【6】希莉江(5)

「……あ、あたし」

 間を置いて、希莉江がのろのろと身を起こす。小屋には、希莉江の他に人の気配は無い。そのことに気づいた時、激しい違和感に襲われた。何かがおかしい。

「誰か」

 いた――と思いはするものの、確信は持てない。全身に鳥肌が立ち、希莉江は声もなく身震いした。誰かが……何かがいた。とてつもなく怖ろしいものが。怖い。

 だが、身も凍るほどの恐怖は長続きはしなかった。それを上回る感情が希莉江を襲ったからだ。それは戸惑いとも、嬉しさとも、驚きとも違う。

 すらりとした体つきの青年が、引き戸を開けて中へと入ってくる。ぐっと胸が詰まって、辺りの景色がぼやけてゆく。

「やあ」

 これほど、この場にそぐわない言葉も無かっただろう。

 穏やかな顔が一瞬何か鋭いものに触れたかのように強張り、すぐに元の表情に戻ってゆくのを、希莉江はぼうっと見つめていた。彼女はふと、主に連れられて映画館で観た映画の何本かを思い出してしまって可笑しくなる。酷く整った顔立ちの、凛とした立ち姿の俳優がいて、彼女は彼が好きだったのだ。今思えば――叉雷は彼に似ている。とてもよく似ている。

「おいで」

「……サライ!」

 体を起こすのももどかしく、希莉江は両手を伸ばして叉雷の元へと走った。

「遅いわ。護衛失格よ」

 希莉江の頬には幾筋もの涙が流れていた。

「遅い? 君は無事だと思ったんだけど、違ったのかな」

「無事よ。見りゃ分かるでしょ」

 涙声ではあるが、彼女らしい切り上げ口調で応える。

「行こう」

「どこへ行くの?」

「すぐ近くさ。絽々が待ってる」

 叉雷が歩き出すのに遅れて、希莉江も足を踏み出した。


 小屋を出てから、希莉江は何度も後ろを振り返った。目覚めてすぐには気がつかなかったことが、今なら分かる。

「サライ。あの小屋の中で、変な臭いがしてなかった?」

 叉雷が希莉江を見る。

「ものが焦げたような臭いだったな。でも、なぜかは分からない」

「そう……」

「君は運がいい」

 叉雷の表情は見えないが、微笑んでいるのだと声で分かった。

「えっ?」

「おれが助けたいと思った人は、なぜだか皆助かるんだ。君も――」

 足早に歩く叉雷を、おぼつかない足取りの希莉江が追う。

「あたしを助けたいと思ったの?」

 吹き出す寸前のような顔をした希莉江は、ぐっと息を吸い込んでから云った。

「このあたしを? なぜ?」

「人を助けるのに理由が要るの?」

 やめて! 希莉江は声ならぬ絶叫を聞いた。叫んでいるのは希莉江自身だ。そんなに真っ直ぐな目であたしを見ないで。これ以上、あたしを暴かないで。思い出したくない! あたしはもう何も感じたくない! 何一つ思い出したくなんかないの!

