【6】希莉江(2)
* * *
どれくらい歩いていたのだろうか。
時間の感覚はとうに失せていた。ただ、夜なのだということだけは分かる。
背後を振り返るが、誰もいない。赤く光る小人の目と視線を合わせた時、希莉江は無意識のうちに立ち上がっていた。殺されるとは思わなかった。怒りで爆発しそうだったからだ。一歩踏み出すと、小人の口から指が吐き出された。振り上げかけていた腕が止まる。冷静さと同時に恐怖を取り戻した希莉江は、俊敏な動作で塀へと駆け出した。よじ登っている間の記憶は曖昧だ。とにもかくにも、彼女は無我夢中で逃げた。
細い路地から、開けた場所へと辿り着いた時のことである。
気配がした。違和感は、ほんの一瞬で、けれど充分過ぎるほどだった。呼ばれている。何者かが希莉江を待ち受けている。無論、錯覚だろう。そう思いかけた瞬間に、風の中に叫びを聞いた。空耳かも知れない。声は狂おしく、悲痛でさえあった。これまでに感じたことのない、異様な感覚に包まれる。項から背筋まで、ぞくりと震えた。巨大な手に撫で上げられでもしたかのように。
伏せていた顔を上げて空を見る。何かがいる。紫の瞳を月光に煌めかせながら、希莉江は瞳孔を広げる。あれは何?
図抜けて大きな翼が浮かんでいた。つるりとした飛竜のそれとは違い、長い羽毛に覆われている。羽根の色は黒だ。
ばさり。羽ばたきの音は嵐の夜を思い起こさせた。風圧に浮き上がる前髪を片手で抑える。あまりに大きすぎて、羽根以外はよく見えなかった。荷物を抱え直して足を踏み出す。遠ざかる翼を追いかけてゆく。白い月が、走る華奢な姿を写し取り、地面に長い影を引く。影は希莉江の心と同じく揺れている。それでも希莉江は走るのをやめない。
「だめ、待って!」
追いつけない。希莉江は息を切らせながら走る。遠ざかる巨鳥が啼いている。
空を飛ぶ獣は、ばさりばさりと音だけを残しながら、闇へと溶けていった。
* * *
翌日のことである。
朝から出かけていたセリは、昼前に帰ってきた。居間の座椅子に座って、カイトの上着の綻びを器用に繕っている。
カイトは、セリの前に片膝をついて座った。自分でも落ち着いているのが分かる。心は決まっていた。迷う余地など一分も無い。
「ねえちゃん。ここから出よう」
カイトが云う。セリの手から青い上着がすり抜け、白いスカートの上に落ちた。
「えっ。どうしたの? あんた」
取り落とした上着を再び持ち上げる。セリの目はカイトを見ていない。青い布の襞に隠れた針を探しているのだ。
「あ、あった」
見つけた針を目立つ場所に刺して籐の籠に仕舞う。蓋を閉めてから、ようやくカイトを見た。
「これからは、おれがねえちゃんを守るよ」
セリは、どこかぼんやりとした顔でカイトを見ている。
「まだ、出られるほど金が貯まってないよ」
投げやりとも取れる声で呟く。カイトは静かに首を振った。
「おれ、ねえちゃんに秘密にしてたことがあるんだ」
きょとんとした表情になるセリを、カイトは愛しいと思う。
「なに?」
「おれ、降魔師なんだ。まだ見習いだけど、働ける。ここから出られさえすれば」
「……」
「ほら」
セリの左頬に手を寄せた。掌の内側が青白く発光している。カイトの手が、腫れた箇所をなぞってゆく。見瞠かれたセリの瞳がカイトを見つめている。しばらくして、カイトは手を離した。セリの左頬からは赤みが消え、薄茶色のそばかすだけが残っている。
「もう、痛くないよ。ねえちゃん」
カイトの言葉が終わる前に、セリの顔が歪んだ。大きな瞳から溢れた涙が頬を伝ってゆく。
