【6】希莉江(4)
* * *
希莉江は捕らわれていた。
事件が起こった場所は、廃虚と化した家並みが連なる細い曲がり道だった。どこからともなく漂う汚水の臭いに気を取られていたためか、それとも、ただぼんやりしていたせいなのか、彼女自身にも分からない。突然目の前に人影が現れた。最初に希莉江の体に触れたのは、若い男だった。無遠慮に肩を鷲掴みにされる。炎のような怒りが沸き上がり、息をするのも忘れた。次の瞬間、希莉江は肚の底から怒鳴っていた。
「離しなさい!」
若い男から逃れる間もなく、別の男に手首を捕らえられる。背後を取られて、口元に湿った布のようなものを宛われたのを覚えている。鼻につく刺激臭を数度嗅いだだけで、意識が薄れ始めてゆく。暴れ、もがき、必死に逃れようとしたが、数人がかりで取り押さえられた。その後のことは分からない。だが、今自分が置かれている状況なら分かる。希莉江は閉じ込められたのだ。
希莉江は改めて自分の周りを見回す。横幅が狭く、縦幅が長い建物だ。それほど広くはない。平らな天井は石の壁で支えられている。手足は自由だ。縛られたりはしていない。何度か試してみたが、鉄の引き戸は内側からは開かなかった。唯一の窓は、彼女の背丈の倍以上の高さに嵌っている。
浅い眠りから覚めた時、希莉江の傍らには緑の髪の男がいた。男から敵意は感じなかった。希莉江があまりにも朦朧として見えたからかも知れない。
少し前まで、様々な問いを執拗に繰り返していた男は、希莉江が何一つ応える気が無いことを悟ったのか、次の言葉を残して去って行った。
「かわいそうだけど、あんたは殺されるよ」
唇から洩れそうになった悲鳴を、希莉江は押し殺した。数に任せて彼女に襲いかかった男達に弱味など見せたくなかった。たとえ、彼らがセリと同じギルドに属する者たちなのだとしても。……いや、だからこそ何一つ語るまいと思ったのだろうか。セリに余計な心配をさせたくない。セリを案内役として雇っていたことを、彼らに知られる訳にはいかない。この時既に、セリは弟とともに貧民窟を離れていたのだが、希莉江がそれを知る由も無い。やがて訪れるであろう死を待ちながら、薄闇の中で一人怯えているしかなかった。
「お腹空いた……」
呟いて、自分が空腹なのだと知る。鞄の底を漁ると、指先に固いものが触れた。叉雷から手渡された、大振りの赤い果実だ。
「あぁ、あの人って――」
笑おうとして、反対に涙ぐんでしまう。胸の内で名を呼ぶことさえ躊躇われた。目の奥が痛い。震える手で林檎を掴み、皮も剥かずに囓り取った。甘酸っぱい。叉雷は知っていたのだろうか。希莉江がこうして餓えることを。こうして、亡くした愛を貪るように甘い果肉を貪ることを。希莉江の舌が黄色の蜜を舐める。
力が欲しい。何が起こっても、何を見ても、何を聞いても、決して揺らぐことのない心が欲しい。いつだって、希莉江の心は容易く揺れ動いてしまうのだ。母を想う度に。こうして、人の温もりに触れる度に。何も感じたくないと願うことは、同時に、自身の心が多くの想いを感じ取りながら生きていることを示していた。喜びや楽しさを感じる度に、希莉江の胸は曰く云いがたい痛みに締めつけられる。それは最早、反射や本能に近い。だめだ。あたしは生きている。まだ生きている。
二年の旅の間、希莉江は常に二つの思いに捕らわれていた。即ち、「いつ死のうか」、「どこで死のうか」と。母に守られた命を簡単に投げ捨てられるほど、身勝手にはなれなかった。かといって、希望に満ちて生きてゆけるほど前向きにもなれない。生死の狭間の中で、希莉江は己の命で他者を助けられないかと考えたのだ。だからここへ来た。だが、希莉江が救おうとした者は、人を喰らう怪物でしかなかった。そのことを希莉江は皮肉だと思う。それこそ、彼女が心の奥底で待ち望んでいたものに思えてならなかったからだ。
「あたしは、あたしを喰い殺してくれるものを捜してた……」
続く嗚咽は声にならなかった。自ら選べる道がどこにも無いのなら、せめて甘美な死を。瞼から溢れそうになる涙を閉じこめるように、両手で目頭を覆った。緑と赤の光が瞼の裏で激しく明滅する。これが絶望の色か、と思う。いっそ、限りない闇であれば良かった。目を開けているのか、閉じているのかも分からないほどの。
