【5】貧民窟(3)

「あいつ、またやってる」

 俯きがちに歩いていた希莉江が、セリの言葉に顔を上げる。

 「かし」と書かれた看板を提げた屋台の前で、まだ幼い少年が高い声を張り上げている。

「ねーねー、いいでしょ?」

「お前なあ。いい加減にしろ」

「そんなこといわないでさあ。おっちゃん。これ、まけてよ」

 甘えた声で値切りを試みる。少年が両手で抱えているのは、捺夏が好みそうな駄菓子の袋詰めだ。

「だめだ、だめだ」

 少年の相手をしていた中年の男は、話しにならないと云いたげな顔で断る。少年はしぶしぶ金を払い、ふと振り返ってセリに気づいた。

「ねえちゃん」

「こらっ。そんなものばっかり買っちゃだめだろ」

「そうだ。セリの云う通りだぞ、カイト」

 男が大きく肯く。カイトと呼ばれた少年は、不満げに頬を膨らませた。

「違うよ。ねえちゃんだって喰うよ、これ」

 短く刈った髪と大きな瞳は、色素の薄い茶色だ。黒髪と黒い瞳のセリとは、明らかに異なる容姿をしている。

「そりゃあ、半分は喰うよ。あんた、もう買っちゃったじゃないか」

「ほらー!」

 得意気な顔で男とセリを見比べる。希莉江は我知らず微笑んでいた。

「ほらじゃない。あたしは仕事があるから、早く家に帰りなさい」

 セリの手がカイトの頭を軽く叩く。ぱしんと音が鳴った。

「誰? その人たち」

 好奇心の強そうな、大きく瞠いた目が希莉江と叉雷を見上げている。

「お客さんだよ。宿まで案内するんだ」

「おれもついてっていい?」

「だめ。あんたは家で待ってて」

「けちー」

「いいから、早く行きな」

 セリが促すが、カイトは足を止めたまま動こうとしない。

「一人で出歩いたら危ないって、何度も云ってるだろ」

「だって、ねえちゃんいないんだもん。おれ、つまんない」

 菓子袋に口元を埋めたカイトが愚痴る。

「だったら、外でフラフラしないで、友達の家に行きな」

 言葉こそ荒っぽいものの、セリの表情は柔らかい。

「ジンみたいに、誰かにさらわれてもいいの?」

「……やだ」

「セリ」

 希莉江が呼びかける。

「あっ、ごめん。あんたと同じ年頃の子と話したいんだよね。あたしの友達呼ぼうか? キリエよりは年下になっちゃうけど」

「ううん。今日はもういいわ。明日も案内してもらえる?」

「いいよ。もちろん」

 懐中から財布を取り出し、五枚の札をセリへ手渡す。その金額に、セリははっとしたようだった。

「こんなにもらえないよ」

「そう?」

「これで充分」

 二枚を希莉江に返して残りを受け取ると、セリは身を屈めて弟の手を取った。

「じゃあ、明日十時に。宿の前で待ってるわ」

「分かった」

「……じゃあね」

 希莉江が手を振ると、セリは弟の手を握りながら会釈をした。


 宿の一階で記帳を済ませて二階へ上がる。

「疲れた?」

 板敷きの廊下で叉雷が問う。希莉江は無言で首を振った。

「君の部屋はこっちだ」

 云いながら、希莉江の部屋の扉を開ける。

「一人で使っていいの?」

「もちろん」

 希莉江は首を伸ばして部屋の中を見る。据え置きのベッドとクローゼットが目に入った。出窓には薄い桃色のカーテンが掛かっている。

「……普通ね」

 拍子抜けした顔で叉雷を見上げる。

「もっと荒れてると思った?」

「うん。この街、意外と住みやすいかも知れないわ」

「そう?」

「ねえ、捺夏は?」

「少し出かけると云っていた。おれは隣の部屋にいるよ」

「絽々と一緒に行ったの?」

「ああ」

「じゃあ、あたし少し休むわ」

「ごゆっくり」



 窓の外は暗い。陽は既に落ちていた。

 叉雷は一人机に向かっていた。手元には白い便箋が置かれているが、まだ何も書かれてはいない。黒い万年筆を右手でくるりくるりと回すのは、幼い頃からの叉雷の癖である。

 ふと、視線を上げて扉の方向を見る。

「ただいまあ」

 バーンと勢い良く扉を開け放して、捺夏が一人で入ってくる。

「お帰り」

 叉雷は座ったまま椅子の向きを変えた。

「んもー、外真っ暗だよ。途中で絽々が寄り道したがってさー」

 担いでいた荷物を灰色の絨毯に落とす。捺夏は、靴も脱がずにベッドへと体を投げ出した。

「疲れたー」

「ご苦労さん。絽々は?」

「外飛びたいって云うから、飛ばせてる。ここの宿は厩舎があっていいね。絽々のご飯も用意してきたよ」

「たくさん歩かせたから、絽々も疲れたんだろ」

「そうなんだよねー。飛ぶより歩く方が疲れるんだよ。ストレス溜まるみたい」

 ふぁーと欠伸を洩らした後で、ゆっくりと体を起こす。

「なんだか眠いよ」

「交換票は取れたか」

「……有ったよ。ほらっ」

 桃色の紙を投げて寄こす。叉雷の指が空中を漂う交換票を捕まえる。

「有り難う」

「ねーねー、質問していい?」

「何を?」

「交換票。なんで、おれに取りに行かせたの?」

