【5】貧民窟(7)

*     *     *


 その場を動かなかったのは、どうしてだろうか。

 理由に心当たりが無い訳ではなかった。坂道を降りてくる人影を見た時には、思わず自分自身を恥じたほどだ。


「探したよ」

 そう、探されているであろうことを知っていた。希莉江の護衛であれば、当然のことだ。だからこそ、希莉江はここから動かなかった。何のことはない。自らも人に買われた身分でありながら、希莉江は叉雷と捺夏を買っていたのだ。

 今に至る経緯は知らないが、叉雷は希莉江を探し当てた。セリの元へと戻ったカイトが、セリに希莉江の居場所を語ったのだろう。あるいは、直接叉雷と会って、彼に語ったのだろうか。

「サライ」

 呼ぶ声を、何て甘えた調子だろうかと思う。

「……」

 希莉江は静かに顔を伏せた。叉雷の顔を見たくはなかった。

 叉雷が近づいてくる。座ったままの希莉江に何かを感じたのか、叉雷が隣に腰を下ろす。

「カイトに会ったよ」

「そう」

 無機質な声で応える。希莉江は努めて無感情を装おうとしていた。

「なぜ、ここに来ようと思ったの?」

 希莉江は何も答えなかった。

「あの小人たちには、これ以上近づかないでほしい」

「なぜ?」

 弾かれたように顔を上げる。

「あいつらは君に危害を加えるかも知れない」

「仮定の話でしょ。それは」

「君は優しい。たとえ姿形が違っていても、話せば分かり合えると思っている。でも、そんなもんじゃない」

 希莉江は叉雷の言葉に顔を顰める。

「言葉が通じない。風習が違う。おれ達にとって当然のことは、あいつらにとっては天地がひっくり返ったってあり得ないことかも知れないんだ」

「……あたしは、あの人たちの助けになりたいと思っただけなのに」

「そりゃあいいことさ。その気持ちはとても尊いと思うよ」

「だったら――」

「だけど、気持ちだけじゃあ相手の腹は膨れないんだ。あいつらを助けてやりたいと思うなら、もっと他の物を用意するべきじゃないかな」

「何を用意しろって云うの?」

「金だ」

「お金なんて!」

 希莉江は吐き捨てるように叫んだ。

「馬鹿云っちゃいけない。金があれば何だって出来る。この塀の中から脱け出すことさえも」

 叉雷がジャケットの内側に右手を入れる。中から、歪な形の林檎を一つ取り出した。大きめの林檎は赤く熟れている。

「君は生きるために食事をする。夜には安全な家の中で眠る。もし病気になったら、医者を呼んで薬をもらうだろう?」

 林檎を高く放り上げる。宙に浮いた林檎は、希莉江が瞬きをする間に落下してゆく。叉雷の手が林檎を受け止める。乾いた音が鳴った。

「そうね。だから?」

「食事を作るための食材は、どうやって手に入れる? 家は? 薬は? どれもこれも、金を払って手に入れたものだとは思わないか?」

「……」

 そんなことは知っている。無言で語る希莉江の顔つきは、可憐でありながら凶暴だ。

「金がなければ物を配ってもいい。だけどそれも、君自身が『人にやるのは惜しい』と思うようなものでなければ意味がない」

「どうして?」

「こんな例えはどうかな。君は貧しくて、頼る者も住む家も無い。いつも寝床を捜しながら彷徨っている。今夜も、やっと眠れそうな場所を見つけて横になった。君は凍えていて、今にも死にそうだ。そこに見知らぬ人が近づいて来て、『もう捨てる物だから、あんたにあげる』と云いながら、擦り切れたボロ布を投げつけてきたら、君はどんな気分になる? 本当の助けというものは、自分が眠る筈の、ふかふかの寝床に相手を寝かせてやることだ。その夜、自分は固い床の上に寝てもいいという気持ちが無いなら、人を助けるなんてことはやめておいた方がいい」

