【5】貧民窟(6)
* * *
希莉江は歩いていた。
セリが走り去ってから間もなく、希莉江も小人たちの檻を離れた。あのまま小人たちに囲まれていたら、自分が何をするか分からなかったからである。生まれて初めて、人に向かって手を上げてしまうのではないか。そう思ったら、怖くてたまらなくなった。
見なければ良かった。希莉江は後悔している。好奇心に任せて浮かれていた自分を馬鹿だと思う。今も気分が悪い。胸がむかついている。あれほど激しい憎悪を感じるとは、思ってもみなかった。
眩しい日射しの下を、希莉江は止まらずに歩き続ける。
ここはどこだろうか。セリに連れられて歩いた道ではない。分かるのはそれだけだ。
陽はさらに高さを増している。先程まで髪を揺らしていた風は止まり、じりじりと背中が焼ける。つらい。足首と脛が、ずきずきと痛んでいる。けれど、帰りたいとは思わなかった。宿には、まだ戻りたくない。セリはきっと叉雷を探すだろう。叉雷は出かけているらしいから、セリの話を聞くのは捺夏かも知れない。
のろのろと動く希莉江と同じく、のろのろと動く人影と擦れ違う。痩せた男だった。年頃は分からない。顔を見る気力もない。相手にとってもそれは同じようで、通りすがりに男の無精髭だけが目の端を掠める。
曲がり角で足を止めた。見えない向こう側から、話し声が聞こえてくる。二人、いや三人か。
「どうするの?」
間延びした声に続いて、不機嫌そうな溜め息が聞こえた。
「わたしに訊かれてもね。どうもこうも」
「まったく。あんなものを連れてきたおかげで、余計な仕事が増えたじゃないか」
「でも、高く売れるみたいよ」
最初の問いと同じ声が云う。
「育てるのも一苦労だけどねえ」
育てる? 一体何を。希莉江はふらりと角を曲がった。
三人ではなかった。四人だ。壁に凭れて煙草を吹かす女、片手に鍋を抱えた女、欠伸を噛み殺そうとしている女。三人の女は、中年をとうに過ぎているらしく、目元や口元に、くっきりとした皺が見て取れた。そして、背を丸めた白髪の女たちの中で、一人背筋を伸ばして立っている黒髪の女。娘というには年を取りすぎているが、まだ若い。二十代の半ばだろうか。
希莉江は立ち止まらなかった。女たちの様子を窺いながら通り過ぎる。
「じゃあ、また」
黒髪の女は、仲間の女たちに軽く会釈をした。
「また明日」
壁に凭れたままの女が鷹揚に応える。
希莉江の後ろから黒髪の女が歩いてくる。女の足は速く、希莉江はすぐに追いつかれてしまった。暑さでぐったりしてさえいなければ、希莉江の足は、そう遅くはない筈なのだが。
「あんた、どこの子?」
希莉江を一瞥した後で、訝しげに声をかけてくる。そのまま女が足を止めたせいで、つられて足を止めてしまう。
「……」
希莉江は応えない。
「外から来たんでしょう。暗くなる前に帰りなさい」
諭す口調で云うと、希莉江の返事を待たずに歩み去ろうとする。
「待って下さい」
希莉江は思わず女の後を追った。
「今、何の相談をしていたんですか?」
「私たちが何をしていようと、外の人には関係ないでしょう」
素っ気ない声が帰ってくる。女は前を向いたままだ。
「人を売っているんですか」
女が体ごと希莉江を振り返る。右肩に寄せていたまとめ髪が跳ね上がった。
「私も親に売られた。だからこんな所で生きている。売られた私が、人を売って何が悪いの?」
挑むような眼をして云う。女はとりたてて悪びれる様子もない。希莉江は唖然とする。
何かを云いかけて、しかし希莉江は口を噤んだ。あたしも人に買われていたと、そう云うのは簡単だった。だが、他人を売買する行為を受け入れることは、今の希莉江には到底不可能なことと思われた。
己を追い越した女を逆に追い越して、希莉江は先へと進む。
「やめなさい。その道の先には何も無い」
「無くても、いいんです」
あたしには、もう何も残っていないのだから。希莉江は自嘲の顔で笑ってみせる。女は声を上げて笑った。
「こんな生意気な迷子は、久し振りに見たわ。あんたで二人目」
