【5】貧民窟(2)

「何が見たいの?」

 セリからは、土埃と微かな汗の匂いがする。畑仕事をしてきた後なのだと、希莉江には分かっていた。握手しようと伸ばされたセリの手の爪には、土が入っていたからだ。

「小人。さっき通り過ぎたの」

「えっ」

 セリは怯えた顔つきで立ち止まった。

「あんた、あんな奴らが見たいの? 何で?」

 困惑した視線が容赦なく希莉江を突き刺す。希莉江には理解し得ない恐怖に凍りついてはいるが、強い瞳だった。生々しい、生きる力に溢れた眼差しだ。希莉江は呉服商の娘たちのことを思う。――こんな熱っぽさ、あいつらには無かった。いつもつまらなそうな顔をして、あたしの仕草や言葉をからかって、せせら笑ってばかりいた。あいつらだけじゃない。嫌みったらしい奥方様も。その癖、あたしのことを真正面から見ることすらできなかった。あいつら、本当はあたしのことが怖かったんだ。だけどこの子は、あたしから目を逸らさない。なんて真っ直ぐな目だろう。なぜかしら? この子の方が、余程哀れな暮らしをしている筈なのに。何だか、あいつらの方が可哀相に思えてくるなんて……。

「どうして……」

「えっ?」

「ううん、何でもない。早く行きましょ」


「じゃあ叉雷、おれたちは先に宿へ行こうよ」

「だめだ」

「何で?」

 首を傾げて問う。

「捺夏。お前に頼みがある」

「なっ、何?」

「今から時計台の広場に行って、情報交換票が貼ってある壁を見て来てくれ」

「次の仕事を探すの?」

「そうじゃない。そこでキリエの捜索願が出てるかどうか確かめてほしい」

「……キリエの?」

「彼女の本名は『慈恵希莉江』だ。おそらく裕福な家庭からの家出人だろうと思う。商人か、地主のような富豪か――あるいは貴族か」

「それで? 捜索願が出てたら?」

「その紙を持って帰って来い。但し、依頼人に連絡を取る必要はない」

「ちょっと待てっ。あそこの紙は盗っちゃいけないんだぜ。票の番号を控えて、壁の中の情報交換受付所で写しをもらうんだから」

「だからこそ、壁の紙があっちゃまずいんだ」

 云い含めるような口調でゆっくりと話す。

「おれたちとキリエが一緒にいることを彼女の家族に知られたら、こっちが疑われるぞ。彼女を唆して誘拐したんじゃないかって」

「うぇー」

 うんざりした声が返ってくる。

「そんなこと考えてなかった」

「彼女は未成年だ。成人してるおれたちの方が責められる。『なぜ、家出人を保護者の家に戻そうとしなかったのか』と」

「帰りたくないって云ったから帰さなかったんだって云えばいいよっ」

「それじゃ通らないんだ。ここは法治国家だぞ。いくら彼女が望んだからって、貧民窟にまで連れて来るのはあまりにも非常識だ」

「分かったよ。見てくるから、叉雷はキリエから目を離すなよ」

「もちろん」

「行くよっ。絽々」

 翼を振り上げる音が耳元で鳴ったかと思うと、次の瞬間には宙に浮いている。高く飛び上がった飛竜と捺夏の姿が、やがて晴天に浮かぶ光のような点になってゆくのを、叉雷は目を細めて見送っていた。


