【6】希莉江(3)

 捺夏が三皿目の枝豆を食べ終わる頃、叉雷は酒ではなく水を飲んでいた。

「もう酒はいいの?」

「ああ。捺夏、さっき入ってきた奴らに気がついたか?」

 顔を上げずに声を落として云う。

「座敷にいる人たち? どこかのギルドっぽいね。全員腕章がついてたから、幹部クラスかな」

 同じく潜めた声で捺夏が応える。捺夏の位置からは、叉雷の肩越しに男たちの姿が見える。さりげなく様子を窺って、すぐに目を逸らす。男の数は三人。女が運んだ酒を手に持つや否や、乾杯の合図もなく呷り始めている様子だ。

「何だか嫌な感じがする。あいつらの話が聞きたい。お前は、湯豆腐をがつがつ食べててくれ」

 自分が頼んだ小鉢に醤油をかけて捺夏に回す。ふわふわと立ち上がっていた削節が醤油に浸されて、次々に湯豆腐へと倒れ込んでゆく。

「それ、叉雷が食べるんじゃなかったんだ。いいよ。がつがつ食べてやる」

 左手の箸をくるりと回す。藍色の小鉢に顔を寄せながらも、捺夏は正面の音に耳を澄ませている。叉雷は頬杖をついて卓上のメニューを眺めていた。


「親方の短気は相変わらずだな。ここ数年で多少はマシになったと思っていたんだが」

 胡座をかいた男の一人が口を開く。三人の中では最も若い。年頃は叉雷と同じくらいだろうか。

「昨日はセリに当たり散らしていたな。かわいそうに。西稜時代の皇族の末裔だと吠えてはいるが、出自は怪しいもんだぜ」

 中年の男が肯いて云う。男の頬には、獣の爪で削られたような古い傷跡があった。

「見ろ。この傷は親方につけられたんだ。五年前にな」

「他国から流れて来たからかも知れんが、おれはここに着いて驚いたぜ。何百年も前に滅びた国を、未だに甦らせようとしているなんざ」

 胸元から取り出した煙草に火を点けながら、三人目の男が云う。イフラジャンが愛用しているものと良く似た形の帽子を目深に被っている。帽子からはみ出した髪の色は、淡い金色だ。

「この街は、彩泰が興った時に西稜の皇族や貴族が奴隷として追放された場所の一つだからな。一度甘い汁を吸った奴らは、権力の味を忘れられないもんさ」

「ゲンの奴、遅いな。まさか、売り物に手を出したりしていないだろうな」

 若い男も煙草に火を点けた。

「あいつも馬鹿じゃないだろう。親方に見せる前に手をつけたりしたら、おれと同じ目に遭うぞ」

「あんたの傷は、それが原因か?」

「まさか。この傷は、セリと弟を守った名誉の負傷さ。ここへ来たあいつらが、奴隷として売られそうになっていたところを、親方に反対して引き取ったせいだ」

「そうだったのか。だけど、それならなぜ、あの娘のことは守ってやらない?」

 若い男の問いに、中年の男は笑い声を上げた。

「この街で生きる全ての民を救える力が、おれにあるとでも思うのか? 近しい者を守るために、余所者を喰らって何が悪い。全ての者が、己より貧しい者、病める者のために等しく力を尽くすというのなら、おれも喜んでそうするだろう。だが、実際はどうだ。貧しい者は、ごみ溜めの中に生まれ捨てられ、檻の中で死んでゆくだけだ。だからおれは、この手がどれほど汚れようと、我が妻、我が子のためには人をも殺めるだろう。奪わなければ生きる権利すら与えられないというのなら、おれは、いくらでも他人から奪い続けるぞ」

 男の言葉を聞いて、帽子の男が喉の奥で笑う。

「さしずめおれたちは、誇りも牙も抜き取られた哀れな狼ってところか」

「いや、野良犬だろう」

 若い男が生真面目な声で訂正する。残る男たちは苦い笑い声を上げた。

「一応、鎖には繋がれているんだがな」

 言葉の途中で、店の扉が大きく開いた。一人の男が急ぎ足で中へと入ってくる。

「おい。来たぜ」

「遅いぞ」

「すんません。遅くなりました」

 鋭い目つきで辺りを見回した男は、仲間の声に応えて座敷へと歩み寄った。刈り込んだ短髪を、根元から緑に染めている。剥き出しの肩に腕章は無い。三人の男たちに向かって、頻りに頭を下げている。