「……?」
「一人目は、もういない。ここで殺されたから」
女の声は苦い。
「どうして?」
希莉江は戸惑いながら女を見つめる。女は、もう笑ってはいなかった。
「この街では、生死に理由はないの。弱い者は追われて狩られる。売られて買われる。それだけのこと。忠告はしたわ。後は好きにしなさい」
突き放す声は冷たく、女の言葉が事実であると言外に告げていた。
ひたすらに歩き続けて、ついに希莉江は腰を下ろした。
小高い丘からは、曲がりくねった道の先が見通せる。荒れた土の上に、無造作に置かれた鉄の板を椅子代わりにした。膝を抱えて座り込む。
「疲れた……」
広い道に人通りは無い。希莉江の斜め後ろには樫の大木があった。太い幹が落とす影に包まれて、上がり過ぎた体温が下がってゆくのが分かる。首筋の汗を片手で拭った。
「どこなの、ここは」
応える者がいないと分かっていて、あえて口に出してしまう。二年に渡る一人旅は、確実に希莉江の独り言を増やしていた。
案外、宿の近くへと戻って来ているのかも知れない。土地勘の無い希莉江は、行き止まりにぶつかる度に右へ曲がり続けていたので。
早起きをしたせいか、瞼が重い。体が欲するままに目を閉じた。
このまま、煙のように消えてしまうのもいい。そんなことを思う。主の目に留まらぬように、いつも目立たぬようにと心がけていた。気配を殺し、息を潜めて。その必要が無くなった今でも、様々な場面で同じことを繰り返している。一度身についた習慣を忘れることは難しい。
すうすうと呼吸を繰り返すうちに、すぐに意識が無くなった。
再び目を開けると、影の位置が変わっていた。随分長く眠っていたようだ。
額に貼りついた前髪を両手で後ろへ流す。
「おねえちゃん。なにしてるの?」
突然、頭上から声が落ちてきた。
「えっ!」
驚きのあまり、座り込んだ格好のまま体を浮かせる。慌てて上を見上げた。
樫の枝の上には、あどけない顔の少年がいた。あれはセリの弟だ。
「あなた……。セリの」
「カイトだよ」
にっと笑う。白い歯が零れた。長い枝に両足をかけて座り、背中を丸めて身を乗り出している。
「大丈夫。少し、ぼうっとしていたかっただけ」
「だめだ。ここ、あぶないよ」
笑みを消し、真剣な顔つきで云う。
「だったら、あなたも家に帰った方が……」
「おれは平気だよ。親方が助けてくれるもん。でも、おねえちゃんはあぶないよ」
希莉江は不思議そうにカイトを見上げる。カイトの顔は硬く強張っていた。
「ジンもギルドに入っていればよかったのに」
声には諦めが混じっていた。既に結末を知る、哀しい話を語るかのように。
「あなた、知ってるのね。ここからいなくなった子が、どうなったのか」
カイトは複雑な表情で希莉江を見つめる。泣き出したいようにも、怒りを堪えているようにも見えた。ややあって、掠れ声で言葉を返す。
「知ってる。怪物に殺されたんだ」
「怪物?」
「みにくくて、いやしいやつらだよ」
「あなたは、それを見たの……?」
「見てない。でも、わかるんだ。ジンは殺された」
ざっと音を立てて風が押し寄せてくる。緩く束ねた希莉江の髪が舞い上がり、ばたばたと肩に落ちて跳ねた。耳元で、鳥が飛び立つ時のような音が鳴る。
「おれも、夏からギルドで働くんだ。でも、ほんとはいやだ。ねえちゃんといっしょに、早くここから出たい」
「セリも同じことを云っていたわ」
「そっか」
希莉江から視線を外して応える。
「おねえちゃん、どこから来たの?」
「あたし? あたしは……」
答えに迷う。
「都から」
「うん。そうじゃないかと思ってたんだ」
希莉江は足に力を入れて立ち上がる。よろけそうになるのを何とか立て直した。
「ねえ、降魔師って知ってる?」
「えっ?」
降魔師。その名は、都に住む者なら誰でも知っている。
風と語り、火を生み出し、水を分け与え、土に種を運び、金銀を練り上げる者。魔を降ろし、天空の星を詠む者。白い塔に閉じこめられた、無罪の囚人たち。
「……金銀を練り上げ、魔を降ろし、星を詠む者」
