【5】貧民窟(4)
* * *
翌朝――。
希莉江は断続的な電子音で目を覚ました。枕の下から四角い目覚まし時計を抜き取る。ボタンを押して音を止めた。
両手をシーツに突っ張り、のろのろと体を起こす。まだ薄暗い空を窓越しに見やって、ほっとした顔をする。
「やっぱり。昨日仕込んでおいて良かったわ」
五月とはいえ、明け方は流石に冷える。両肩をさすりながらベッドを降りた。
クローゼットから昨日と同じ服を選んで身につける。小振りな黒の鞄の紐を左肩から斜めに掛ける。鞄には財布だけが入っている。
「さっ、行かなくちゃ」
自分に向かって一声かける。小さな足に靴を履いて、ようやく準備が整った。
「サライ、起きてる?」
廊下から扉越しに声をかける。中からは「ふにゃー」としか形容できない返事が返ってきた。明らかに寝ぼけている。
「ダッカ? ダッカよね」
「おれだー、よー」
「サライは?」
「いなーいー。朝までに、帰るって、ゆってたけどー」
「あたし、先に出るから」
捺夏はしばらく無言だったが、急に大きく「だめー」と叫んだ。
「今日は一人でいいわ」
「……だめー。ついてく、から」
「あたしがいいって云ってるのよ。セリが案内してくれるから、大丈夫よ」
「んもー……」
「いいから、ダッカは寝てて。まだ朝の六時よ」
「むにゃ」
「……」
黄色で塗られた扉に耳を当てて、捺夏の寝息が聞こえるまで待つ。数分が経つと、捺夏は一言も洩らさなくなっていた。
「これでいいわ」
音を立てぬように階段を駆け下りる。希莉江はとても嬉しそうに見えた。
宿から出て、斜向かいの家へと向かう。希莉江は走っていた。
青い屋根の家の前で、セリが腰を屈めているのが見える。セリは薄緑色の丈の長い寝間着を着ていた。裾の広がった形のせいか、昨日よりもずっと愛らしく見える。両手に持った黒のゴミ袋から推測すると、どうやら今日はゴミの回収日らしい。ゴミ袋を置いて、玄関へと戻る途中で首を伸ばして欠伸をする。そんなセリの姿が微笑ましくて、希莉江は思わず笑ってしまう。
「おはようっ」
猫が獲物に飛びかかる瞬間のように、セリの隣へ素早く辿り着く。
「キリエ。どうしたの?」
ぱっちりと開いた目が希莉江を捉える。
「早起きだね」
「セリも、ね。ねえ、あたし今すぐ見たいものがあるの」
「なに?」
「セリ、あたしを小人たちがいる場所へ連れて行って」
「えっ」
セリは尻込みした様子で希莉江を見る。
「昨日はサライがいたから行けなかった。あの人、あたしに小人を見せたくないみたいなの。でも、あなたがいれば平気でしょう?」
「そ、そりゃあ、見せてあげられるのは確かだけど。サライさんが怒らない?」
「彼はあたしが雇った護衛よ。あなたが怒られることはないわ」
「……ちょっとだけだよ。遠くから見るだけにして」
「ありがとう。すぐに行ける?」
「うん。鍵を取ってくるから、ちょっと待ってて」
再び現れたセリは、濃紺の上着を片腕に抱えていた。その手には鍵束が握られている。
「じゃあ、行こうか」
「行きましょ」
嬉しそうに希莉江が肯く。
「ねえ。キリエは、どうして小人なんかが見たいの?」
「あたし、幻獣とか怪物とか、そういうものに惹かれてるの。なぜかは、自分でもよく分からないんだけど」
