【4】水の惑星(3)

「正直、ちょっと笑った。ちょっとだけ」

「くっそー。云っとくけど、おれ郁とつき合ってる訳じゃないぞ! ただ土曜の夜村から抜け出してここで一泊して、翌朝は都をぶらぶらして、日曜の日没までに村に着いて郁を家まで送っていっただけだぞっ」

「素晴らしい計画だな。キリエと会ったのはその時か?」

「そうだよ。まあ、直接会った訳じゃないけど。日曜の昼だった。郁が一人で入りたいって云って服屋にいた時に、時計台のある広場で――ほら、あそこの壁に情報交換票がべたべた貼ってあるだろ? 都庁の国民情報課に電話すれば、都に住む人じゃなくてもあそこに情報を貼り出せるんだ。『簡単なお使いのできる十五才以上の女性を募集中!』とか、『中古の計算機求む。定価の六割希望』とか」

「なるほど」

 話の先を読んで叉雷が肯く。

「ある紙に『彩泰から宗香に入れるルートを知っている人を探しています。ぜひ力を貸して下さい。謝礼はずみます』って書いてあったんだ。行き先が宗香だってのは少し不安だったけど、『現在地は北街道の途中。白蓮山に向かって馬車で移動しています』って書いてあるのを見て、その場で情報課に電話して、『連絡を取りたい』って頼んだ。こっちの連絡先はイフラの家にした。うちには電話がないし。それで続けてイフラに電話して、キリエから電話がかかってきたら、絶対その仕事を取れって云った。『飛竜がいるって云うんだ。山を越えるだけだから、ひとっ飛びだよ。絽々を貸すよ。だけど、この人と一緒に白蓮山を歩いて登り降りしたりはできない。宗香に入ったことが人に知られたら、不可侵条約を破ることになる。最悪逮捕されるからね。当然山の裾を歩いて国境を越えるのも無理。あの辺りを徒歩で渡ろうとするなんて、有り得ないことだって云っといて』って。本当は絽々に乗らなくても、白蓮山の横穴を通れば裏側の宗香に行けるんだけど、そのことは隠しておけって云って、もちろんイフラはそうした」

「じゃあ、実際にキリエと接触したのはお前じゃなくてイフラジャンだったのか。それでどんどん話が行き違ったんだな」

「そうだよ。おれと郁が村に向かってる間にキリエはイフラに電話をかけた。イフラはね、キリエがかなり切羽詰まってるのを感じたから物凄くふっかけたんだ。『声が幼すぎて、悪戯かと思った』って云い訳してたけど、あれはわざとだと思うよ……。とにかくキリエはイフラを信じて街道脇の街から郵便で現金を送って、それから沼に着いた」

「そして、自分が騙されたことに気づいた」

「騙してない。キリエは自分が行きたい場所に行くし、おれたちはまんまと逃げおおせた」

「その――情報交換票を見た時に、もう考えてたのか? 村から出る口実になるって」

「まあ、それに近いことをね。おれには絽々がいるから平気だけど、叉雷は一人で外に出かけること自体禁じられてるだろ。でも、この仕事が村にとって重要なものだと分かれば、誰もお前を止められない。観光客には頭が上がらないんだから。キリエを送る時に不幸な出来事があって、お前が死んじゃったことにしようって思ってた」

「勝手に殺すなよ」

「そう云うなよ。おれがついていった場合は、おれも死ぬんだから」

 捺夏は真面目くさった顔で応えた。

「おれを村の外に出そうと思ってくれてたなら、どうしてあんなに反対したんだ?」

「お前ら、絽々を置いて行こうとしてただろ……。ってことはおれも置いてかれるってことじゃないか。しかも、あんな足手まといになりそうな子を連れて国境を越えるなんて、『叉雷は死にました』っていう嘘が本当になるだけだと思ったんだ」