記憶の中から言葉を引きずり出して口にする。カイトはぽかんとした顔で希莉江を見ている。
「すごいや。なんで知ってるの?」
「本で読んだのよ」
主の書斎では、無数の本が壁一面を埋め尽くしていた。主が働いている間を狙って、掃除のために書斎の鍵を開ける。鍵は希莉江が持っていたため、希莉江はいつでも書斎を開けることが出来たのだ。掃除が終わると、希莉江は必ず本を読むようにしていた。
「おれの父さんは、降魔師だったんだ」
「そう……。お父さんは優しかった?」
希莉江は父を知らない。名も、顔も。母は父の名を希莉江に教えてはくれなかった。
「うん。とっても。でも、戦争で死んじゃった」
カイトは、「よっ」と声を上げて枝から飛び降りた。
「あたしも、母を亡くしたの」
「戦争で?」
「いいえ。病で」
甦る光景に息が止まる。白い顔。白い手。長い睫毛の下に見つけた、紛れもない涙の跡。
「おねえちゃん?」
「大丈夫」
卑怯者。囁く声は、自身の胸の内から聞こえる。
母を捨てて逃げ出した日から、希莉江は自らを信じ切れなくなってしまった。
たとえ、どれほど辛い境遇にあろうとも、母の亡骸を手厚く葬る義務があったのではないか? 全てを失ったからといって、当てもなく逃げるだけの理由が、果たして自分にはあっただろうか。もしあったとして、その理由は正しいといえるだろうか? 他ならぬ、希莉江自身にとって。
物思いに耽る間に、陽は陰り始めていた。カイトは、そわそわと肩を揺らしている。
「おねえちゃん。おれ、もう帰るよ。いっしょに行こう」
「あなたは先に行って。……もう少しだけ、ここにいるわ」
「そう? 早く戻った方がいいよ」
肯きながら、希莉江は笑ってみせる。カイトは安心したようだった。
「じゃあねー」
手を振って歩いてゆく。カイトには帰る場所があるのだ。
上り坂の向こうへと消える後ろ姿を見守ってから、希莉江は再び腰を下ろした。
希莉江は本が好きだった。彼女が自由に選んで楽しめるものは、それしかなかった。年を重ねるごとに、主の許し無しには敷地の外へ足を踏み出すことさえ出来なくなった。学校に行くことすら叶わなくなった時、希莉江はようやく己が生まれ落ちた瞬間から檻に囚われていたことを知ったのだ。知ってからは、ますます本の世界へとのめり込んでいった。
妖獣の姿を集めた図版を希莉江は好んで手に取り、飽きるまでいつまでも眺めた。どれも心躍るものばかりだった。ただ一つを除いて。
それは美しい姿の男女の挿画だった。初めて目にした時には、あまりの美しさに目を奪われた。見開きの頁の左右にそれぞれ描かれた人物たちは、互いに向かい合って立っている。だが、添えられた解説を読んだ後では、激しい嫌悪だけが幼い胸に残った。
サキュハースとインキュハス。彼女と彼は魔人である。人の心を操り、夜ごと誘惑の口づけで人を惑わす。この上ない悦びを与え、代償として命を奪う。一対の姿を囲むように、右左に刷られた文字の字体まで思い出せる。右には「愛によって生き、全てを奪うが、何ひとつ与えることはない」と書かれ、左には「快楽の化身である」と書かれていた。
魔人たちは、まるで希莉江そのものだ。希莉江が育つ分だけ、冬花は痩せた。病床に就いてなお、笑みを絶やさない母が痛ましかった。
希莉江は、我知らず母の命を吸い上げて生きてきたのだ。そのことに思い至った時には、既に母はこの世の者ではなかった。今でも、母の手の感触を感じて真夜中に飛び起きることがある。つい先週のことだ。
希莉江と名を呼ばれた。冬花は笑っていた。早く起きなさい。揺り動かされる肩が震えているのは、希莉江が笑っているからだ。母さん、と呼び返す自分の声で目が覚めた。
夢だった。母の声があまりに優しく、甘過ぎて、それが夢だとは思いたくなかった。窓越しの街灯にぼんやりと光る部屋で、息を殺して咽び泣いた。
あの孤独を語るに相応しい言葉を、希莉江はまだ知らない。
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