【7】アンダルシア(1)
柔らかな風が、青々とした草地を波のように揺らしている。素朴な木造の家屋に囲まれた円形の広場があり、地面のそこかしこで、キャベツやレタスなどが育っている。それらは市場で売られるためではなく、ある生き物たちの日々の糧として作られている。
広場の中央近くに、何かふわふわとしたものが沢山集まっている。飛竜の群れだ。その数は、ゆうに二十を超えている。飛竜の色は様々だが、毛並みの色味はどれも淡い。薄水、灰、薄紫、薄い橙、遠浅の海の碧を薄くしたような色の飛竜もいる。羽毛が風にそよそよとなびく様子には、幻想的な美しさがあった。
少し離れた場所から、一人の男が飛竜たちを見守っている。両腕を胸の前で組み、片足に重心をかけて立っている。男は赤い髪をしていた。短く刈り込まれた髪は、それでも巻き毛のそれと分かる。口元に皮肉気な笑みを浮かべている。
男は名をアンダルシアという。姓は無い。親しい友人たちは、おおむね彼を「アンディ」と呼ぶ。
アンダルシアは彩楼の西側の外れに住んでいる。貧民窟の東出口を出て、真東に向かい、いくつかの農村を過ぎた所に彼の家はある。倭国風の古びた木造の家屋は、周囲からは「飛竜の家」と呼ばれている。家をぐるりと囲む広大な庭の中で、大勢の飛竜たちが歩き回ったり飛び回ったりしているからだ。
この場所は、アンダルシアが農村から借り上げている敷地の一部である。毎朝と毎夕、ここで飛竜たちに食事をさせている。
飛竜たちは首を屈めて野菜を食んでいる。飛竜の大きさはまちまちだ。大型のものから、アンダルシアの膝までの背丈しかないものまでいる。
アンダルシアの足元には、薄桃色の毛並みが美しい雌の飛竜が眠たげな様子で蹲っていた。
「ラーラ。飯だぞ」
低い、朗々とした声だ。だが若くはない。かといって老いてもいない。外見は三十くらいに見えるが、奇妙に老成した風情がある。
「起きろ」
ラーラと呼ばれた飛竜の頬を、アンダルシアの手が軽く叩く。ラーラは目を開けずにキューンと応えた。一向に体を起こそうとしない。
「寝汚いな」
アンダルシアは呆れ声で云った。その間にも、腹を満たした飛竜たちが次々にアンダルシアの元へと向かってくる。入れ替わり立ち替わり現れる飛竜たちは、主たるアンダルシアと朝の挨拶を交わそうとしているのだ。押し合いへし合いしながら押し寄せる飛竜の鼻先や額に手で触れてやりながら、アンダルシアは一匹一匹に声をかけてゆく。
曰く――。「お前、大分羽根が汚れてるな。後で水浴びして来い」、「何だって、お前らは同じ体格の相手の背中に乗ろうとするんだ? 無駄な努力はやめろ」、「食欲が無いのか? 喰わんと死ぬぞ」、「ナナッ! 俺の服を伸ばすな」……等々。
「もうやめろ。俺は家に戻る」
飛竜の海に溺れそうになりながら、アンダルシアは、円周上に並んだ家々を縫うようにして走る道の一つに向かって歩き始めた。途端に、彼の薄灰のジーンズを捕まえようと、いくつもの口が襲いかかってくる。
「こらっ」
舌打ちして向き直る。キュイキュイと喧しく鳴いているのはラーラである。
「飯が先だ。後で遊んでやる」
片手でラーラの額を小突く。ラーラは、なおもキューキューと鳴き続けている。そこに、姉貴分らしい薄茶の飛竜がトットッと歩み寄って来た。薄茶の飛竜の顔つきは明らかに怒っている。ラーラに向かって羽根を振り上げると、「ホァーッ!」と怒鳴りながら、薄桃色の小さな頭をしたたかに横殴りにした。人間で例えるならば、裏拳で殴りつつ「うるっさい! 黙れ」と叫んだといったところか。反動でラーラが地面に投げ出される。
「……キュゥ」
今まさに絞め殺される獣のように一声洩らしたのを最後に、ラーラはようやく口を噤んだ。
アンダルシアは、笑うべきか怒るべきか迷ったような目つきで二匹を見下ろし、結局どちらも選べずに氷のような無表情を選んだ。但し、その口元は堪えきれない笑いに緩んでいたのだが。
