【5】貧民窟(1)
※閲覧注意。残酷な描写があります。
ストラッシュは空腹である。
昨日も、その前の昨日も、ずっとずっと前の昨日から、彼は空腹だった。
彼の隣ではヘレネーが泣き続けている。
「どうしたんだ」
彼は小人たちだけが理解し得る言葉でヘレネーに問う。彼女は巨大な瞳から涙をぽたぽたと地面に落としている。彼らの寝床は今夜も冷たい土の上である。
「お腹が減った」
ストラッシュは返す言葉もなく項垂れた。上を見上げると、キラキラ光る白いものが一つ、二つ、三つ、……たくさん。彼らは四つ以上のものを数えられない。
ストラッシュの故郷は、アーンガーに寄り添うように存在する小さな国だ。彼は祖国の名前を知らない。正確には、教えられても覚えられなかったのだ。
ダランガーと呼ばれる大きな人買いに連れ去られて、彼らはここまで来た。仲間たちはこの場所を「サイダー」と呼んでいる……。大きな人たちが交わす言葉は、虫の羽音のように騒々しく聞こえる。
ストラッシュは空腹である。
餌は毎日もらえる。それでも彼は空腹である。なぜなら――。
* * *
「やれやれ。チェックアウトだよ」
「はいっ!」
二人の少女が声を揃えて云い、カウンターの向こうから胡散臭いまでに輝かしい笑顔を投げてよこす。
「これチップ。白い羽根が床にいっぱい落ちてるから、後で掃除してね」
「畏まりました」
「またのお越しをお待ち申し上げております」
両肩に捺夏と自身の荷物を担いだ叉雷は、希莉江とともにロビーの扉の前で捺夏を待っていた。絽々は既に宿の外へと放されており、ヒュロヒュロと歌いながら空を駆っている気配がする。
「二度と来ないわ。あたし」
「同感だね」
「よしと。じゃあ行こっか」
捺夏は叉雷に荷物を持たせたまま、片手で見た目だけが重厚な扉――外側は板だが、中は空洞だ――を開け放った。
「都の中心には寄らないで、このまま貧民窟に向かうよ」
「それでいいわ」
三人は捺夏を先頭に歩き始める。
「はぁ。せっかくの旅なのにさ。最初の行き先が『地獄の街』なんて、幸先悪いよ」
「地獄?」
希莉江が聞き咎める。
「この世の地獄さ。言葉も分かんないで連れてこられた奴隷が病を得たり、不要になった時に捨てられる墓場だよ」
「貧民窟にいるのは、他国から来た奴隷だけなの?」
「あとは、この国の無職の大人。老人も沢山いるよ。戦災孤児がそのまま大きくなった人とか、親に捨てられた子は、だいたい群れになって盗賊団みたいなことばっかりしてる」
「あたし、奴隷に会ってみたい」
「はぁー?」
捺夏は最早不機嫌さを隠そうともしない。
「あんた、やばいよ。この国にいる奴隷は、大半が血気盛ん過ぎるリュートの小人族だよ」
「リュート……アンガルスの裏側にある国ね。そんな遠くから、よく運んでこられたわね」
「正直、あんま頭よくないからね。小人だけあって。無邪気っていうか、子供っぽいっていうか――そのくせ、宝石や貴金属には目がないし。その派手な服は脱いで、自慢のアクセサリーも全部外した方がいいよ」
「なぜ?」
「持ってかれるよ。容赦なく」
「まさか――」
「法律は『地獄の街』を囲む塀の外側でしか通用しない。良識ある市民は、貧民窟なんて存在しないって自分に云い聞かせてるんだ。だから誰も向こう側に行こうとしない」
「あたしは行くわ。だって……」
「云っとくけど、観光地じゃないからね」
「分かってる」
歯を喰い縛るようにして希莉江が応える。
ごつごつした花崗岩を積み上げた塀を飛び越え、三人と絽々は『地獄の街』に降り立った。
だが、そこに街は無く、道も無かった。赤茶けた大地が延々と広がっているだけ。錆びた鉄の臭いが生温い風に運ばれてくる。
遠くに背の低い建物がいくつか点在しているのが見えた。
「相変わらずだね。ここは」
眠たげにぼやけた顔の捺夏が云う。
「様子を見てくる」
叉雷は絽々の背に自分の荷物を預けたまま、一人建物の方へと歩き出した。