「あっちか」

 踵を返して希莉江を追う。セリと並んで歩く希莉江は、ぴんと背筋を張っている。隣を歩くセリは、身振り手振りを交えながら、希莉江に街の様子を説明しているようだ。

 照り返す日差しが眩しくて、叉雷は片手で庇を作る。

 今は五月。これから梅雨を迎え、淵沼の村は祭の準備に忙しくなる。叉雷は祭が嫌いだ。白粉の匂いも、古びてごわついた着物も、白蓮山に灯る明かりも。何もかも大嫌いだ。そんな気持ちを押し隠して、毎年穏やかな顔を作ってやり過ごしていた。今年の夏は、もう笑い顔を作る必要もない。それが嬉しくもあり、申し訳なくもある。成り行きとは云え、これ幸いと村を見捨ててきた気がするからだ。叉雷が留まっている時にだけ彩流河が鎮まる理由を、叉雷自身は知らない。だが、知らないからこそ、これまで予感でしかなかった思いが確信へと変わってゆくのだ。叉雷が去った後で村がどうなるのか、今年こそ確かめてみたい。何事もなく季節が過ぎてくれれば、自分が村を離れることで罪悪感を感じる必要もなくなるだろう。

 叉雷には、二つの秘密がある。

 一つは七才の夏に失ったもの。もう一つは、同じく夏の日に手に入れた奇跡だった。どちらも捺夏には語れない、語ってはならない秘密だ。

 いずれにしても、転機は七才の時だったのだろうと――思う。

 大空を横切る龍の姿を見た時から、叉雷は変わった。両手で抱いた鱗の重みが、ざらついた感触が、今もこの手に残っている。失ったものを探して、探して、いつからか探すことに疲れた。泣くことにも飽きた頃、叉雷は龍を見た。あの時見たものが希望だったのか、絶望だったのか、今はもう分からない。それでも叉雷は、今でも龍を探し続けている。


「ここにも畑があるのね」

 前方から希莉江の声が聞こえてくる。叉雷には気づいていないようだ。

 少しだけ足を速める。少女たちのゆるやかな足取りに追いつくには、それで充分だった。

「キリエ」

 呼びかけると、希莉江は素早く振り返った。俊敏な動作が野良猫を思わせる。

「サライ。何してるの?」

 希莉江が立ち止まる。やや遅れてセリも足を止めた。

「護衛として雇われてるのに、君の傍を離れる訳には行かないだろう?」

 希莉江は軽く唇を噛んでいる。伏し目になって表情を隠してはいるが、動揺は明らかだ。追い打ちをかけるように叉雷が問いかける。

「セリさん、どこへ行くの?」

 希莉江の手がセリの手を強く握り締める。

「えっと……」

「まだ決めてないわ」

 口籠もるセリに代わって応えたのは、希莉江である。

「人の多い所がいいと思うの。あたしと同じくらいの年の子がいる場所はある?」

「あるよ。そうだ、あたしんちの周りはどう? 少し歩くけど、宿に近いよ」

「ええ、そこで構わないわ」

 つんと顎を上げて希莉江が頷く。

「じゃあ、行こうか」

 叉雷が云う。セリは不審そうに叉雷を見ている。

「そうだ。行きの道に小人たちの建物があったね」

「そうね」

 正面から風が吹いてきて、希莉江は反射的に目を細めた。

「できれば、あの辺りには行ってほしくないな」

「どうして?」

「危険だから」

 静かな声だった。叉雷は微笑んでいる。

「宿で休んでて良かったのに。疲れてると思って、気を遣ったのよ」

 冗談めかして希莉江が云う。二人の会話を黙って聞いていたセリが、希莉江の手を引いて歩き出す。


「いい天気だ」

 歩きながら、叉雷は茶革の上着に両手を突っ込む。

 貧民窟の空気は嫌いではない。乾いていて、不干渉だ。十代の頃には、学生寮を抜け出して、幾度となく足を運んだ。

 都の中心部に座す彩楼は華やいではいたが、どこか虚しかった。ここには、豪腕に引き絞られる寸前の弓のような緊張感がある。そしてそれは、叉雷にとって馴染み深いものだった。