「ねえちゃんの親は、学校の先生だったんだろ。ねえちゃんだって、学校へ行きたかっただろうに、おれなんかと彩泰に残ったせいで、たくさん、つらい思いをさせたよね」
東稜は南稜の友好国だ。交換留学生として、互いの国へと行き来することもできる。貧しい学生には奨学金も出るのだ。都に住む者だけが豊かな彩泰とは違う。セリが享受するべきだった権利を奪ったのは、他ならぬカイトだった。
「おれが死にかけてた時、ねえちゃんはずっとそばにいてくれた。あの時、おれは降魔の力を手に入れたんだよ」
「あたしは……。あんたが、自分も小さいくせに他の子の面倒を一生懸命見てるのを見て、何とかあんたを助けたいと思っただけだよ」
「うん。ねえちゃんはさ、もう、おれのねえちゃんじゃなくなってもいいんだよ」
「どういうこと?」
「今まで、おれを守ってくれて、本当に、本当に、ありがとう。セリ」
セリは両手で顔を覆った。しゃくりあげる肩に抱きついて、カイトはしばらくそのまま動かなかった。
「今日、ここを出ようよ。いいでしょ?」
「いいけど……。あたし、ちょっと心配なことがあって」
「なに?」
「キリエのことがギルドで噂になってる。あの子、この街から出る前に捕まっちゃうかも知れない。捕まったら、奴隷として売られるに決まってる。あんなに可愛い子だもの」
「あのおねえちゃん、まだ宿にいるの?」
「いない。さっき宿の人に訊いたら、今朝から姿を見てないって。サライさんたちに話そうと思ったけど、二人ともいなくて」
「わかった。おれが何とかするよ」
「どうやって?」
怪訝そうに問いかけてくる。
「お師匠さまに頼んでみる。ねえちゃ――セリは、早く準備して」
「別に、無理して名前で呼ばなくてもいいんだけどな」
セリは可笑しそうに笑う。
「だめだ。おれ、もう決めたんだ」
「あっそう。じゃあ、あたしも、もうあんたのこと叱ったりしないよ」
「そ、それは……やだ」
カイトが慌てた声を上げる。
「嫌なの?」
目を細めて、意地の悪い笑みを見せる。カイトは大声で叫んだ。
「やだー!」
「何でさ。あんた、あたしの弟じゃなくなるんだろ?」
「えー」
心底嫌そうな声で応える。
「五年も面倒見てきたのに、急に弟じゃないとか云われてもねえ」
「うん。わかった。もうしばらく、ねえちゃんの弟でいるよ。それで、たまにセリって呼ぶ。そのうち慣れるから」
「あんたって……」
脱力しながら応える。
「大人なんだか、子供なんだか。いつもフラフラ出歩いてたのは、遊んでた訳じゃなかったんだね」
「あー、うん? 半分くらいは、ほんとに遊んでた」
カイトの答えに、セリは今度こそ全身を震わせて笑った。
* * *
「たっだいまー」
幼い子供のように両手を上げた格好で、捺夏が部屋へ入ってくる。唇からは、食べかけの麩菓子が半分はみ出していた。
「お疲れ。どうだった?」
問う叉雷は、ベッドの上でだらしなく寝そべっている。
「いないねー」
捺夏は残った麩菓子を一口で呑み込んだ。
「……」
あからさまに落胆した様子で溜め息をつく。
「そっちは?」
「見つからなかった」
「そっか。残念だったね」
上着を脱ぎながら、くぐもった声で応える。
「ふー、汗かいたよ。もっと高く飛べば涼しいんだろうけど。人の姿が見える高さで飛ぶのは大変だねー」
肌着も脱ぎ捨て、捺夏は濡れた犬がするように頭をふるふると振った。
「元気出しなよ。叉雷」
「無茶云うな」
軽く反動をつけて起き上がり、床に降りる。捺夏は、自分の荷物から着替えを引っ張り出そうとしていた。
「呑もう」
云うなり、扉を開けて廊下へ出て行く。
「昨日も呑んだじゃんかー」
部屋の中から、捺夏が咎める声音で云った。
「先に行くよ」