「へえー」
「キメラとか、キマイラとか呼ばれているもの……。いくつもの動物が組み合わさった獣のことよ。小さい頃に絵本や童話で見て、不思議な生き物だなって思った。いつか、ああいうものを見てみたいって、ずっと思ってたの」
「あたしは、昨日の夜見たけどな。小人よりも不思議な生き物」
「何?」
「飛竜! あんたの連れのお客さんのだよね。厩舎に入ってくのを見たよ。空から、スイーッと。かわいかった。カイトも見てて、すごい興奮してたよ」
「あたしが好きなのは、ああいう、可愛い感じの生き物じゃない。もっと……そう、どこか怖いような生き物なの」
夢見るような顔つきで語る。セリは、危ういものでも見るように希莉江の横顔を窺っている。
「遠くから、だよ。ほんとは見せたくないんだ」
溜め息混じりにこぼす。
「朝の、こういうしんとした空気。あたし好きよ」
希莉江の頬が上気している。上着を両肩に羽織ったセリは、手にした鍵束を落ち着かなそうに弄っている。
「どうかした?」
「別に」
セリの応えは短い。希莉江は数秒の間、セリの横顔を見つめていた。少し強張った頬のラインが大人びて見える。視線に気づいたのか、黒い瞳が希莉江を見た。見て、困ったように笑う。
「今日も畑に行くの?」
「ううん。頼まれた日だけ」
セリが首を振ると、それに合わせて黒髪が揺れる。
「小人の世話も、本当は決まった日にだけするんだ。勝手に入ったと親方に知られたら、ちょっと面倒なことになるから」
「親方?」
「ボスのこと。うちのギルドのね。あたしはギルドに入ってるんだ。仕事は親方がくれる」
「でも、あたしはあなたの親方なんて知らないわ」
「あんたは直接仕事をくれたから」
セリは喉の奥で笑ったようだった。
「上納金は報酬の半額だ。あんたに会えて、あたしはラッキーだった」
「あたしが……もし、あたしと取引したことがギルドに知られたら、セリはどうなるの?」
「まあ、間違いなく追放されるかな。場合によっては――」
命を取られる。ごく小さな声でセリは続けた。希莉江は愕然とする。
「嘘でしょう? こんな、つまらないことで」
「ギルドの掟は厳しいよ。だけど、最低限の生活の保障はしてくれる」
「……親方って、きっと贅沢な暮らしをしてるのね」
「まあね。都の偉い人にも顔が利くらしいよ。都で悪いことをして捕まって、看守に金を積んで脱獄したって云ってた。どんなに金があっても、ここから出られないんだってさ。あたしに家を貸してくれてるのも、同じギルドの人なんだ」
「……」
希莉江は言葉を失っている。セリもまた、かつての自分と同じ境遇にあるのだ。ただ一つだけ、希莉江とセリには決定的な違いがある。確かに自由は無かった。憎悪に満ちた言葉や、歪んだ愛情を孕んだ視線に苛まされながら生きてきた。だが、命を奪われると感じたことはなかった。
「ねえ。サライさんて、格好いい人だよね」
「えっ、そう?」
思いも寄らぬセリの言葉に、希莉江は何もない場所で躓きそうになる。
既に街を抜け、二人は剥き出しの土の上を歩いていた。
「だって、すごく綺麗だし、物静かだから」
「嘘。サライは結構口数多いのよ。昨日は……たまたま、大人しかっただけよ」
「そうなんだ」