「ここがそうなの?」
所在なげに希莉江が問う。
青い空の下で、叉雷の後ろ姿がどんどん小さくなる。走っている訳でもないのに、歩くのが早すぎるんだわ――。希莉江はぼんやりと考える。
「そうだよ。人がいるのは中央だけで、塀の近くには何もないけど」
「だったら、そこまで飛んで行けば良かったのに」
「絽々が撃ち落とされてもいいならね」
「撃つの? 誰が?」
「貧民窟には、いくつもギルドがあって、それぞれ分担して仕事をしてるんだ。自給自足には限界があるしね。塀の中には、塀の中の法律があるんだよ」
「どんな?」
「外から来るものは、何であれ好き勝手にしていいってこと」
「じゃあ、あたしは護衛を雇って正解だった訳ね」
「ここへ来たこと自体が不正解だと思うけど」
「……着替えるわ。あたし」
「はいはい」
希莉江は絽々の後ろへと回り、その場で屈み込んで荷物を下ろす。捺夏は絽々に背を向けて地面に腰を下ろした。衣擦れの音が聞こえてくる。耳につけた宝石を外す音も聞こえた。
「ねえ」
「何?」
「地味な服が無いんだけど」
「ぶっ。おれの着替えで良ければ貸すよ」
「……いいわ。何とかしてみる」
数分後、捺夏が「まだ?」と声をかけると、希莉江は「まだ」と応えた。
さらに数分後、捺夏が口を開いたところで、叉雷がこちらに向かって歩いてくるのが目に入る。
「どうだった?」
「見張り小屋には人がいたよ。中に入るのは構わないが、命の保証はしないってさ」
「まあ、いつものことだよね。宿の手配は?」
「頼んでおいた。行こう」
「待って。あたしまだ着替えが済んでないの」
「あんた、どんだけ着替えるの?」
捺夏は呆れ声を上げる。
「だって、あんたが脅かすから!」
希莉江の答えを聞いて、残る二人は声を上げて笑った。
街は壊れていた。
これを街と呼べるならば、都の路地裏で警邏隊員から命からがら逃げようと試みる浮浪者を、勢の限りを尽くして暮らす王侯貴族と呼んでも何ら差し支えはないだろう。
「うーゎ」
捺夏は緊張感のない声を上げる。
「やば~い。この雰囲気。きてるよ、これ」
希莉江が最初に感じたのは、つんと鼻をつく異臭だった。
「ひどい臭い」
まるで、都中で消費された食物の残りを全てぶち撒けたような臭いだ。腐った肉を野外に放置して発酵させ、虫がたかるままにしてでもいるのだろうか?
「一体、何の臭いなの?」
「ここではゴミを燃やしてるんだ」
捺夏が応える。
次に嗅ぎ取ったのは、何かが燃やされ、灼かれる臭いだった。
「あと、人の死体も」
「……そう」
希莉江は眉を顰めて応える。
屋根から梁が突き出した家。道端に転がるいくつもの壊れたブリキ缶。落書きだらけの壁には懸賞金を書かれた人々の写真がべたべたと貼られている。建物は多いが人気はなく、空気そのものがよそよそしい。道を塞ぐように投げ置かれた数本の電柱は、かつて都で使われていたものらしく、華美な装飾が施されていた。木の電柱に垂れ下がったランプは、電球の部分がひび割れている。
「なぜこんなに汚いのかしら。都の目と鼻の先にあるのに、どうして?」
「都で出たゴミが、全部こっちに来るからだよ」
時折、狭い路地を薄汚れた着物を着た人間の姿がちらりと横切る。その度に希莉江は訳も分からずぞっとした。まるで、死体が生きて動いているように見えたのだ。そうして思い至る。生気がない人間とは、操り人形のように見えるものなのだ。希望もなく、目的もなく、ただ生きているだけ。生きるために生きているのですらない。自分の意志では死ぬことさえできないから、どうにかこうにか息をしているだけなのだ。かつて主人に従って生きていた頃の希莉江と同じように。ここにいる人たちは、あたしと同じなんだわ……。奴隷、浮浪児、移民。盗みを働く子供たちと、職を無くした大人たち。皆、都では役に立たないと判断されたから、こんな所で暮らしてるんだ。
「話には聞いていたけど、ここまで酷いとは思っていなかったわ」
