【6】希莉江(1)

 真夜中である。どこからともなく聞こえる梟の声に誘われるように、少年は浅い眠りから覚めた。秀でた額の広さが示す通り、彼は聡かった。

 両腕に力を込めて起き上がる。足音を殺して歩き出した。

 セリが止め忘れたのか、台所の換気扇が動いていた。カイトは爪先立ちになり、手を伸ばして電源の紐を引く。青い四枚羽根が回転の速さを弛め、やがて止まった。冷蔵庫を開くと、無邪気さの抜け落ちた表情が暗がりの中に浮かび上がる。水の入った瓶を取り出し、グラスに注いだ。一気に喉の奥へと流し込み、空いたグラスを流し台に乗せる。

 ふと、空耳でも聞いたかのように片手で右耳に触れる。数秒の後、カイトは静かに声を上げた。

「行きます。いつもの場所で」

 まるで何者かの答えを待つかのように、耳に寄せた右手は動かない。小さく肯くと、カイトはセリの部屋へと向かった。


 カイトにとって、セリは血の繋がりのない姉であり、同時に母でもある。

 音も無く扉を開ける。灯りが消えた室内は薄暗い。窓からの月光がセリの胸元を照らしていた。セリの寝顔は穏やかだ。しかし、年齢に見合わない労働のためか、カイトの立つ方へ傾いた顔は、十四とは思えないほど疲れて見えた。左頬が赤く腫れている。夜の会合で親方に殴られたのだと云っていた。それを聞いた時、カイトの胸の中で何かが弾けた。許せないと思った。セリは、暴力に身を晒してまでカイトを育てようとしている。そうと知りながら、セリを守る力の無い自分が許せなかった。正しくは、力が無いのではない。力の行使を自らに禁じているのである。


 彩泰と南稜の争いは、何の前触れもなく始まった。季節は夏だった。カイトの生まれ育った屋敷は、戦乱のさなかに炎上し崩れ落ちた。

 父親は村人たちを護るために戦ったが、長い戦いの果てに絶命した。「生きて血を残せ」という臨終の言葉は、カイトの胸に深く刻まれた。悲しむ猶予もなく、カイトは選択を迫られる。留まって村とともに滅びるか、村を捨てて生き延びるか。カイトは後者を選んだ。

 降魔の力を持つ者は悉く戦死していた。僅かに生き残った大人たちは、我が子や血縁者だけを連れて東稜や南東の島々へと逃げて行った。親を亡くした子供たちだけが、荒れ地となった村に残された。彼ら彼女らは降魔師の遺児だったが、降魔の力は必ずしも遺伝するものではないため、力を思い通りに使える者は一人もいなかった。カイトも同様だったが、当時の彼には一つだけ発揮できる力があった。辛うじて生き延びた人々が目に見えぬと口にする「人魂」の姿を、カイトだけは見ることが出来た。頭上で禍々しく燃える赤黒い炎が命を喰い荒らして去る光景を、何度となく目にした。端的に云えば、カイトは死から免れる力を持っていたのである。だが、彼はそれを人には話さなかった。村に飛来してきた人魂の群れが真っ先に襲ったのは、村で最も力があるとされた降魔師だった。次いで大人、そして子供。人魂には目的があるのだ、とカイトは子供心に考えた。人魂は妖の一種なのか。だとしたら、人魂を使役して飛ばしているのは誰なのか。何のために? 答えは分からなかったが、カイトは父の遺言に従って、自らを生かすことに決めた。

 年上の友人たちに話を持ちかけると、すぐに出発の日が決まった。無人の家々からかき集めた水と食料を持てるだけ背負い、他の者にも背負わせ、カイトたちは村を出た。

 炎から逃れて北へと進むうちに、人魂には、それぞれに決まった行動範囲があるらしいことが分かった。国境に差しかかる頃には、忌まわしい炎は全く見当たらなくなって行った。


 夜の森で、多くの子供を連れた一人の少女に出会った。凛とした瞳が怒りに燃えていた。腕からは血が流れていたが、足取りには力があった。それがセリだった。枝葉の隙間に三日月が輝いていた。

 セリもまた、カイトと同じく親を喪って逃げて来たのだという。セリたちは、都会に住む者の身なりをしていた。後になって聞いたことだが、国営の教育機関に勤める親を持つ者ばかりだった。初めて会った時から、カイトはセリに親しみを感じていた。二つの集団は一つになった。

 行く先々で痩せ衰えた子供が見つかる度に、セリは躊躇いなく仲間に引き入れて行った。いつしか子供の数は三十を超えた。

 明るい気性と優しさを持つセリを、誰もが慕った。カイトも例外ではなかった。夜泣きする子供を抱えながら、カイトたちの知らない子守歌を口ずさむ姿が忘れられない。しかも当時のセリは、今のカイトよりも一つ年下だったのだ。

 国境に添って流れる川を渡り、対岸で点呼を取った。何人かが消えていた。急流に呑まれたのだ。彩泰に入ったのだと誰かが教えてくれた。この頃のカイトの記憶はまだらで、所々が抜け落ちている。毎日のように頭痛や高熱に襲われ、食欲も無くなっていた。

 後からセリに聞いたのだが、カイトは一月ほど生死の境を彷徨っていたらしい。カイトが倒れてから、セリはカイトの村の年長の子供たちに自らが連れてきた子供たちを託し、東稜へ行くように勧めたのだという。そして、セリ自身はカイトとともに二人きりで川辺に残った。