「……そうよ」
希莉江の声には覇気がない。希莉江は叉雷を量り切れていなかった。叉雷と知り合ってから、まだ数日しか経っていない。優しい人だと思う時もあれば、酷く酷薄に思えた時もあった。どちらが本当の叉雷なのか、希莉江には分からない。
「……」
少女たちは無言のまま歩み続ける。
「池があるわ」
細い橋のかかる水辺を見て声を上げる。ほどなくして、池の向こうに咲き誇る花が目に入った。希莉江は顔を輝かせて駆け出す。ゆるい半円を描く木の橋を渡って足を止めれば、花の甘い匂いに全身が浸されてゆく。
五月の花々は、春のそれよりも力強く希莉江の目に飛び込んでくる。
赤の薔薇、薄紅のライラック、白と黄の牡丹。藤棚から垂れ下がる、紫の藤の花。白と桃色の可憐なカルミア。濃い紫の文目。色とりどりの花が鮮やかに見える理由は、地を覆う緑の色が濃いからかも知れない。薄緑ではない。原色の緑だ。
誰かが手をかけて育てているのだろう。本来ならば、そこかしこにある筈の雑草が全く見当たらない。大地は青々とした緑に覆われている。樹木にも剪定の跡がある。無駄な枝は落とされ、花の美しさを引き立てている。
「素敵!」
行く当てのない旅は、希莉江の心に安らぎを与えるようなものではなかった。景色を楽しむ余裕も無く、逃れるためだけに放浪した。二年は長かった。希莉江の巡礼は決して遊興ではなかった。
だから今、こんな風に高揚している自分が他人のようにも思える。浮わついている。地に足が着いていない自覚はあった。
「きれいだよね」
ゆっくりと歩を進めて追いついたセリが、希莉江の後ろから声をかける。
「誰が世話しているの?」
「知らない。でも、この季節はいつも咲いてるよ。冬は枯れ枝に積もる雪がきれいだ」
ややあって、セリが踵を返す。
「行こう」
希莉江は立ち去りがたい様子だったが、何かを振り切るように二、三度首を振ると、セリの後を追って歩き出した。
「ここだよ」
鉄の囲いの前で立ち止まる。屋根は無かった。山羊の鳴き声が耳を掠める。ギギギ、と金属を擦り合わせるような音が聞こえている。これが小人の声だろうか?
「じゃあ、開けるよ」
顔だけを希莉江に向けて告げる。セリは真剣な眼をしている。
「いい?」
希莉江に異論のあろう筈もない。無言で肯く。握り込んだ両手の拳の内側が熱い。セリの手が鍵を開ける。鉄の扉は内側に向かって開かれた。ギーギーという声が一際高まる。怪しげな気配にぞくりとする。不穏だ。とても。
恐れとも喜びともつかない感情が希莉江を突き動かす。セリに続いて、飛び込むように中へと入った。
小人がいる。五人だ。
大人の胴体に子供の手足をつけられたような、アンバランスな体をしている。だらりと垂れた両腕を前後に動かしながら、緩慢な足取りで歩き回っている。
髪の色は全員が白い。整えられもせず、肩の辺りまで適当に伸びている。肌の色は血色が悪く、青みがかった灰色に近い。瞳の色は良く分からなかった。全員が顔を伏せているからだ。体の重心は、常に前に傾いでいる。のろのろと動き続ける小人の傍らに立つと、自分が酷く巨大になった気がする。尖った耳が頭と一緒に小刻みに震えているのが見えた。
一人だけ、腰まで髪を垂らした小人がいた。女の小人だろうか?