「ご苦労だったな。まあ、呑みな」

「頂きまーす。ほんっと疲れました」

「名は吐いたか?」

「いえ。一言も喋りませんよ。身なりは地味でしたけど、育ちは良さそうです」

「出身はどこだろうな。異人の血が入っているようにも見えたが」

「あの娘、近くで見ると驚くほどの上玉だぜ」

「いい拾い物をしたな」

「どうします? 餌として捕まえたんですが、あいつらに喰わせるのは勿体ないですよ」

「確かにな。奴隷として売った方が余程稼げそうだ」

 帽子の男が下卑た笑い方をする。短くなった煙草を、口の端から灰皿へと吐き捨てた。

「売るのは構わんが、餌はどうする。あいつらを満足させるには、子供の一人や二人じゃ足らんぞ」

「また捜しに行きゃあいい」

「やれやれ。餓鬼とは、まさしくあいつらのためにあるような言葉だな。肉を貪り、血を啜り、骨の髄まで平らげても『ギィール』だ。がっかりするぜ」

「あいつら、いつもギィギィ云ってますけど、あれは何て云ってるんですか?」

「『腹が減った』らしい。餌は毎日与えているんだが、人の死体でないと駄目なんだとさ」

「まさしく屍鬼〔グール〕だな」

「生きた人間には近づけないくせになあ。死体がたまらなく好きなんだとよ」

「最近は墓場漁りじゃ足りなくてな。わざわざ、あいつらのために死体を作らなきゃならないんだぜ」

「面倒くせえもんだよなあ」

「もし、ずっと死体をやらなかったらどうなるんですか?」

「生きた人間を襲うのさ。獣のように獲物に飛びかかって、素手で解体する。物凄い力らしいぞ」

「怖いこと云わないで下さいよ。なぜ、そんな危ないものを育ててるんですか?」

「高値で買う奴らがいるからさ。金持ちの考えることは、よく分からん。さっさと手放したいのはやまやまだけどな」

「小人を攫うのに元手はいらねえ。手間はかかるがな。一度捕まえれば、しばらく遊んで暮らせるぜ」

「なるほど。小人様々ですね」

「違いねえ」

 どっと起こる笑い声が店中に響く。


「叉雷」

 囁き声で叉雷を呼ぶ。捺夏の顔からは血の気が失せていた。

「キリエを助けなくていいの?」

「一体何を云ってるんだ?」

 同じく声を落として応える叉雷は、気のない様子で壁の写真を見ている。

「今の話聞いたろっ。キリエが危ない」

「彼女は、おれたちに助けられることを喜ぶかな」

 捺夏は怒りを露わにして叉雷を睨んだ。

「喧嘩の続きはキリエを助けてからやれよ! 死んでたら、喧嘩も出来なくなるんだぞっ!」

 捺夏は、ほぼ息だけで絶叫するという器用な技をやってのけた。座敷の男たちは新たに運ばれてきた料理に舌鼓を打っており、叉雷たちを気にする様子は無い。

「そうだな」

「行こう。叉雷」

 お前はいつだって、困っている人を見捨てられずに助けてきたじゃないか。今度だって、お前はきっとそうするだろ? 捺夏の眼差しが、声もなく叉雷に語りかける。

「捺夏。キリエの言葉を忘れたのか?」

「覚えてるよ。『二人ともどこかへ行って』。あと、『あんたたちの仕事は終わったわ』」

「その通りだ」

「あんなの、ただの捨て台詞じゃないか。いきなり票を渡したりするから怒ったんだ」

「雇い主に隠し事はしたくなかった。そもそもおれたちは、キリエに護衛として雇われたんだ。絽々に乗せる前に、お前はキリエから金を受け取っただろう」

「そうだよ。雇われたんだから、助けてやらなきゃ」

「道案内と護衛は違う。イフラジャンが受け取った金には、この仕事に対する報酬は含まれていなかった。だからあの子は、改めておれたちに金を渡した。忘れるなよ。彼女はおれたちを買ったんだ。そして、買われたおれたちは、既に料金分の仕事をした」