「人! このあたしが……」

 希莉江は、己と叉雷とを同時に笑い飛ばした。

「君は人だ。たとえ、君自身がそうと思っていなくても」

「あたしは奴隷だった!」

 恥も外聞もかなぐり捨てて絶叫する。

「生まれた時から、……ずっと」

「キリエ」

 叉雷は少女の体を抱き上げ、己の腕の中に取り込んでしまう。優しく包み込むように。あるいは、全身全霊をもって癒そうとでもするかのように。

「あんたに分かる? 自分の命をお金で買われ続けてきたあたしには、お金よりもずっと大事なものがあったの」

 激情のためか、小さな肩は小刻みに震えていた。酷く頼りなげな様子のまま、希莉江は叉雷の前で彼女自身の心を晒け出そうとしている。

「――それは何?」

「自由よ」

 絞り出すように応える。

「だけど、あたしは逃げ出せなかった……。母さんがいたから」

「君は奴隷なんかじゃない」

「違う。あたしは貧しさの中で死ぬことよりも、檻の中で生きのびる方を選んだんだ」

「それのどこが悪い?」

「……母さんが体を売っていたのに、あたしは売らなかった。二人で逃げてしまえば自由になれた。だけどあたしは、飢えて死ぬのはいやだった。ここで生きる人たちのように」

 叉雷は、痛ましいものを見るように希莉江を凝視している。

「だから君は、人を助けたいと思ったのか」

「あたしが助けたかったのは、あたし自身だ」

 自由が欲しいと望みながら、人の金で喰い繋いできた。紫の瞳は涙で曇っている。

「人を喰う小人なんか、ほんとはどうだってよかった。あたしはただ、あたし自身を助けてあげたかっただけよ」

「キリエ」

「苦しい。サライ、あたしを殺して」

 あたしを喰い殺して。ばらばらにして。心も体もいらない。何も考えたくない。

「馬鹿なことを」

「あたし、きっと死に場所を探してた。あんたなら、あたしを」

 出逢った時から、叉雷のことが怖かった。惹かれながら怖れていた。怖れながら惹かれていた。

「おれは誰のことも殺さない」

 叉雷の手が伸びる。希莉江の頬を伝う涙を拭った。

「あたし……あたし、どうすればよかったの。あそこにずっといて、あいつに従っていればよかった? ずっと? 死ぬまで? あたしは母さんの葬式にも出られなかった! お墓があるのかどうかも知らない。――でも、あの時逃げてなかったら、あたし、きっと」

「君は悪くない。君は誰かの命を奪った? 相手が狂ってしまうほど、誰かを傷つけたりしたの?」

「いいえ……。でも、奴隷に逃げ場所なんか無いのよ。あいつはまだ、あたしを探してる」

 青ざめた唇が絶望に喘ぐ。

「罪は償うことができる。そもそも、君の行動を罪とは呼べない」

「なぜ?」

「貧しい者、弱い者を自らの欲を満たすためだけに捕らえ、給金も自由も与えずに働かせている奴らの方が、余程罪が重いとは思わないか?」

「そんなこと……。考えたこともなかった」

「だったら、今から考えるんだ」

「あたしを殺してくれないの」

「おれは君に生きていてほしい。たとえ、それがおれのわがままでしかなくても」

「あたし……あたしは」

「生きなさい」

 強い声。優しさだけではない。厳しさをも内包する声だ。希莉江は弾かれたように顔を上げる。

「君には、その資格がある」

「サライ」

 水晶のような紫の瞳が問いかける。――あなたはなぜ、そんなに辛そうに、その言葉を語るの。まるで、自分自身が生きていることが、最も重い罪であるかのように。


 草むらに足を踏み入れる。辺りの暗さのためだろう、脛に触れる雑草が黒く見えた。灯り一つさえない。闇の海のような光景の中を、希莉江は叉雷の背だけを頼りに歩いてゆく。

「絽々」

 先を行く叉雷が声を上げる。立ち並ぶ木々の間に、絽々が白い体を屈めているのが見えた。希莉江たちが近づくと、伏せていた顔を起こして「キュッ」と鳴く。絽々の背に捺夏の姿が無いことに、希莉江は違和感と心細さを感じずにはいられなかった。

「乗って」

 促す声は静かだった。絽々の背に縋ると、その暖かさに新たな涙が零れそうになる。

「ロロ」

 キュウと絽々が鳴いて応える。なぜか、「ごめんね」という言葉が唇から洩れていた。

「君は、本当はどこへ行きたかったの?」

 希莉江の背後から問いかけてくる。叉雷の右腕が、希莉江の肩越しに絽々の項に触れるのが見えた。

「云ったでしょ。あたしが探してたのは、死に場所だったのよ。行き先なんか、どこでも良かった」

「君は死なない」

「……」

 多分、それは正しい。小さく肯いて叉雷に応える。

「大丈夫よ。今はもう、死にたいなんて思えないから」

「良かった」

 叉雷が洩らした安堵の声が、右耳に重く響いた。

「でも、あたしには帰る場所がないの。あの屋敷には、絶対に帰りたくない。どこかで仕事を見つけて、一人で生きてゆくわ」

「だったら、君にぴったりの仕事があるよ。おれの知り合いの先生が、君みたいな若い助手を探してる」

「先生? 学校の?」

「絽々。行こう」

 希莉江の問いには応えず、叉雷は飛竜を空へと駆け上がらせた。


 ほうっと息を吐いて、希莉江は暗い空を見上げる。月は雲に隠れて見えなかった。視線を前に戻す。

 目の端で、大きな翼が緩やかに宙を掻いている。丸みを帯びた優美な体つきからは想像も出来ないほど、絽々の飛翔は力強い。初めて絽々の背に乗せられた時には、この浮遊感に恐怖しか感じなかった。だが、今は違う。胃が持ち上げられるような急上昇や、風を捕らえるために蛇行する時の両足が揺さぶられる感覚を、希莉江を心地よいと感じていた。冷たい空気が頬が撫でてゆく。心に澱んでいたものを、全て洗い流すような風だと思った。