「全員食べ終わるまで、大人しくしてろ。勝手に行動するなよ」
踵を返して歩き出す。後ろでは、めそめそしているラーラが薄灰の大型の飛竜に慰められていた。
「アンディさーん」
五、六歩進んだところで名を呼ばれる。アンダルシアにとっては聞き慣れた声だ。視界を巡らす。近隣の農家の次男坊が駆け足で近づいてくるのが見えた。
「どうした」
「トトが、肩に怪我しちゃって」
息を切らせたまま云う。年の頃は十二、三だろうか。肌寒い空気に抵抗するかのような薄着だ。アンダルシアとは旧知の仲である。
「血は?」
「少し出てる。歩いてる途中で転んだみたい。どうしたらいい?」
「看てやるから、お前は先に戻れ。湯を沸かして、要らない布を用意しておいてくれ」
「分かった。うちで待ってるから」
「待て。一匹貸してやる。乗って行け」
「いいの?」
「ジジ、行け」
先ほどラーラをしばき倒した薄茶の飛竜に、親指で合図を送る。ジジは満足げに喉を鳴らすと、頭を下げて腰を屈めた。少年は「ありがと」と云いながら、ジジの背に乗り上げる。
「お先に」
軽い会釈をして、ジジの項に両手を置く。薄茶の羽根が広がったかと思うと、ジジは少年を乗せて高く舞い上がった。アンダルシアと飛竜たちが見守る中、ジジは大空を横切って丘の向こうへと消えてゆく。
「さて」
残されたアンダルシアは思案顔で飛竜たちを見た。
「俺を乗せてくれる奴はいるか?」
云った後で、アンダルシアはさっそく後悔した。
「……」
そこにいる全ての飛竜が、スラリと優雅に両羽根を広げていたからである。つぶらな瞳は一様に輝いていた。アンダルシアは苦笑いを見せる。
「分かった、分かった。ついて来い。人に迷惑をかけるなよ」
ラーラの背に跨ると、アンダルシアは一呼吸で空へと駆け上って行った。
* * *
「大した怪我でなくて、良かったな」
ラーラの項を、とんとんと右手で叩きながら云う。薄桃色の飛竜は「キューン」と鳴いて賛同の意を表した。
地上には、アンダルシアの屋敷が小さく見えている。上下左右で滑空する飛竜たちは、それぞれに好みの場所を目指して着陸の準備を始めていた。アンダルシアの赤茶の目が細められる。玄関口の正面で、一人の娘が彼を待っていた。
「ラーラ、ここで降ろしてくれ」
軽く首を下げて、ラーラが急降下する。ふわりと地面に降り立つのを待たずに、アンダルシアは草地に飛び降りていた。足早に娘の元へと向かう。
目尻の下がった、大人しげな娘である。長い髪は白に近い銀で、瞳は鮮やかな赤だ。肌の色は、アンガルス人のそれよりも、さらに白い。年の頃は十七、八だろうか。すらりと伸びた細い体は、濃紺の着物と浅黄色の羽織に包まれている。両頬が薄紅に染まっているせいか、娘は童女のようにあどけなく見えた。両手に、紫の布にくるまれた細長いものを抱えている。
「夕凰〔ゆうおう〕」
娘の傍近くに立って、静かに呼ぶ。アンダルシアの声からは感情が抜け落ちている。娘――夕凰が小さな会釈を返した。
扉の鍵を開けたアンダルシアは、夕凰を促して家の中へと招き入れた。
「適当に座ってくれ」
云いながら、椅子を引いて座る。
「失礼します」
夕凰はアンダルシアの正面の椅子へ腰を下ろした。続いて、両手に抱えていた荷物を机に置く。娘の身のこなしは洗練されていて無駄が無く、優美そのものと云えた。
「その姿で、ここまで来たのか」
「いいえ」
白い面が横に振られる。
「途中まで、旦那様と一緒でしたの。私を置いた後で、西へ」
「あいつ、俺に会わずにどこへ?」
「存じません」
「塔に寄らなかったのか。お前たち、あの方には会ったのか?」
「いいえ」
アンダルシアは懐の煙草に手を伸ばした。灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。ろくに吸わずに唇の端で煙草を押さえた。