幼い頃から、自身の激情ともいえる衝動を抑えて生きることを余儀なくされてきた。夜空を埋め尽くす星を見ながら戸外で微睡むことも、鮮やかな朝焼けを迎えに駆け出してゆくことも、何一つ希莉江には許されていなかった。自由とは、遠い空に瞬く光でしかなかった。決して手は届かないのだ。誰よりも、それを望んでいたにも関わらず。暴れ馬のような気性が、希莉江以外の奴隷たちが持つ従順さや諦観を希莉江が身につけることを許さなかった。嵐の下へ飛び出してゆくことを禁じられた時から、希莉江は、幻獣たちに己の奪われた自由を託していたのかも知れない。巨大な爪で獲物を捕らえる、黄金の羽根を纏う獅子。鋭い牙を持つ、狼の血を分けられた人間。血を啜る鬼。全てを引き裂いてくれる爪があれば。全てを咬み砕いてくれる牙があれば。きっと自由が得られると思ったのだ。たとえ、自由の代償が死そのものでしかなくとも。
熱い涙が頬を伝って胸元に落ちる。わななく唇が囁く。闇そのもののように暗い声で。
「怪物は、あたしだったのね」
風が吹くと心がざわつく。いつも嵐を待っている。橙の夕日が心を躍らせる。墨混じりの藍色の空を切り裂いて飛ぶ鷲の姿に見惚れ、いつまでも同じ場所で立ち止まっていた時もあった。昼の光から逃れるように馬車に乗り、夕暮れから夜を待って出歩く醜悪な怪物。サキュハースよりも、もっと悪い。人の間には溶け込めず、常に独りで彷徨っている。挙げ句の果てに、自らの命さえ己の餓えを癒すための獲物にしようと企んでいる。飢え渇いているのは腹でも喉でもない。心だ。潤したいと思うからこそ、渇いていると自覚できるのだ。
希莉江は自嘲の笑みとともに思う。だとすれば、あたしは、まだ死んではいないんだわ……。
死にたいと望むなら、なぜ小人から逃げたのだろうか。喉を差し出し、手を差し伸べれば、それで全てが終わる筈だった。
おそらく、こういうことなのだろう。希莉江の理性は、母への後ろめたさと後悔から死を選ぼうとしていた。だが本能は、どうしようもなく生を選んだ。
生きるか、死ぬか。迷い悩む希莉江を、二つの道が待っていた。昨日までは。昨日までなら、どちらも選び取れた。今は後者しか残っていない。死だけが彼女を待っている。そう思うと、脳天が痺れるような絶望と例えようもない歓喜を感じた。
残った林檎の芯を鼻紙で包んで鞄に戻す。床に蹲り、両腕に顔を伏せようとしたところで、項から背筋までの産毛が一気に逆立った。
「ひッ!」
叫ぶ声が裏返る。希莉江は両手で口元を覆った。あの巨鳥に感じた戦慄とは全く違う。もっと研ぎ澄まされ、洗練されたものだ。だが、そのために、より大きな恐れを感じた。何かが扉の向こうにいる。人か。それとも……。
「誰?!」
引き戸が音もなく横へ滑る。不自然な開き方だった。まるで扉自身が、それを望んで自ら動きでもしたかのように見えた。
夕闇を背にして現れたのは、小柄な人物のシルエットだった。片手で引き戸を閉めると、惑いのない足取りで近づいてくる。
「ここにいてはいけない。逃げなさい」
少女の声だった。頭部を覆う漆黒の頭巾で目元を隠している。
「だっ、誰よっ! あなた」
「私は何者でもない。あなたの叫ぶ声を聞いてここへ来ただけ」
ほっそりとした少女の体は、喪服のような黒の着物を纏っていた。
「あたしは、叫んでなんか」
「声に出しては叫ばなかったかも知れない。けれど、私には確かに聞こえた」
少女の声は柔らかい。悪意は感じられなかったが、希莉江は毛を逆立てた猫のように警戒を弛めない。
「あなたは、あたしを捕らえた奴らの仲間じゃないの?」
「安心して。彼らは、もう行ってしまった」
穏やかに諭す声は、希莉江の耳に心地よく響く。
「どこへ?! あっ……あいつら、あたしを殺すと云っていたのよ!」
「彼らは、あなたを殺したりはしない」
「う、嘘よ。あなただって、あたしを殺しに来たんでしょ?」
「いいえ。あなたは殺されはしない」
「なぜ――?」
少女は薄く微笑んだようだったが、希莉江からはよく見えなかった。
「慰めてくれて、ありがとう。でもあたし、ちゃんと分かってるから。自分がどうなるのか。……それに、あたしはもう、ここで死んでもいいの」
別れ際の叉雷の視線が蘇る。出逢ってから今までに見た中で、最も冷たい表情で希莉江を見ていた。それは、叉雷にとっては後悔と慚愧の念を表すものだったのだが、希莉江には分かりようもないことだった。
「だから、ほっといて」
「あなたは生きなくてはならない」
少女の言葉が希莉江を揺らす。呼び起こされた生への執着が心の奥底で小さな火種となり、瞬く間に怒りとなって燃え上がる。
「なんで?! 会ったばかりなのに、どうしてあなたにそんなこと云われなきゃなんないの?」
「それが人の宿命(さだめ)だからよ」