「ああ、そうか。キリエが絽々を嫌がった時点でお前の計算は崩れてたのか」

「そうだよ。おれ一人村に居残るなんて冗談じゃない」

「郁はどうするつもりだ?」

「まだ分からないよ。だけど、おれたち最後にはあそこで暮らすことになるんじゃないかと薄々感じてることも事実だよね」

「それも悪くない。龍に逢えたら、おれはあの村で一生を終えてもいいと思ってるよ」

「もったいない。叉雷には都が似合うのに」

 夢見るような口ぶりで云う。

「そうかぁ?」

 叉雷の返事は懐疑的だった。

「おれは人里離れた所で暮らしたいよ」

 碧の瞳が両腕の包帯を見つめている。捺夏は壁際に置いた草色のリュックを引きずってきて、自分のベッドの上に腰を下ろした。

「都にいればいくらでも稼げるのに……」

 ぶつぶつと半分口の中で呟く。

「まあ、その話は置いとこう。おれが死んだなんて嘘が長老たちに通ると本気で思ってたのか?」

「だって戦争をしてる国だろ。そんなことがあってもおかしくないと思ったんだ。キリエとあんな風に揉めたのは予想外だったけど」

「残念ながら、その理由はもう使えない」

 叉雷が首を横に振る。捺夏は不思議そうに首を傾げてきょとんとしている。

「戦争は終わった」

「嘘だ。そんなニュースは入ってないぜ」

「今終わってなくても、もうすぐ終わる」

「エンが喜ぶだろうな。それが真実なら」

 捺夏は子供のような顔で笑った。

「ここに着くまでの間に夢を見た。おそらく正夢になるんじゃないかと思う」

 淡々と語る。叉雷は薄く笑っている。

「おれは時々、お前が本気で怖いよ……」

「そいつは心外だな」

 素っ気なく応える。しかし、それでもなお叉雷の笑顔にはどこかしら人をほっとさせる暖かみがあって、捺夏は思わずつられたように幼い微笑みを叉雷に返した。

「戦争といえば、おれたちの村でも、昔沢山の人が死んだらしいじゃないか」

「十一年前だね。あれはただの内紛だった。だけど、まあ……。この戦争の大義の無さに比べれば、まだましな方だったかも知れないな」

「今回は、東稜が突然宗香に攻めていったんだろ。大した理由もないのにさ」

「東稜は土地が欲しかったんだろうな」

 捺夏の手がリュックの中をまさぐる。ひょいひょいと摘み上げてゆくものは、いずれも彼の好む駄菓子ばかりである。

「そんなもの夜中に喰うなって。歯が悪くなるぞ」

「いいんだよ。好きなんだから」

 捺夏が云う。断固たる口ぶりであった。

「それにしても、世の中はあっという間に変わって行くもんだね。大砲も銃も出番のない戦争なんて、気味が悪いよ」

 云いながら細長い棒状の菓子の袋を開けて、上からがじがじと噛んでゆく。

「各国の統治者たちは、人の意識エネルギーを兵器にすることを覚えたんだ。それに、爆撃で荒れ果てた土地には何の魅力もないんだろうよ。人は銃器を捨てて、その代わりに、もっと怖ろしいものを造り上げた。人が兵士ですらなく、兵器になって消費される時代が来たのさ」

「……」

 ついと叉雷から顔を背ける。捺夏の顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。救いを求めるように数秒だけ絽々の姿を振り返る。

「十一年前はこうじゃなかった。もちろん、国中の降魔師がわらわらと現れて鎮圧に乗り出したけど、最後には弾の雨が降って、何もかもを呑み込んだ」

 まるでその様を覗き見てでもいるかのような苛烈な眼差しが捺夏を見据える。叉雷の口元は、余りある苦々しさを表すように歪んでいた。

「おれ、風呂に行くから」

 あわあわと支度をし、捺夏は叉雷の返事も待たずに扉の向こうへと消える。

「……」

 叉雷は暫し黙考していたが、やがて自分の荷物から一冊の本を取り出した。

 古びた本だ。幾人もの手を経て叉雷の元へと辿り着いたものである。赤茶の革表紙には焼きごてで刻まれた題字が見える。

 「龍にまつわる咄」。叉雷はこの本を、彼の父親であり、村の長でもあった高凱の書斎の床下から発掘した。


 あれは冬の夜だった。叉雷がまだ十五才の利発な少年であった頃、彼は村でただ一人都の学校に通っていた。正月を村で過ごそうとして、都を離れて村に戻っていたのである。

 叉雷の生家は村の中心に座していた。高凱は二階建ての母屋と二棟の納屋、さらに使用人の住む長屋を所持していた。これは余談であるが、高凱の死後、叉雷は母屋以外の建物を全て村の共有財産としてしまった。叉雷の行いを評して、捺夏はこう云ったものだ――「一人で管理するのがめんどかったんだね」。

 叉雷の部屋は二階の東側にある十畳ほどの畳敷きの和室であったが、彼は地下の書斎に入り浸っていた。ポットに入れた玉露と大福を供に何時間でも本を読み漁り、本に溺れた。前後に振れる揺り椅子の上で浴びるように本を読み続ける叉雷の姿は、さながら人魚の歌に誘われて命を落とした船乗りたちのように見えたことだろう。いくつもの文字が波となって叉雷を揺らし、彼は湿った地下室の中でいくつもの心躍る旅を経験した。

 あの夜――高凱は彼の妻とともに村の若者たちが催す集会に出かけていた。いそいそと一階の階段から地下へと降りた叉雷は、床の一部に目を引きつけられた。

 そこには、以前鍵の掛かった金庫が置かれていた筈だ。だが今は無い。誰が持ち出したのだろうかと辺りを見回した叉雷は、金庫が壁際へと移動していることに気づいた。

「あそこに移したのか」

 理由は分からなかったが、叉雷は深く思い悩むことはしなかった。高凱は叉雷には量りがたい行動を取ることが多かったからだ。

「知らなかったな。こんな所に扉があったなんて」

 金庫が置かれていた場所の床には、錠前のついた扉が取りつけられていた。錆びた錠は既に壊れており、鍵としては機能していない。 叉雷は何の躊躇もせずに真四角の扉を引き上げると、扉に顔を突っ込んで下を覗き込んだ。まず、泥地にも似た水気のある土が見えた。扉と土の間には、掌から肘くらいまでの隙間が空いていることも分かった。

 次いで、半ば地中に埋もれた赤茶の革表紙が見えた。あれは本だ。四つある角のうち、一つの角しか見えていなかったが、叉雷にはそれと分かった。今にも泥土へと沈み込んでしまいそうな、赤茶色の三角形。そこにあるものを見出した瞬間、絶対にそれを読まなければならないという強烈な願望に襲われたのである。なぜなら、その本には叉雷が求めてやまないものの名が刻まれていたからだ。

 「龍」。たった一文字の言葉が彼を狂おしいまでの渇望へと導いた。欲しい。あの本が欲しい。

 懸命に手を伸ばしたが、本の端に指先が掠めるだけという結果に終わった。あれを手に入れなくては……。叉雷は扉を閉め、物差しを探すために階段を駆け上った。


 やがて叉雷は、この本を文字通り発掘――父親の目を盗みながら、四日ほどかけて見事に掘り出した――のである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る