「選択肢は多い方がいい。取って来てくれて感謝してるよ」

「……むぅ」

 捺夏が唇を尖らせる。交換票の「依頼内容」の欄には、こう書かれていた。


   娘を捜しています。

   本名慈恵希莉江。黒髪に紫の瞳。年は十四。

   謝礼は金一封。情報は連絡先まで。


「髪は色を抜いていたんだなあ」

 叉雷は関心した様子である。

「年もサバ読んでたねー」

 捺夏は、ふにゃんとした表情で笑っている。

「さすがに十六じゃないとは思ってたよ」

「で、いつ渡すの? それ」

 再び寝転がった捺夏が問う。

「相応しい時に」

 叉雷は交換票を折り畳み、机の引き出しに入れた。

「叉雷、都の近くまで来るのは半年ぶり?」

 問いかける捺夏は、自分の腕に片頬を埋めている。睡魔と戦っているのかも知れない。

「ちょっと待て」

 叉雷は、机上の手帳を取り上げて頁を捲った。

「――これか。五ヶ月前に師匠に会って以来だな」

 日付を確認して捺夏に応える。

「アンディは元気にしてるかな?」

 彼らの師匠は、アンダルシアという名を持つ異国人である。天然の赤い巻き毛が印象的な拳闘の達人だ。弟子たちからは、親しみと尊敬を込めて「アンディ先生」と呼ばれている。

「どうかな。シェールも出て行ったし、一人で寂しがってるかも知れない」

 叉雷は手帳を置いて頬杖をつく。

「あの子も独立したの? 知らなかったなあ」

「手紙が来たよ。今は辺境の地で働いてる」

「えぇー、どこ?」

「アンガルスの西の方。政務官の護衛だってさ」

「何でおれにはくれないんだろ」

 捺夏は憤慨して云う。

「返事を出さなきゃ、返事の返事は来ないぜ」

 応える叉雷は唇の端で笑っている。

「なーる」

 ぽんと手を打つ。

「それじゃ、アンディは寂しいだろうなあ。あの子最後の一人だったのに」

「また増えるだろ」

「どうかねー。あの師匠、全然宣伝する気がないんだから」

「いいんだよ。あの家は、やむにやまれぬ事情を抱えた子供が行くべき場所なんだから。まともな神経の持ち主は、あそこじゃ暮らせないさ」

「じゃあ、あそこに入り浸ってたおれ達ってどうなの。人として」

「おれ達は、あそこでようやく人になった。そうじゃなかったか?」

 片眉を上げて応える。

「……まぁ、そうだったね」

 不承不承ながら、荒んだ少年時代を過ごしたことを認める捺夏であった。

「おれも相当捻くれてたけど、お前はもっと酷かったよ」

「叉雷は拳闘、おれは飛竜の育て方。アンディは性格歪んでるけど、人にものを教えるのは上手かったね」

「それだけじゃない。あの人はおれにとって高凱以上に頼れる相談相手だったよ」

「だよねえ。アンディは人の心の扉を鍵無しでガラッと開けて、洗いざらい人に喋らせておいて、用が済んだらひっそり出てゆく達人だった」

「去り際が見事だったな。まるで、何一つ聞かなかったような顔で出てゆく」

「おかげで気は楽だったよ。おれ、アンディと知り合うまで、自分の生き甲斐が金儲けだなんて気づかなかったもの」

「お前は稼ぎ過ぎだよ」

「ぐふー」

 目を細め、捺夏は満足そうに笑う。

「お前を見てると、いつも、おれがしてきたことが本当に正しかったのかどうか不安になるよ」

「何で?」

「学生の頃は、何度もここに来た。豊かなのは都だけで、辺境の村では大勢の人が貧窮してることも知っていた」

「……まあね」

「おれが勝った試合に全てを賭けている人たちがいることも知っていた。それでもおれは、お前のために勝ち続けてしまった。おれはいつでも、目の前の一人を助けるために、多くの人を不幸にしてきたよ。お前だけじゃない。マリさんたちのことにしてもそうだ」

「他の村に逃がしてやったこと?」

「そうだ。それも、あの二人だけを。全員を逃がすだけの力が、おれには無かった」

「時間もね」

 叉雷を慰めるように口を挟む。

「おれはマリさんもエンも逃がした。だけど、それだけだ。宗香では多くの人が亡くなった。おれは自分が関われた人だけを助けたんだ」

「しょうがないよ……」

「おれがしたことを偽善という人もいるだろう。それでもおれは、ただ助けたかったんだ」

 椅子から立ち上がり、空いているベッドへ腰を下ろす。

「全ての人を救うことは出来ない。そんなことは分かり切ってることだ。頭では分かっていても、やり切れない気持ちは、ずっとおれの中に残ってるよ」

「叉雷」

「もっと何かできたんじゃないか。別の方法があったんじゃないかってね。まあ、こんなことを考えること自体、おれの行いが自己満足だった証拠だな」

「別に、叉雷が何を考えてたって、関係ないよ」

「そうかな」

「そうさ。おれは叉雷に助けられたもの。それを叉雷が偽善だと思っているとしても、おれには全然関係ない。『おれは叉雷に助けられたんだ』って、おれ自身が思ってるって事実の方が、おれにはずっと重いよ」