「おはよう」
希莉江は努めて優しく声をかけた。女の小人は火に触れたかのように「ギャッ」と叫んで飛び退いた。
「ギ」
「ギィー」
ばらばらと唸り声が上がる。小人同士で会話をしているのかと考えたが、それぞれが明後日の方向を見ていることから、独り言だと思い直した。
「言葉は全く通じないの?」
セリに訊ねる。セリは鉄の扉を背にして立ち竦んでいた。いつでも逃げられるように気を張っているのが見て取れる。
「通じる訳がないよ……。そいつらは人間じゃないんだから」
「なぜ、人間じゃないと云えるの?」
問いかける希莉江は真顔だ。
あたしは人にはなれない。嬉しそうに希莉江を嘲笑い続けた女たちの顔が、声が、鮮明に脳裏を過ぎった。あいつらと同じものではありたくない。時を置いても決して拭い去れない。闇色の記憶は希莉江を捕らえて離さない。あたしの顔を見て、うっとりとした顔をする、あいつと同じものではありたくない。
人でいられないなら、あたしは怪物になる。
「キリエ?」
「あたし――。あなたたちに興味があるのよ」
手を伸ばして一人の小人の肩に触れる。触れられた小人は「ギ、ギ」と鳴き声を上げ、希莉江を恐れるように体を縮めている。
虚ろな目だ。そう感じた。間近に立つ希莉江を見ようともしない。
「あたしが、あなたたちのために出来ることが何かある?」
「だめ! それ以上近づいたら……キリエッ!」
「大丈夫よ」
希莉江は振り返りもしない。魅入られたように銀色の瞳を覗き込んでいる。
「キリエ、やめて! 戻ってきて!」
セリは絶叫した。涙声だった。希莉江はセリを無視した。セリの逡巡は長くは無かった。扉を開け、外へ飛び出してゆく気配がした。間を置いて重たげに扉が閉まる。
ほっと息をつく。これでいい。
あたしはもう、嵐が迎えに来るのを待つ気はない。あたしが嵐になる。
「あたしの言葉が分からないの?」
頼りなげな声で問いかける。
小人の一人が不機嫌そうに希莉江を見た。きつい眼差しに胸苦しさを覚え、希莉江は何も云えずに立ち尽くした。ここでも、あたしは異邦人だ。どこに行っても同じ。あたしの居場所はどこにもない……。
あたしは何がしたいのかしら? 夢も希望も無く、日々目減りしてゆく財布の中身を確かめながら、一体何を求めてここまで来たのか。そうだ。あたしは、こんな所まで来てしまった。都から離れたい一心で、あの場所から逃げた筈だったのに。あたしはこの国から出ることすら叶わなかった。
ここは都に近い。あたしにとっての地獄の街は、ここじゃない。彩楼だ。あの場所のことを考えるだけで吐き気がする。街の端から火をつけて、全て燃やし尽くしてしまいたいとさえ思う。燃えろ。燃えてしまえ。それなのに、あぁ……なぜだろうか。あたしは、もう一度あそこへ戻りたいと思っている。願っている。彩楼。母と過ごした思い出の地――。
明け方に冬花の暖かさに寄り添って微睡んでいる時、希莉江はわざと寝たふりを続けた。遅れて目覚めた冬花が、甘やかす声で希莉江を起こそうとするのを待っていた。
「こらっ。本当は起きているんでしょう」
そう云って、希莉江の体をくすぐってくる。堪えきれずに目を開けると、冬花が目を細めて笑う。慈愛に満ちた瞳が希莉江を見ていた。希莉江だけを。冬花の傍らにいるだけで、心臓がきゅっと掴まれるような幸福感に浸っていられた。いつも、どんな時も。
希莉江の髪を編む手つきが今でも忘れられない。他愛ない喧嘩なら何度もした。仲直りの合図は、困ったような冬花の笑みと決まっていた。夢見がちに見えて、強かな部分もあった。希莉江の母は、希莉江を捨てずに育て上げられるくらいには強かったのだ。
あたしは確かに愛されていた。だからこそ、母さんが逝ってしまったと気づいた瞬間に自由になれたのだ。あの時のあたしは何も怖くなかった。失うものなど、一つも無いのだと信じられた。なぜなら……。最も大切なものは、既に冷たくなって横たわっていたのだから。亡くしたからこそ理解できた。あたしは失った。だから、もう何も失うものはない。
不意に、小人たちの土まみれの汚れた体や、光の灯らない虚ろな眼に激しい嫌悪を感じた。それは憎悪と呼んでも良かった。耳障りな声を上げ、蜘蛛の子を散らすように希莉江から逃れてゆく小人たちが憎い。
「あんたたちだったら、あたしを受け入れてくれると思ったのに」
呪いの言葉を口にする。小人たちは両手で耳を塞いでいる。誰一人として、希莉江と視線を合わせようとはしない。
希莉江は唇を噛み締めて立ち尽くしている。
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