「ねえ、先生って?」

「おれに拳闘を教えてくれた人だ。捺夏に絽々を譲ってくれた人でもある」

「いい人?」

「もちろん。少しとっつきにくいけどね。優しい人だよ」

 叉雷の手が絽々の右の首筋を擽る。絽々は緩やかに首を傾けて、右回りに旋回した。

「君がそこで暮らせるように頼んでみよう。先生の所が無理なら、他の人にも当たってみる。君は何も心配しなくていい」

「……」

 希莉江は思わず言葉を失う。叉雷の声は、ありふれた世間話でもするかのように穏やかだった。驚きと喜びと戸惑いが心の奥で混ざり合い、極彩色の感情の渦になる。きらきらと光る、いくつもの星が脳裏で乱れ舞うような感覚に溺れそうになる。

 目を落として、自分の両手を見る。薄く開いた拳が震えていた。叉雷には、きっと分からないだろう。彼の言葉そのものが、希莉江が生きてゆくための理由になり得るのだということが。

「サライ。ありがとう」

 希莉江が云う。身を捩って叉雷の胸に体を預けた。叉雷の両腕が希莉江を抱き寄せる。その仕草は色めいたものではなく、暖かな慈しみに満ちていた。希莉江は微笑み、自らも手を伸ばして叉雷に触れる。冬花から与えられていた愛情を思い起こさずにはいられなかった。

「サライたちは、どこへ行くの?」

「南。行き先は、おれにも分からない。捜しものが見つかるまで、旅を続けるよ」

「そう……」

 希莉江は瞼を下ろして目を閉じる。叉雷に触れている背中が熱かった。

「おれが君を見つけた時、あの場所に、君以外に誰かいた?」

 耳元で問いかけられる。

「えっ?」

 希莉江は、首を反らせて叉雷を見上げた。

「何だか、妙な気配がしたんだ」

「い、いないわ……。いなかったと思う」

「そうか」

「妙な気配って、一体どんな」

 今度は体ごと振り返り、正面から顔を合わせた。叉雷の視線が希莉江のそれとぶつかる。

「……おれにもよく分からない。ただ、あの部屋に入った瞬間、なぜか懐かしいような、切ないような気持ちになった」

「そんなの――」

 あたしは、今まさにそれと同じ気持ちを感じている。希莉江は唇をわななかせ、瞳だけで訴えかける。碧の瞳が、不思議そうな色を宿して希莉江を見返している。

 あぁ、そうか。あたしは……。

 今を逃せば、二度と機会は無いかも知れない。希莉江は一度深く息を吸った。

「あたし、サライが好きよ」

 掠れた声で告げる。

 間を置かず、叉雷が驚いたように希莉江を見る。強張る口元を叉雷の左手が覆った。上着の袖から見え隠れする腕の真っ白な包帯に、希莉江の目が釘付けになる。

「……」

 何かを云いかけて、叉雷が口を噤む気配を感じた。その時、希莉江は確かに聴いたのだった。

 声にならない声を。直接脳に囁かれでもしたかのように、明瞭な声だった。それは、音を伴わない言葉だった。叉雷の心が語っている。狼狽してはいるが、希莉江を嫌悪しているようでは無く、希莉江はそれを何よりも嬉しいと思った。

「きっと、そうだと思ってた」

 目を細めて希莉江が云う。綻んだ唇が微笑んでいる。

「……キリエ?」

 訝しげな叉雷の問いに応える。

「おかしいわ。あたしには、何の力もない筈なのに。今、聴こえた。サライの声が」

「何だって?」

 ぎょっとしたような顔をする叉雷を見て、希莉江は笑った。自嘲の笑みでは無かった。仕方がないのだと素直に思えた。

「『君は妹のようなものだ』って。『見捨てることは出来ないけれど、恋人にしたいとは思えない』……」

「ごめん」

 何かを堪えるような表情のまま、叉雷が謝罪の言葉を口にする。

「いい。――分かってたから」

 初めから、こうなることは分かっていたような気がする。失うために出会ったようなものだと思う。決して手に入らないものに惹かれた。それだけのことだ。だが、出会わなければ良かったのかと問われれば、希莉江の応えは一つしかない。断じて否だ。叉雷と出会い、叉雷を好いて、叉雷に守られた。今も守られている。それだけで、充分過ぎるほどだと思った。

 あたしは受け入れる。両手を延べて受け取って、糧にする。この出会いを。この痛みごと。

「君は……」

 叉雷の呟きは、最後まで聞き取れなかった。突風に攫われたからだ。

「えっ?」

「いや、何でもない。しっかり掴まって」

「ん」

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