希莉江は紫の瞳をぎゅっと絞って、周囲の景色を脳裏に焼きつけようとしている。
「一体、こんな所に何の用があるの?」
捺夏の問いかけに、希莉江は瞬間たじろいだ様子で視線を泳がせた。
「もっと先へ行ってみたいわ」
「だから、なんで?」
希莉江は応えず、また一歩前へと進む。
「絽々が嫌がってる。嫌な臭いだって」
「だったら、ここへ置いてゆくのね。あたしが雇ったのはサライとダッカだけよ」
「んもう」
捺夏は嫌そうな顔で絽々の額を撫でていた。
道幅が太くなり、家屋が増えてゆく。それでも空気は静まりかえっている。
「静かね。――怖いくらい」
希莉江が旅の途中で何度も見たように、地面を蹴って所狭しと走り回る子供たちがいない。道端に座り込み、飽きることなくお喋りをする少女たちもいない。ここでは誰も遊ばないのかも知れない。
数人の少年たちと擦れ違った。身なりは悪くなかったが、雰囲気は荒んでいた。彼らは次々に希莉江たちを鋭い目で一瞥すると、興味を無くしたように希莉江たちが来た道を逆に辿ってゆく。
「テイ、今日はどこで狩る?」
低く忍ばせた声が希莉江の背後から聞こえてくる。
「地下道のトソから連絡があった」
まだ幼い声は、喜びを抑えられない様子で応える。希莉江は立ち止まり、彼らの声に耳を澄ませた。
「金持ちの死体を見つけたから、隠してあるってさ。服と貴金属は高く売れるぜ」
「おいおい、死体を見つけたって、ほんとか?」
「何が」
「死体を作った、の間違いじゃねえの」
「さあな。おれたちは物をもらいに行くだけだよ。大方、決闘でもして相手を殺した奴が、始末に困ってトソに頼んだんだろう」
「私闘は首切りだっけ。こえぇなあ」
そこまで聞いて、希莉江は麻の上着の胸の部分を両手で押さえた。死体から物品を剥ぎ取るなんて、鬼の所行に思える。だが、希莉江もまた、分不相応に得た金と貴金属のお陰で生き延びられたのだ。もし立場が違えば、今の希莉江と同じ気持ちを味わうのは、彼らの方だったのかも知れない。
三叉路を左に曲がる。心なしか、道を歩く人々の服装が贅沢になってきたように思えて希莉江が問う。
「ねえ。さっきまでと違うわ」
ふと目をやった場所には、公園としか思えない広場があり、そこではめかし込んだ女性たちが木の椅子に座って歓談している。刈り込まれた芝生の上で、何匹かの犬が転がって遊んでいた。
「富は中心に集中するんだねー」
捺夏はくふっと笑った。
「都に搾取されるこの街にも、人を搾取する人がいて、中央でいい暮らしをしてる。子供や奴隷に農作物や綺麗な刺繍の入った布を作らせて、都や外国で売り捌くんだ。土地だけは広いからね」
「布、ね」
そう、薄々おかしいとは思っていたのだ。いくら希莉江の住まう屋敷が広かろうと、主が商う服や装飾品を拵えるだけの設備も人も足りなかった筈だ。一体どこから運び込んでいるのだろうかと考えていた。他国からだと思っていたが、答えはここにあったようだ……。
「安く作らせて、高く売る。商売の基本だね」
「ここで儲けた人が、なぜここに残っているの? 塀の外に出たくはないのかしら」
「前科者は都じゃ生きていかれない。一度でも奴隷の烙印を押されてしまった人は、よっぽどのど田舎にでも行かないと、普通には暮らせないんだよ」
「貧しい人、飢えた人には分け与えないって訳ね」
歩く足に力がこもる。結局どこに行っても同じだと、そう云われた気がした。
堅牢な塀が目に入ってくる。農場めいた囲いと、木で作られたいくつもの柵があり、背の低い家が折り重なるようにして立っている。メェメェと鳴く山羊の声が微かに聞こえた。
「こっち。小人がいるよ」
わざと脅かすような声音で捺夏が云う。
「捺夏」
叉雷は、捺夏の次の言葉を遮って声を上げた。
「そんなもの、キリエに見せなくていい」
云いながら、叉雷は足早に通り過ぎる。希莉江は、捺夏が指し示した鉄の囲いを視界の端に納めてから後に続いた。