「サライさんは、年いくつ?」

 セリが希莉江越しに問いかける。

「二十二」

「キリエさんは?」

「キリエ、でいいわ。十六よ」

「えぇっ。あたしより二つも上! 同い年くらいだと思ってたのに」

「背が低いから、そう思うだけよ」

 素っ気なく応える。華奢な体つきの希莉江に比べ、セリの体格はがっちりとしている。

「弟がいるって云ってたわね。弟はいくつなの?」

「弟は十才。本当の弟じゃないけど、あたしにとっては弟なんだ」

「本当の弟じゃない?」

 希莉江が訊き返す。

「この国の隣に、南稜っていう国があるだろ? あたしたちは、そこから逃げてきた。逃げる途中で、あたしと同じように逃げようとしてる子たちと会ったんだ。そのうちの一人が、あたしの弟だよ」

「逃げる? 何があったの?」

 道端に落ちていた紙切れが風に舞い上がる。

「五年前、南稜は彩泰と戦争をしてた。こわかったよ。夜になると、目に見えないモノが飛んできて、人がバタバタ死んでった。血も流れてないのに、朝には冷たくなって死んでるんだ」

「目に見えないもの?」

「あたしたちは人魂って呼んでた。人も獣も、たくさん死んだよ。銃で撃たれた訳でもないのに」

 激するでもなく、事実だけを語ってゆく。

 ――五年前の夏。目に見えぬ戦火から逃れるため、セリは一人で街を出た。彼女の家族や親戚は既に死に絶えていた。南稜の真北に位置する彩泰へ行くか、北東の東稜へ行くか、国境に辿り着くまで迷っていたという。

「ずいぶん昔は、彩泰と宗香は西稜っていう一つの国だっただろ? 北稜と東稜と南稜に囲まれてても、どの国にも従わない強い国だって聞いてた。だから、あたしは彩泰を選んだんだよ。東稜に逃げても、また戦争があったら彩泰に負けるだろうからさ。戦争が終わったら南稜に帰ろうと思ってたけど、帰っても家族は誰もいないから、あたしたちはここで暮らそうと思ったんだ」

「そうだったの……」

 希莉江は心持ち目を伏せて応える。

「ごめんね。暗い話して。こんな話、嫌だった?」

「ううん。全然」

「セリは強いのね。あたしと違って」

 叉雷は何も云わず、二人の後ろを歩いている。

「あんたも強いだろ。こんなとこ、観光に来る人なんかそうそういないよ」

 セリは屈託のない笑顔を見せた。こんな時、希莉江はどうしたら良いのか分からなくなる。セリは希莉江を恐れない。疎まない。それがくすぐったくて、同時に怖くもある。

「ここに来る途中で、裕福そうな人たちを見かけたわ」

「都には無いものがあるから。見せ物小屋とかって分かる?」

「……?」

「じゃあ、いいや。とにかく、珍しいものがあるってこと」

 セリの笑みが苦笑に変わる。希莉江はきょとんとした顔をしている。


「ここから、一本向こうの道が宿のある通りだよ。何か足りない物があったら、ここで探すといい。だいたい何でも揃ってるから」

 三人が歩く道は、いつの間にか舗装されたものへと変わっていた。

「あなたもここで買い物をするの?」

「もちろん。外じゃ、買い物なんかできないよ」

 屋根つきの通りには、雑然と店が並んでいた。多少建物の外観が荒れていることを覗けば、アーケードとしか形容しようがない。

 セリの手が希莉江から離れる。セリは両手を駆使して、街のあちらこちらを指差してゆく。

「あそこの道から少し行くと骨董屋。その隣に眼鏡屋があって、そこの二階に小物屋があるよ。向こうの通りには本屋もある。まあ、ほとんど古本だけどね。宿の裏手に郵便局があって、ちゃんと手紙が出せるんだよ」

 希莉江は驚いた表情でセリを見ている。セリの声音には、この街に対する愛情がこもっていた。

「立派な街ね。あたし何だか、訳が分からなくなってきた」

「何が?」

「全然貧しく見えないわ。それとも、ここが中心に近いから?」

「ああ。外れの方じゃ、餓えて死ぬ人は多いよ」

「そう……」

「かわいそうだけど、どうしようもないんだ。あたしは、いつかお金を貯めて、弟と二人でここを出るつもり。今は、人のことなんか心配してる余裕はないよ」

 セリの瞳は遙か遠くを見ている。それを見て、希莉江は両手の拳を握り締める。

「キリエ?」

 叉雷の声が遠くに聞こえる。希莉江は何も云わずに立ち尽くしている。

 ここにも、あたしの居場所は無い。誰でも夢を見る。目標を持つ。貧民窟の住人でさえ。――じゃあ、それが無いあたしは、生きてるとも云えないのかしら?