少女はこともなげに云う。
「……」
希莉江は開きかけた唇を閉じた。反駁する言葉を思いつかなかったからだ。
あたしは死にたいのだろうか。それとも、生きたいのだろうか? 自らの心に問うが、どこを探しても応えは見当たらない。
過去に味わった苦しみや悲しみなら、いくらでも数え上げられた。だが、喜びもまた数限りなくあったのだ。かけがえのない冬花との思い出。自由によって得た開放感。誰に断ることもなく、どこへでも行けることが俄には信じられなかった。
迷い彷徨う思考は、こつん、と引き戸が鳴る音によって現実へと引き戻される。
「誰か来た」
怯えた声で希莉江が囁く。
「屍鬼」
感情の起伏を感じさせない声が呟く。耳慣れない言葉だった。
「シキ?」
「人を貪る者のことよ。どこかで、あなたの匂いを覚えたようね」
「鍵をかけなきゃ!」
慌てて体を起こす。駆け出そうとする希莉江を、少女の右手が制した。
「鍵穴は無いわ。外にある錠前は、内側からはかけられない」
こつん、こつん……。鉄板を叩く音が、徐々に激しさを増してゆく。ごとん、ごとん、と鳴る音に合わせて、引き戸が内側へと大きく撓んだ。
「だめ、扉が破られるわ!」
「ここにいて。目と耳を塞いでいなさい」
「あなた、何者なのよ。一体何をするつもり?!」
「……」
少女は何も応えない。白い手で頭巾を項に落とし、一歩踏み出して前を向いた。
「あっ」
希莉江は己の目を疑った。そこにあったものは、言葉では云い尽くせぬほど美しい横顔であった。人とは思えない。それほどの美だ。
臆する様子もなく引き戸へと近づき、横に開いた。途端に「ギャーッ!」という悲鳴が部屋を満たす。叫んだのは少女ではない。希莉江の目の前で人を貪っていた小人だ。
少女の髪が浮いた。風が吹いたのではない。少女の内側から噴き上がる殺気が、目に見えぬ風圧となって発散されているのである。希莉江は少女の言葉も忘れ、少女の傍らへと夢中で駆け出していた。
「限りある命を、無限に喰い散らかそうとでも思っているの?」
美貌に浮かび上がったものは、紛れもなく獰猛な怒りだった。だが、希莉江が二、三度瞬きをする間に、何かを悼むような表情へと変わってゆく。
「喰らうなら私を喰らえばいい。お前たちを生み出したのは、この私なのだから」
希莉江が息を詰めて見守る先で、少女の両手が動いた。バチリ、と何かが割れるような音が聞こえた。火打ち石を鳴らした時の音に近いが、それよりはもっと鋭く、音そのものが凶暴さを孕んでいた。
青白い閃光。稲妻のような放電は、少女の手から生み出されたものだ。突き出された両手から光の帯が走り、小人を呑み込む。断末魔の叫び。小さな体が焼け焦げる音が聞こえ、戸口からの風に煙が混じる。崩れ落ちるかに見えた体はしかし、不意にかき消えたように見えなくなった。希莉江の全身が、形容し難い感情に堪えかねたように大きく震えた。
「殺したの……?」
「元の場所へ帰しただけのことよ」
片手で頭巾を戻した少女が応える。ちら、と上空へ視線を投げた。
「戻って、お前の主に伝えなさい。『あなたも帰す』と」
その言葉に応えるかのように、高みで羽ばたきの音が鳴る。希莉江が顔を上げると、巨大な黒い翼が夕闇の中を飛び去ってゆくのが見えた。
「……あれは?」
巨鳥か。だが、希莉江が見たものとは違う気がした。あの時の、引き込まれるような気持ちにはならなかった。むしろ、禍々しいものを見てしまったという思いだけが胸に残った。
「あなた、あれが見えたの?」
ふと何かを窺うような仕草の後で、少女は希莉江へと向き直った。
「え、ええ。黒い鳥が飛んでいったわ」
「……」
少女は底知れぬ瞳で希莉江を見ると、内側にへこんだ引き戸を閉めた。
「な、何?」
「誰かがあなたを探している」
「えっ?」
「記憶をもらうわ。私に遭ったことは忘れて」
白さの際立つ左手が近づいてくる。抗う暇もなく、人差し指と中指が希莉江の額に当てられた。電流にも似た、真っ白な衝撃が希莉江を襲う。
「きゃ、ァ――ッ!」
希莉江は驚きと恐怖に目を見瞠いた。細い肩が背中へ落ちる。頽れてゆく体を、少女の腕が横から支えた。
「ごめんなさい」
希莉江の体を床へ横たわらせると、少女は高い窓へ飛び上がる。片手で軽々と開け放した窓の枠を上半身がくぐり、次いで両足が宙に浮かぶ。
希莉江一人を部屋に残し、少女は鳥のように飛び去った。
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