 川を渡る前に、彩泰と東稜のどちらへ逃れるかについて意見が別れたことがあった。その時には、セリは東稜へ行きたいと語っていた筈だが、カイトのためだけに彩泰に留まったのだ。そのことに気がついたのは、ようやくカイトが起きあがれるようになり、彩楼に向かって歩いていた時だ。夕立に降られながら、セリはカイトの頭上に傘代わりの板きれを差し延べていた。


 二人で都へ向かい、そこから貧民窟へと辿り着いた。季節は秋になろうとしていた。以降、セリとカイトは地獄の街で暮らし始める。その年の冬、カイトは六才になった。

 セリとの生活は楽しかった。セリの体に浮かび上がる無数の痣や、目の下に出来た隈を目にするまでは。セリが所属するギルドは、貧民窟で一、二を争うほどの組合員の多さを誇っていた。生活の保障はされていたが、組合員の大多数が使い捨てにされてゆくことを知ってから、カイトは一人で街を彷徨うようになった。

 カイトは、父親の遺品として黒革の手帳を持っていた。使い古された手帳の中に、次のような記述があった。「この言葉を唱えながら祈りなさい。助けを求めたい時に。」――。不思議な音の連なりを呟きながら、カイトは飽きることなく歩いた。鳥の鳴き声、獣の唸り声、そして天から降る声で作られたような呪文だった。唱えるうちに、自然と旋律が生まれた。これは唄なのだと思った。


 空が朱に染まった夕暮れのことである。いつものように唄いながら歩いていると、全身に衝撃を感じた。暖かい力が満ちるような感覚だった。足元から震えが走り、カイトはその場に跪いた。

 震えが収まるまで、どのくらいの時間が過ぎたのか、よく覚えていない。顔を上げると、前方に小柄な人が立っていた。

 黒い布を頭巾のように頭に被っている。服は黒の着物だった。走り寄ったカイトは絶句した。そこにいたのが、セリと同じ年頃の少女だったからではない。少女の姿が、この世のものとは思えぬほど美しかったからだ。まるで、存在自体が発光しているかのように眩しい。カイトは咄嗟に両眼を腕で庇った。

「あ、あなたは……かみさま?」

「いいえ」

 透き通る声が応える。

 少女が纏う空気は、父親にも感じたことのないほどの威厳に満ちていた。底知れぬ力を持っているのだと分かった。

「私は、あなたの求めに応えたいと願っています」

 少女は、白い手を伸ばしてカイトの額に指先で触れた。

「あなたには優れた降魔の力がある。私のことを誰にも話さないと約束してくれるなら、あなたが降魔師になれるように力を尽くしましょう」

「おねがいしますっ!」

 カイトは少女に向かって深々と頭を下げた。

「私が許すまで、あなたの持つ力のことは決して人に知られぬように気をつけて下さい」

 こうして、少女はカイトの師となった。

 カイトが夜に出歩く習慣を覚えたのは、少女が日没後にしか現れないからだ。昼間にセリの目を盗んで外へ出るのは、誰にも知られずに降魔の術を磨くためだった。少女には毎日会える訳ではなく、カイトはいつも夕方が近づくとそわそわとする自分を抑えるのに苦労した。


「お師匠さま。お待たせしました」

 泉の傍らに立つ少女の背丈は、五年前よりも高くなっている。カイトの背も伸びているのだが、少女の背には届かない。咲き乱れる花々が泉に映った月光に照らされる様は、幻想的な眺めだった。

「水、あげてますよ」

「有り難う。とても美しいわ」

 深く被った頭巾の下で微笑む気配がした。カイトは少女の名を知らない。何度か訊いたのだが、少女は教えてはくれなかった。

「でも、もういいの。今まで、よく育ててくれたわね」

「えっ?」

「術をかけておきましょう。泉が花々や樹木に水を分け与えてくれるように」

「お師匠、さま……?」

 少女が両手を軽く振り上げた。手の平から光の粒が生まれ、次々と泉へと零れ落ちてゆく。

「カイト。姉を連れて、ここを出なさい」

「――!」

 カイトは息を呑んだ。セリとともに貧民窟から抜け出すことは、ここへ着いた当初から願っていたことだ。

「北稜に私の知人がいるわ。老いてはいるけれど、優秀な降魔師よ。彼女は若い後継者を捜しているの。あなたは既に、塔で学ぶ降魔生と同等の術を身につけている。塔の住人ならば国外へ出ることなど不可能だけれど、幸いあなたは降魔師とは認められていない。だから、この話はあなたにうってつけだと思うの」

「お、おれなんかに。本当に、おれは、降魔師として使いものになりますか?」

「あなたが、己自身を信じられるなら」

 湧き上がる感情に、ぐっと喉が詰まった。カイトは片手で喉元を押さえる。少女は、カイトに物や金を施すことはしなかった。一度たりとも。その代わりに、生きるための力と知恵を授けてくれたのだ。その行為は、カイトにとって命を分け与えられたにも等しかった。

「今から、あなたも降魔師の一人です。あなたが、あなたの守るべき者のために力を行使することを許します。いつ、どこで、誰のために力を使うべきか。あなたは、誤ることなく選び取ってゆけると信じています」

 少女の声は、神託を述べる巫女のように神々しかった。

「わかりました。行きます。セリを守れるなら、どこへでも」

 カイトは力強く肯く。握り込んだ拳の中で、青白い炎が暴れている。

「ありがとうございます。お師匠さま」

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