「してないよ。お前は朝までに戻るって云ったのに、陽が昇るまで帰ってこなかった。おれは寝こけてて、キリエを守ってやれなかった。おれたちが一緒にいれば、あんな奴らの好きなようにはさせなかったのに」

「第一おれは、あいつらの腐りきった欲望にはとんと興味がない――と云いたいところだが」

 叉雷が視線を戻して捺夏を見る。

「おれを雇ってくれた人が、哀れな身の上に落ちるのは嫌だな。それとな、あいつらがどれほどご立派な理屈づけをして自分自身を騙していても、おれには、こういう風にしか思えないんだ。『どんな事情があろうと、悪は悪だ。人が人を傷つけてはならない』って」

「さっすが」

「あんまり誉めるなよ」

「ほめてないよっ。今のは、変わり身の早さがさすがだねって意味さ」

「こらっ」

 叉雷は迫力のない罵声を飛ばす。

「おれがキリエを助けないと思ったか?」

「ちょっとは」

「そうか。がっかりだな」

「はあ? 叉雷の考えてることなんか、おれに分かる訳が無いだろ。……もしかして、おれを試した?」

「お前がキリエを助けたいと思ってることが分かって、おれは嬉しいよ。まだ守銭奴には堕ちていないんだな。『報酬が出ないなら助けない』とか云い出したら、どうしようかと思ってたよ」

「そう云ってたら、どうなってたの?」

「二、三発殴ってただろうな。じゃあ行こうか」

 最後の一言だけ、声の大きさを戻して云う。叉雷が立ち上がった。カウンターへ向かいながら、上着の懐から財布を取り出している。

「お前、ふざけんなよっ! 朝まで呑む約束だろっ」

 捺夏は椅子を引き倒す勢いで立ち上がった。

「分かった。ここはおれの奢りでいい」

「どーもー」

 店の女に「ごちそうさまー」と声をかけて、捺夏が店を出ようとする。ふと振り返った座敷では、四人の男たちが和やかに酒を酌み交わしていた。


「絽々、絽々っ。大変だ」

 宿の厩舎へと駆けつけた捺夏を、絽々が首を巡らして見る。キャベツが入っていた鉢は空になっていた。

「キリエが捕まっちゃったよ」

 捺夏の言葉に、絽々はキューと悲しげな声を上げた。捺夏は背を屈め、絽々の鼻先に自分の額を重ねる。

「お前の力が要るんだ。疲れてるだろうけど、頼むよ」

 そこに現れた叉雷を見て、捺夏は何かに衝かれたように顔を強張らせた。

 殺気立っている。今まさに標的へ飛びかかろうとする手負いの獣のような、獰猛な気配を纏って立っている。

「どうする?」

「おれが行く。絽々を借りるよ」

「分かった」

「キリエの荷物をまとめておいてくれ。おれの荷物も。場合によっては、そのままここから出ることになるだろう」

「居場所は分かるの?」

「分からない。でも、気配を感じる。さっき、あいつらの話を聞いている間に、キリエの声が何度か聞こえた。この街にいる筈だ。空から探れば分かるだろう。どうしても分からなければ、あいつらから聞き出すまでさ」

 叉雷が店の方向に目をやる。

「なるべく穏便に!」

 捺夏が掲げた目標に、叉雷はようやく笑みを見せた。

「そうだな。おれは、必ず彼女を連れて戻る」

 叉雷が踵を返して厩舎を離れる。

「期待してるよっ」

 捺夏が厩舎の扉を開け放った。声と身振りで絽々を促す。

「絽々っ、おいで! 叉雷が一人で乗るよ」

 絽々は鼻先を上げ、街路に立つ叉雷を見た。叉雷は絽々の前に立ち、両手を差し延べて待つ。絽々はつぶらな目で叉雷を見ている。ややあって、ぽてぽてと歩み寄ってくる。叉雷は白い額を手で撫でた。

「有り難う」

 叉雷の声にクゥと鳴いて応える。

「今日は風が重い。高さは、絽々が勝手に選ぶから」

「分かった」

 絽々の背に乗り上がった叉雷が応える。

「叉雷。キリエは、おれたちと同じ種類の人間だよ。ちょっと不器用だけど、頑張って生きようとしてる」

「分かってるさ。キリエは健やかだよ。少なくとも、おれよりはね」

「気をつけろよ」

「大丈夫さ」

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