「本当のところはどうなんだ」
「云えませんの」
アンダルシアの眉間に皺が寄る。対する夕凰は、僅かに首を傾げて微笑んで見せた。
「不便なものだな。俺と同族なら、お前が何を考えているのか手に取るように分かるんだが」
苛ついた様子を隠そうともせず、鋭い目で夕凰を睨む。
「私、人ではございませんもの。もちろん、あなたもそうでしたわね」
「わたし」ではなく、「わたくし」と名乗る。夕凰の声は慎ましさに溢れていたが、一音ずつ明瞭に発音するためか、幾分間延びして聞こえた。
「……」
暫しの沈黙の後、夕凰は懐かしむように辺りを見回す。
「お一人ですの?」
アンダルシアに問う。
「ああ」
「お淋しいこと」
「そうでもないさ」
アンダルシアは苦笑している。
「それより、用件は何だ」
「これですわ。お預かりしていたものを、お返ししに来ましたの」
夕凰は筒状の紫の布の端を開け、中から一振りの太刀を取り出した。直線ではなく、優美な反りを持つ刃物の形は、倭国のものだ。刀は鞘に収まっていた。鉛で作られた鞘には、翼を広げた鳳の図案が見事な彫りで施されており、両羽根の部分に金銀の箔が貼られていた。銀色の鍔を間に挟んで、刀身を支える柄は黒い。アンダルシアはくわえ煙草を口から外して、灰皿の底で火を消した。
「有り難う」
両手で受け取る。そのまま席を立ち、居間から廊下へと消えた。
ややあって、手ぶらで戻って来る。
「助かったよ。手入れは無事済んだのか?」
「刀身は磨いてありますの。これで、しばらく保つと思いますわ」
「俺に返して良かったのか? お前たちが持っていても構わなかったんだが」
「あれは人のために打たれた刀ですもの。お好きなように使って下さって構いませんの。でも……そうですわね。あの刀が、人のために使われることを願っております。取り扱いには、充分お気をつけて。人を選ぶ刀ですわ」
「ああ、そうだな」
素っ気なく応える。
「何か飲むか?」
「いいえ。私、もうお暇しなくては」
「久し振りに会ったのに、随分と忙しないな」
「仕方ありませんの。今はかき入れ時ですもの」
「五月祭の紅白餅か。まあ、頑張ってくれ」
アンダルシアは二本目の煙草に火を点けた。
「前にくれた餅は美味かったよ」
「当然ですわ」
誇らしげな声で応える。
「ねえ、アンディ。あなた、あの方は今でも生きてらしてると思って?」
「当然だろう」
アンダルシアが負けじと応える。夕凰は満足そうな笑みを浮かべた。
「信じていらっしゃるのね。もちろん、私も同じ思いです。だけど、そうね――。あなたにも、相応しい方が見つかるといいのに」
「人間に囲まれて暮らす変わり者に、嫁いで来るような女はいないさ。そんなことより、気をつけて帰れよ。お前に何かあったら、俺はお前の旦那に八つ裂きにされるだろうよ」
「ありがとう。気をつけます」
夕凰が立ち上がるのを見て、アンダルシアが後に続く。夕凰は滑らかな足取りで玄関へと向かう。
「またお会いしましょう」
扉の前で振り返り、淑やかに会釈をする。アンダルシアは無言で肯いた。白い手が扉を開け、するりと外へ抜け出してゆく。
残されたアンダルシアは、扉が閉まるのを待たずに背を向けた。直後、とてつもなく大きな音と風が扉を揺らす。それはまさしく、羽ばたきのそれであった。喰いしばった歯の隙間から、獣の唸り声が上がる。吸いかけの煙草は、彼の手の中で握り潰されていた。
「……生きているか、だと? ふざけるな」
アンダルシアの目は怒りに燃え上がっている。
「くそ生意気な金翅鳥(こんじちょう)どもが。塔を囲む結界の意味に、この俺が気づかないとでも思っているのか」
吐き捨てるように云うと、足音も荒く廊下の奥へと向かって行った。
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