叉雷は全く取り合わずに、財布だけを手にして階段を降りてゆく。
「捺夏」
「わーかってるよー。ちょっと待って。絽々の夕飯用意するから」
やや間を置いて、捺夏が廊下に現れる。新しい服は、寝間着にしか見えない木綿の上下である。小脇に抱えた鉢の中では、絽々の好物のキャベツがわさわさと揺れている。
「酒ばっか呑んでると、バカになっちゃうぞ」
捺夏の手が部屋の鍵をかける。叉雷は踊り場で立ち止まり、捺夏を見上げて応えた。
「駄菓子ばっか喰ってると、バカになるぞ」
「何だよ、叉雷の性格ブス。叉雷がそんなんだから、キリエが切れたんだ」
「……そうだな」
三日月亭と書かれた看板が頭上で風に吹かれている。叉雷は、捺夏を待たずに市松模様の扉を内側へと押し開いた。
中には酒と煙の臭いが充満していた。縦長の空間には、それなりの広さがある。
叉雷以外に客は一人だけだ。初老の男が黒いカウンターの前に座っている。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、派手な化粧の若い女が気怠い声を上げる。女は、鉄の器に入った氷の塊を削っていた。女の背後には、仕切を挟んで厨房があるようだ。仕切と並んで据えられた棚には、酒瓶がぎっしりと詰め込まれている。女は流しで手を洗い、改めて叉雷に目をやった。
「ご注文は?」
「連れが来るので。後で」
「かしこまりました。空いているお席へどうぞ」
叉雷は窓際の椅子を選んで腰を下ろした。叉雷の後ろには畳敷きの座敷がある。白い壁に掛けられた写真に混じって、「宴会承ります」という貼り紙があった。天井近くの壁には、メニューを一つずつ記した紙が貼られている。
遅れて、扉を押して捺夏が入ってくる。つかつかと寄って来て、叉雷の正面に座った。
「何呑むの?」
「酒」
叉雷の声は掠れていた。
「そりゃあ、そうだろうけどさー。どれ?」
問いかける捺夏は、卓上のメニューを手に取って眺めている。
「おれ、どぶろくにするよ」
「おれはビール」
「焼酎は?」
「もういい。今日は」
「ふぅん」
出し抜けに、捺夏が「どぶろくとビールッ!」と馬鹿でかい声で叫ぶ。その声に恐れをなしたのか、カウンターの客がそそくさと立ち上がって勘定を始めた。汚れた窓に顔を寄せた捺夏は、音程の外れた鼻歌をふんふんふふーんと口ずさんでいる。
先ほどの女が、盆の上にグラスと細長い猪口を乗せて近づいてくる。
「お待たせしました」
「わーい」
捺夏の手が猪口に伸びる。叉雷は店員が置いたグラスを持ち上げると、一息に飲み干した。
「枝豆ください。あと、ビールもう一杯」
捺夏の注文に女が肯き、カウンターへと戻ってゆく。捺夏は、ふにゃっと顔を崩して欠伸を洩らした。
「眠いの?」
「ふやあ、眠いよ」
「悪かったよ。つき合わせて」
「まあいいよ。お腹も減ってたし。キリエは、ちゃんとご飯食べてるかな?」
「そう願うよ」
「今頃どこにいるんだろうねー」
「まだ、この街にいると思う。お前はどう思う?」
「宿には戻って来てないみたいだ。部屋に荷物が残ってる。だけど、ここから出てもいない。見張り小屋まで行ってきたけど、キリエみたいな子は見かけてないってさ」
捺夏の言葉に、叉雷は頬杖をついた顔の位置をさらに低くした。
「セリさんは?」
「さっき家に行って訊いてきたけど、知らないって」
こめかみを片手で押さえ、叉雷は「うぅ」と唸る。
「呑み過ぎだよ」
捺夏が呆れ声で応える。
「交換票を渡したのは失敗だった。お前に取って来てもらっておいて、こんなことを云うのはどうかと思うけど」
「あれは何を狙ってたの?」