「宿はねー、中心から外れてるから荒れてるよ」
捺夏の手が、地面に落ちた絽々の羽根をひょいと拾い上げる。
「来たことがあるの?」
「まあ、何度か」
片手で羽根を弄びながら、捺夏は遠くを見るような瞳をした。
「色々あったんだ。ちっちゃい頃は」
「そう」
先を歩く叉雷の背筋は真っ直ぐに伸びている。捺夏が傍にいる時の叉雷は、あまり多くを語りたがらないことに希莉江は気づいていた。
「ここは……?」
ある建物の前で、希莉江は思わず立ち止まる。煙突から白い煙がもうもうと噴き上がっている。生焼けの肉のようなオイルの臭いを嗅ぎ取った時、希莉江は一瞬見瞠いた目を瞑り、両手で口元を覆った。
「火葬場」
掌の中で口にして、くらりと目眩を覚える。母親の灰が埋葬される瞬間を、希莉江は見ていない。冬花の死体を目にしてから、ありったけの荷物を持って出奔するまでの慌ただしさは、今はあやふやにぼやけている。茫洋とした記憶は、微睡んで見る霞がかった夢に似ていた。あの時は、ただ必死だった。この機会を逃せば、二度と逃げることはできない。それだけは分かっていた。
「行くよ」
捺夏の声に救われた思いで、止まっていた足を踏み出す。鼻の奥につんと掠めるもののことは、あえて考えないようにした。
逃げたことを後悔しているのではない。冬花の墓の場所さえ知らない自分に腹が立つだけだ。だが、果たして母の墓などあるのだろうか。奴隷の埋葬地として相応しいのは、まさしくこの場所ではないだろうか?
「あんたたち、誰の許しを得てここに?」
抜け目のない声は、希莉江の真横から聞こえた。はっと息を呑んで立ち竦む。
「あ、あたし」
こんなに近くに立っているのに、全く気がつかなかった。希莉江が物思いに耽っていたからだろうか。いや違う。野生の動物のように気配が無かったのだ。
「許可なら、見張り小屋で頂いたよ」
代わりに応えたのは叉雷である。
「何だ。そっか」
大人びた目元がくしゃっと緩む。希莉江と同じくらいの年頃の少女だ。黒い切り髪は耳の辺りで断ち切られている。大きな瞳が、希莉江を見定めるように凝視していた。頬に散るそばかすと、少し潰れた格好の鼻が、ともに少女のやんちゃな愛嬌を作り出している。
「最近、ここ変なんだ。あんたたちも気をつけた方がいいよ」
「変って?」
「子供がね、突然いなくなったりするんだ。あたしの弟の友達も二、三日前から見当たらない。――まぁ、また抜け出して、都で悪さしてるだけかも知れないけど」
「あなた、名前は?」
希莉江は体ごと少女に向き直った。
「あたし? セリだよ」
黒目がちの目はきらきらと光っている。セリは、洗い晒しの木綿のつなぎを着ていた。足には黒の長靴を履いている。
「あたしは希莉江。あなた、ここに住んでいるんでしょう?」
「そうだよ。五年くらい前からね」
「あたし、今日初めてここに来たの。色々見て回りたいのよ。案内してもらえない?」
「タダじゃ嫌だよ」
狡そうな声で答えを返す。それでも、セリの瞳の光は今までと同じ強さで希莉江を見つめていた。
「あんた、きれいな子だね。お姫様みたいだ」
さっと希莉江の表情が翳る。
「……お金は払うわ。どう?」
両手を肩の高さに挙げ、努めて明るく提案した。
「いいよ。案内してやるよ」
土で汚れた右手を差し出してくる。希莉江は自分の左手をセリの手に重ね、そのまま手を繋いで歩き出した。
「二人とも、先に宿へ行って。セリ、宿の場所は分かる?」
「分かるよ。ここには、宿なんか一つしかないし」
「じゃあ、後であたしも宿に行くから。少し周りを見てくるわ」
「いってらっしゃーい」
捺夏が顔の横でひらひらと手を振る。叉雷の顔は、なぜか見ることが出来なかった。希莉江が何をしようとしているか、叉雷には見透かされている気がしたからかも知れない。
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