 右手の林檎をジャケットの内側に戻す途中で、叉雷が突然動きを止める。ややあって、希莉江に林檎を差し出す。

「なに?」

「後で食べようと思っていたんだけど、気が変わった。君にあげるよ」

「あ、……ありがとう」

 受け取った林檎を鞄の中へ落とし、すぐに顔を上げる。話を逸らさないで。希莉江の目がそう語っている。叉雷は、ふうと息を吐いてから言葉を続けた。

「土台、人が人を救うなんていう傲慢なことは許されちゃいない。おれはそう思うよ」

「じゃあ、何が出来るの?」

 険しい表情で問いかける。

「助け合うことさ」

「はぁ?」

「大事なことだよ。相手を助けている時には、自分も相手に助けられてるんだ」

「わけ分かんない。何云ってんの?」

「いつか分かるよ」

 静かな声だった。あまりに静か過ぎて、声を荒げている自分が滑稽なくらいだった。希莉江は紛れもない怒りとともに思う。叉雷の柔らかな物腰を突き崩してやりたい。落ち着き払った瞳を嵐の海のように波立たせてやりたい。希莉江の舌は、無意識のうちに上唇を軽く舐めていた。

「ねぇ」

 がらりと声の調子が変わる。余裕ぶった微笑みが、希莉江の整った顔立ちを飾っている。

「うん?」

「どうして、いつも包帯してるの?」

「これか。これは――おれのお呪いさ」

「両腕に傷でもあるの? それとも彫りものとか」

「まあ、それに近いかな」

 叉雷は屈託なく笑う。希莉江は不満そうに叉雷を見ている。この程度の揺さぶりでは、叉雷は崩れない。

「安っぽい親切は、かえってあいつらを困らせるだけだよ」

「あたしは安っぽくなんかないッ!」

 希莉江は最早、怒りを隠そうともせずに叉雷を睨みつけている。

 最初からおかしいと思っていたのだ。親切すぎたし、優しすぎた。思いやりなんかじゃない。あたしには分かる。人を傷つけることで自分が傷つくのが嫌だから、人に優しくしてるだけだって。あたしよりもずっと弱いくせに、強い。弱い分だけ強い。だから敵わない。

「まあ、結果は君の行動次第だろうな。気が済むまでやってみたら?」

 ごく軽く叉雷は云った。

「……急に話が変わったじゃない」

「ひょっとしたら上手く行くかも知れないしね。そうなったら、君の苦労や義侠心も多少は報われるだろう」

「馬鹿にしないでッ!」

 希莉江の叫びは悲鳴そのものだ。

「もうやめて。一度も負けたことがないサライに、あたしのみじめな思いなんて、分かる訳ないわ」

「君は誤解している。おれが勝ち続けたのは、自分自身の為じゃない」

 叉雷は吐き捨てるように云った。

「じゃあ、一体何のために?」

「捺夏の為だ。だからこそ、たった一度でも負ける訳にはいかなかった」

「それはただ、サライが強かったからよッ! 負ける訳にはいかないって……。そんな風に願ってるだけで、実際にそれを叶えられる人がどれだけいると思うの? 片方が勝てば、もう片方は絶対に負けるのよ!」

「違う。おれは勝てる試合だけを選んだ」

「どういう……意味」

「云っても、君は信じられないだろう」

「云いなさいよ。卑怯だわ。そんな云い方」

「おれには自分の未来が視える」

「――はっ?」

「負けると感じた試合には出なかった。その代わり、相手がどれほど強そうに思えても、勝てると感じた時には命賭けで戦った」

 碧の瞳が内側から燃えている。何という瞳。まるで碧の嵐だ。荒れ狂う海原を連想させる。

 希莉江は、ある一つの想い――それは発作的に彼女を撃ち抜いた、強烈な感情だった――を必死で押し隠しながら、叉雷の眼差しを受け止めている。

「君に分かるだろうか。どんな決断も無意味にする直感が、おれの全てを支配している」

 声だけが静かだ。猫のように細められた瞳、その眼差しの鋭さ。目の前に、白々と光る刃を突きつけられているかのようだ。

「だけど、おれが感じるのは漠然とした予感だけだ。視え方も凄くぼんやりしてる。だから、気のせいだと自分を誤魔化し続けて生きてきた」

「あたしのことも視えるの?」

 震える声が問う。

「ああ。他人のことは、自分よりもよく視えるよ」

 叉雷はこともなげに応えた。

「あたしの過去も?」

「いや。視ようとして視えるものじゃない」

「あら、そうなの! それはよかったわ!」

 いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。希莉江は弾かれたように立ち上がる。一刻も早く、この場から離れなければ。

 叉雷も立つ。無駄のない所作を美しいと思う。

「サライ」

 何という瞳で人を見るのだろう。怒りでも悲しみでもない、ただ見ているだけの眼差し。この視線を自分は知っている。そう、あたしも時々こんな眼をしている……。夜更けに覗き込む鏡の中から、感情を喪った眼球がひたと自分を見返していた。何度も、何度も。