「……」

 こんな時、叉雷は捺夏が捺夏であって心底良かったと感じるのだ。素直で単純なようでいて、独自の価値観だけは誰にも譲らない。その意味では、捺夏は至極明快だ。迷いもせず、躊躇いもせず、捺夏の視点から全ての物事を切り分けてゆく。許せること、許せないこと。好きなもの、嫌いなもの。曖昧にぼかすことはしない。捺夏は、自己と他者の間に明確に線を引く。一見あやふやに見えても、いざという時には決して揺らがない。

 その上で、捺夏は恥をかくことを厭わない。大切に思うものを守るためならば、平気で嘘八百を並べ立てる。必要とあらば、いくらでも頭を下げて臆病者を演じることが出来る。淵沼の村で叉雷以外のほぼ全員を欺いても、捺夏の良心は痛まない。「生きるために手段を選ばない」と語る捺夏の本音は潔い。

「お前を助けることで、おれ自身の存在価値をどうにかこうにか手に入れようとしていたとしても?」

「関係ないね。第一、偽善や同情だけで、あんな風に自分を犠牲にできるもんか。おれはさ、叉雷のことを誇りに思ってるよ。だけど、叉雷が本当は何を考えてそうしてくれてたのかなんて、ぶっちゃけどうだっていいんだ。おれにとっては、他でもない叉雷がそうしてくれてたことが、自分が生きててもいいんだって思える一番の理由だったんだから」

 いくつもの試合をくぐり抜けて、叉雷がどれだけ傷つこうとも、捺夏は決して泣かなかった。泣く代わりに捺夏は笑った。百戦錬磨の賭博師たちを逆に手玉に取って、叉雷が勝つ度に捺夏は手持ちの金を増やしてゆく。叉雷が闘技場で戦っている間、捺夏は観客席で戦っていた。叉雷にとっては、捺夏の方がどれだけ誇らしかったか分からない。一戦一戦が生きるための戦いだった。骨が折れても、血が流れても、全身の筋肉が軋んでも、叉雷は恐れなかった。大丈夫だ。何ともない。――どうせ、すぐに直る。

 それより、負けることの方が余程怖ろしかった。抵抗できなくなることは、当時の叉雷にとって死を意味していた。幼いこと。村の誰とも血の繋がりが無いこと。奪われたものを取り戻せるだけの力が自分に無いこと。抗え。戦え。さもなくば、待つのは緩やかな死だけだ。死んだら二度と探せなくなる。そんな結末だけは認めたくない……。

 捺夏を生かすことで、叉雷はようやく生きていられた。誰にも語れない秘密を抱えながら、何とか正気を保っていられたのは、守るべき者が捺夏だったからだ。捺夏が成人するまで二人で何とか生き延びようという願いが叶い、この年まで友人であり続けられた。今更ながらに奇跡のようだと叉雷は思う。

「どしたの?」

「いや。師匠の説教が、いかに的を射てたかを思い知って、ちょっと呆然としてるだけ。『お互いに寄っかかって生きる癖はさっさと捨てろ』と何度云われたことか」

 叉雷の言葉は溜め息混じりだ。

「そうだねー」

 対する捺夏は声を上げて笑う。叉雷は、それを聞きながら立ち上がった。

「ちょっと出てくる」

「どこ行くの?」

「野暮用だよ。朝までには戻る」

 クローゼットから上着を取り出して肩に羽織る。

「絽々を呼ぶ?」

「いや。歩いて行くよ」

 叉雷は軽く首を振った。

「いってらっしゃーい」

 寝そべったまま、ひらひらと手を振る。

「捺夏。一つ頼みがある」

「なに?」

「キリエに、ここのルールをよく教えておいてくれ」

「もう話したじゃんか」

「お前が話したのは、上っ面だけだ。お前がここの中でもマシな道ばかり選んだおかげで、彼女はここが本当はどんな場所か知らないままだぞ」

「……はーい」

「彼女は右隣の部屋にいる」

 叉雷は財布だけを持って扉へと向かう。

「頼んだぞ。小人の群れには近づかせないでくれ。観光が目的なら、カジノで充分だ」

 振り返って念を押す。

「過保護」

 ぼそっと捺夏が云う。

「雇い主の無事を願うのは当然のことだろう。――キリエは、自分が何を欲しがってるのか、それすら分からなくなってる」

 捺夏は、顔だけを持ち上げて叉雷を見ている。

「キリエは、彼女なりのやり方で人を助けようとしている。相手が本当に『人』なら素晴らしいことだけど、ここにいるのは人だけとは限らない。危なっかしくてしょうがない」

「分かったよ。話しておく」

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