの背中を、希莉江が追う。大きく張り出した屋根の軒下には、三枚の竹塀で作られた衝立が立っていた。おそらく風除けのためだろう。

 アンダルシアが衝立の内側に入り、希莉江が続く。そこには、ほっそりとした体つきの飛竜が横たわっていた。毛並みの色は菫色である。

「具合はどうだ」

 白い毛布を肩から下ろし、芝生の上に広げる。

「ルールー、この上に寝ろ」

 呼びかけられた飛竜が、億劫そうに首を伸ばした。少し間を置いて、のろのろと寝返りを打って移動する。希莉江は、アンダルシアの隣にしゃがみ込んだ。

「もしかして、身ごもってるんですか?」

「よく分かったな。七ヶ月目だ」

「いつ生まれるんですか?」

「あと一月もすれば生まれる」

 希莉江は不思議そうに目を瞬いて、ルールーを見下ろしている。長い睫毛が上がり、希莉江と同じ紫色の瞳が彼女を見返した。

「仔が生まれるまで、こいつの世話を手伝ってほしい」

「はい」

 ルールーと目を合わせたまま肯く。

「これも何かの縁だ。生まれた仔は、お前にやる。名前を考えておいてくれ」

「えっ」

「但し、使える音は一つだけ。同じ音の繰り返しが含まれていなければ駄目だ」

「なぜ?」

「そうでないと、名前だと分からないのさ。飛竜には、俺たちの言葉は分からない」

「嘘。捺夏は絽々と会話していたわ」

「それは、あいつらの心が互いに繋がっているからだ」

「……」

 希莉江は、無言でアンダルシアの横顔を見上げた。細い鼻梁と、高く吊り上がった目が目に入る。叉雷のような甘さは無いが、並み外れて整った顔立ちをしていることに気づかされる。だが、それだけでは、希莉江の胸のざわめきを説明しきれない。

「あの――」

「何だ」

「おかしいと思われると思うんですけど、あたし、あなたが他人のような気がしないんです」

 アンダルシアは何も応えなかった。手を伸ばして、ルールーの額を指先で撫でる。希莉江が視線をルールーへ戻すと、紫の瞳は既に閉じられていた。

「お前の直感は、お前を正しく導くだろうよ。だが、それだけに支配されて生きるのは、勿体ないことだと思う」

「どういう意味ですか?」

「お前には目があり、口も頭もある。手もある。足もある。すぐに答えを出そうとするな。悩むことも考えることも、決して無駄じゃない。長い人生の中では」

「……分かりました」

 こくりと肯く。この頃には、ルールーは穏やかな寝息とともに眠りに就いていた。

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