「家出なら、家に帰すのが良策だと思ったのさ。親と喧嘩でもしたんだろうと思っていた。おれが甘かった。おれのせいだ」
酒で赤く濁った目が捺夏を見る。
「キリエは、何であんなに怒ってたの?」
「あの子は、ただのお嬢様じゃなかったってことさ」
「どういう意味だよ?」
「おれが交換票を渡した時のキリエの表情を覚えているか? あれは、身内の人間に対する甘い怒りなんかじゃなかった。彼女は捜索願いを出した人間を憎悪し、軽蔑し、殺意すら抱いていたんだろう」
「家庭環境が良くなかったのかな」
「悪くなければ、都から流れたりはしない」
「怒るなよ」
「お前に怒ってるんじゃない。彼女にここまでさせるだけの動機を与えた人間が、心底憎らしいだけだ」
「叉雷」
「かわいそうに。あの子は、おれやお前よりよっぽど孤独だ。逃げるように旅を続けても、どこへも帰れないのに」
「じゃあどうする? キリエを苦しめた人を探して、そいつも同じように苦しめればいいってこと?」
「今この場にそいつがいるなら、おれが叩きのめしてやる。でもそれは、彼女を助けることとはまるで違う」
「だよね」
「ここに連れてくるべきじゃなかった。山越えして宗香へ行っていた方が、まだマシだったのかな」
「白蓮山のトンネルから? だったら、おれたちはついてこれなかったね。絽々の体じゃ通れないもん。二年前でもギリギリだったんだから」
「今でも通れたかも知れないぞ。あの横穴は、少しずつ拡がってるから」
「何でさ?」
「山童〔さんどう〕たちが云ってた。あいつらが、内側から削っているんだ」
山童とは、人と姿の似た妖の一種だ。淵沼の村では、河を捨てて山に登り、そこで暮らすようになった河童であると語り継がれている。背は赤子のように低いが、背丈と同じ長さのつるはしで岩盤を削る力を持っている。顔つきは幼く、人の言葉は解さないとされている。
「サンドウねー。掘った鉱石をくれたよね。おれ、まだ持ってるよ」
「珍しいな。てっきり売り払ったのかと思ってたよ」
「あんな可愛い精霊がくれた物、売れないよ。可哀相じゃんか」
「精霊なのかな? あれは」
「体には触れたけど。ちょっとじめっとしてた。でも、村では噂にならなかったね。誰も気づいてないっぽかった」
「普段は隠れてるんだろう。それにあいつらは、人を通さないように入り口の穴を塞ぐことが出来るから」
「そうなの? じゃあ、何でおれたちは通れたんだ?」
「おれが頼んだからだよ。一人で穴に入った時に、親分格の山童と仲良くなった」
「それ、いつぐらいの時?」
「十五――いや、十六かな」
「へー。入り口が岩で塞がってたのに、よく見つけたね」
「探してたから」
唇の端を持ち上げて笑う。店の女が、新たなグラスと小皿を盆に乗せて近づいてくる。
「入り口を?」
「そう。本に書かれている通りかどうか、知りたかった」
「本って?」
「龍の本。……あ、どうも」
二杯目のグラスを女から受け取る。枝豆の皿は捺夏の前に置かれた。
「うわっはーい」
さっそく一つ手に取り、口へと運ぶ。
「枝豆最高」
指を舐めつつ、満足そうな声で云う。
「良かったな」
「叉雷も食べる?」
「おれはいいよ。腹が減ってるなら、ちゃんとした料理を頼めって」
「んー。どうしよっかな」
捺夏は猫がたまにそうするように、何もない空間を見つめている。叉雷は早くも二杯目を飲み干していた。
「お姉さん、枝豆あと二つー」
「……」
「今のおれには、塩気が足りない気がするんだよ」
枝豆を両手に持ち、中身を口の中に放り込んでゆく。
「はいはい」
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