「行こう。宿の通りに、屋台が沢山あるよ」

 明るい声で促し、セリは希莉江の先に立って歩き出した。


「ここが宿のあるとこ。あたしたちは中通りって呼んでる」

 狭い道を塞ぐように、いくつもの屋台が商いをしている。汁物や乾物、果物や野菜が突き出した板の上に並んでいた。

「ここのお汁粉がうまいんだ」

 セリは無邪気に云う。希莉江は、甘い香りのする煙を手で払った。

「宿はどこにあるの?」

 希莉江が問いかける。

「あそこだよ」

 セリの手が赤い丸屋根の建物を示した。遠目からでも、かなりの高さであることが見て取れる。

「セリの家は?」

「宿の斜向かい。すぐ近くだよ」

 少し離れた場所に、数人の女たちの姿が見えた。若い者も年老いた者もいる。女たちは買い物袋を手に抱えたり、読み止しの雑誌を小脇に抱えたりと、思い思いの格好で話し込んでいる。

「宗香はどうなったんだろうかね?」

 一人の女が口にする。それを受けて、三十代半ば頃の女が、傍らに背を丸めて佇む老女へと目を向ける。

「あんたの子は、孫と一緒に宗香におったでしょう。何か知ってるかい」

「分からないねえ。あたしの子は、何も云ってこないねえ」

「惨いことだねえ。せっかく、ここから抜け出られたのに……」

 希莉江たちが近づくと、女たちは見慣れぬ顔の青年と少女に不思議そうな目を向ける。だが、それも一瞬のことでしかない。希莉江たちを先導するように歩くセリの姿を認めた女たちは、自然な仕草で希莉江たちから目を逸らす。希莉江の視線の先で、女たちはそれぞれの日常へと戻ってゆく。

「枢府は何を考えているのやら。そろそろ戦に飽いてもいい頃だろうに」

「南稜が落ちていたら、北稜と東稜も落ちていたかも知れない。いっそ稜国全てを統一してほしいもんさね。こんなに隣国の民を殺した国は、今まで無かったのじゃないか」

「宗香は、彩泰に取り込まれるのかね?」

「そうなるだろうねえ。かわいそうに」

 希莉江は、女たちの言葉を聞きながら通り過ぎる。為政者を罵る女たちがいるということに、彼女は心底驚いていた。都にいた間には、決して聞かなかった類の言葉を聞いた気がする……。

 枢府とは、貴族のみで構成された顧問官たちが集う枢密院の略称だ。帝にのみ従う顧問官たちは、帝位継承者の選定に関して大きな影響力を持っている。中でも枢密院議長は、摂政の不在時に摂政を代行して国政に当たる権限を有している。三百人の議員を擁する帝国議会でさえ、枢密院の傘下にあるのだ。都で枢府に対する悪罵を口にすることは、自らに極刑を望むことと等しい。

 希莉江の主は帝の信奉者だった。頼みもしないのに、彩泰の歴史や歴代の帝について熱っぽく語るのである。授業というよりも演説に思える主の話を、希莉江は幾度となく聞かされてきた。だから、彩泰のことは一通り分かっている。

 枢密院の顧問官が二十一名であること。彩流神宮では祭主が神官を束ねていること。降魔寮には降魔主が一人。七人の降魔博士が、それぞれ七人の降魔師を監督していること。帝国軍は陸軍と海軍とに別れていること。――当然のことながら、これらの知識は希莉江にとって生きる糧にはならなかった。

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