 そのことに思い至った瞬間、希莉江は目を見瞠きながら後退った。

 違う。あたしは人の未来なんか読まない。人の心を読んだりしない。叉雷とは違う。知らない。何も知らなかった。許して、お母さん。

 本当は母さんが逃げたがっていたことも。

 あたしがいるから逃げられなかったことも。

 知らない――。

 希莉江。あなたを愛しているわ。聞き飽きるほど聞いた言葉。母さん。だけど、そう云う度に、あなたはこう思っていたじゃない。「この子を置いて逃げる訳には行かないわ」って。あたしは知っていた。あたしは知っていた!

 知りながら、何もしようとはしなかった。

「キリエ?」

 鋭い語調で名を呼ばれる。次いで、叉雷の手が細い肩に添えられた。

「は、放して」

「気分が悪いの?」

「違うわ」

 その時、空から羽ばたきの音がしなければ、希莉江は子供のように泣き出していたかも知れない。飛竜が地に降りる前に、主たる捺夏は絽々から滑り降りていた。そのまま歩み寄ってくる。

「どしたの?」

 二人を見比べて問いかける。

「喧嘩?」

「そんなんじゃないよ」

 ふっと微笑んで見せる。叉雷の横顔を見上げた希莉江は、形容しがたい感情を持て余していた。幼い怒りと純粋な憧れが胸に渦巻いて、息も出来ない。彼女がどれだけ彷徨っても得られなかったものを、叉雷は自然体で体現していた。信念を以て生きること。誠実であること。誰だって彼には心を開くだろう。猜疑心の固まりだった希莉江ですら、叉雷には自然と心を開いていた。叉雷と接することで、麻痺していた心を何度も揺り動かされた。だからこそ、希莉江は叉雷に嫉妬せずにはいられない。

 ぐっと瞳に力を入れて叉雷を見つめる。

「もういいわ。サライ。ダッカ。二人ともどこかへ行って」

 ……何よ、大人ぶっちゃって。本当は、あんただってあたしと同じ根無し草のくせに。あたしには、そんな顔はできない。自分自身のことさえ許せないのに、他人なんか許せるわけない。だから確かに、サライの云う通り、あたしには何もできないのかも知れない。だけど――。

「サライ。あたしは諦めないから」

 行動する前から諦めるのは嫌。絶対に。

「分かった。別れる前に、君に渡さなければならない物がある」

「ちょっと。何のことを云ってるの?」

 暗い予感が胸を貫いた。叉雷の手が、スラックスの後ろのポケットから何かを取り出す。その間も、叉雷は希莉江から視線を逸らさない。

「君には帰る場所がある。この票は君が持つべきだ」

「貸してッ!」

 希莉江の手が桃色の紙片を奪い取った。

 一瞥した希莉江の表情が凍る。乱暴な手つきで交換票を破った。破っただけでは足りないとでも思ったのか、紙片の残骸を地面に向かって投げ捨てる。細切れの交換票は、風に飛ばされて花びらのように散ってゆく。

「今さら……」

 希莉江は笑おうとして失敗した。

 追われている。胸騒ぎを通り越した焦燥感に全身が灼かれる。あの男は、希莉江をまだ諦めてはいないのだ。

「さっさと行きなさいよ! あんたたちの仕事は終わったわ」

 云い放った。心細さを感じないと云えば嘘になる。それでも、今は誰の顔も見たくはなかった。足元がぐらついて、立つことも覚束ない。

「まだ終わってないよ」

 穏やかな声は捺夏のものだ。差し延べられた手が希莉江の肩に触れる。

「あんたの荷物を持ってきてない。宿に戻ろう。乗って」

 抵抗する間もなかった。思いがけない力で抱え上げられる。ひょいと乗せられた飛竜の背は丸く、暖かい。

「叉雷も」

「ああ」

 叉雷が希莉江の後ろに乗り込む気配がする。希莉江は歪んだ顔を両手で覆った。

「ごめん。おれが余計なこと云ったせいだね。小人には近づいちゃ駄目だよ」

 やめて。声もなく呟く。あたしは、あなたたちの優しさに見合うような人間じゃないの。

 たった一人の母親を見殺しにして、葬りもせずに逃げてきた。

 一人で旅をするうちに、希莉江は気づいたのだ。あたしはいくらでも強くあれた。なのに、どうして何もせずにのうのうと暮らしていたのだろう。

 強い意志と柔軟な知恵があれば、警邏隊に捕らわれることもなく逃げられるのだ。希莉江がそうしたように。冬花が生きている間に、そのことを知っていたならば。決して、冬花を冷たい床の上などで死なせはしなかったのに。――せめて命があるうちに、冬花を連れて逃げれば良かった。

 冬花が死ななければ、逃げることなど考えもしなかったことは分かっている。だが、失われた命は、何に換えても取り戻すことは出来ないのだ。

「キリエは何も悪くない。行きたい所があるなら、どこへでも送ってあげるよ」

 捺夏の声が、絽々の生み出す風に飛ばされる。その背にしがみつくような格好で、希莉江は一人惨めな思いを味わっていた。


*     *     *


 宿に戻った希莉江は、ベッドの上から天上を見上げている。

 捺夏は「気が変わったら云って。おれたち、あんたがここを出るまでついてゆくから」と云ったが、希莉江は黙したまま首を振った。

 報酬は既に渡してある。彼らは自由だ。希莉江が持て余す自由も、彼らなら上手に乗りこなすだろう。捺夏の白い飛竜のように、大らかに飛んでゆくことだろう。晴れた空を、どこまでも。

「会わなきゃ良かった」

 食い縛った唇の間から呻く。雪で飾られた山の裾野から、一人で歩く道もあった。国境を越えるどころか、都の傍近くまで戻ってきてしまった。冬花の遺体を見つけた日から、一歩も進んでいない気がする……。


 朝と同じ荷物を手にして宿から出た。

 意地なのか、それとも信念なのか。自分にも分からない。真っ直ぐにぶつけられた叉雷の言葉が、いくつも浮かんでは消えてゆく。

 闇色の空が遠い。冷えた夜の空気が、希莉江の心を一層寒々しくさせる。

 鍵がなければ登ればいい。そう思っていたから、鉄の塀をよじ登ることに躊躇は無かった。登りきった塀の頂から、思い切って地面へ飛び降りる。つんのめりながら、小人たちの寝床へと降り立った。

 その場で立ち止まる。塀の外よりも、さらに暗い闇に目が慣れてくるのを待つ。


 異変に気づくまでに、長い時は必要なかった。

 何かがおかしい。ギギ、ギギと鳴いていた声が全く聞こえない。時折、水を啜るような音が聞こえる。バキッという、堅い物を無理矢理挽き割るような音も。

 五人だった小人が一人だけになっている。希莉江に背を向けて、取り憑かれたように同じ動きを繰り返している。

「そこにいるんでしょ? あたしよ……」

 歩み寄りかけた希莉江は、はっと息を呑んだ。――あれは何だ?

 小人の足下には黒い糸状のものが散らばっている。力無く投げ出された子供のものらしい腕には、肘から上が無かった。そして、履き潰された靴の中身は……無い。

 どこへ? 本来そこにあるべき足は――。

 数秒後。その答えを、希莉江は我が目に映すこととなる。


「いやああああぁ――ッ!」


 のろのろと振り返った小人の汚らしい唇からは、哀れな犠牲者の小さな親指が覗いていた。全身から力が一気に抜けて、希莉江は腰から地面へと転げ落ちる。


「ひ、人を」


 叉雷。あたしはやっぱり間違っていたのかしら。堅い床の上に寝る覚悟が無ければ、人助けなどできないのだと語っていた。そう、文字通り、希莉江の母親のように、堅い床の上に横たわるだけの覚悟が無ければ……。たった一人、誰にも看取られずに息絶えていた母。肌は色を無くし、瞳は既に濁っていたにも関わらず、彼女の死に顔は嘘のように美しかった。


「ぁ、ッ……あぁ」


 小人に貪られている体は誰のものなのか。希莉江は考えることを拒否した。嫌だ、嫌だ、嫌だ。嫌――もしも、あれがセリだったら。カイトだったら。いいえ、そうでなくとも、あたしには、小人を許すだけの優しさなんて無い。絶対無い。だって、こんなにも憎い。あたしに降魔師のような力があったら、今この瞬間に殺してやりたいとさえ思っているのに。あぁ、願うだけで人を殺せるなら。あたしは、これまでに何人も殺している。きっと。


「……人殺し!」


 あの子の代わりに喰われるだけの覚悟が、あたしにはあるかしら? あったかしら?

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