【4】水の惑星(2)

「……」

 これは一体何だ。そう云いたげな顔の叉雷が隣の希莉江を見る。希莉江は一瞬カウンターに座る娘たちに背を向け、扉を逆にくぐろうとする素振りを見せたが、数秒後恐る恐るといった体で後ろを振り返る。そこには、悪趣味という文字を現実において具現化したとしか云いようのない「ホテル・サーガ」の内装があった。

「ありえない」

 叉雷の背中に隠れた希莉江が呟く。

 ロビーは二階まで吹き抜けになっており、白い螺旋階段が二階部分の廊下へと続いていた。天井からはガラス製のシャンデリアが薄ら寂しい光を投げかけながら何基か吊られている。床には一面赤い絨毯が敷かれていた。

 階段の脇には、何の脈絡もなく熊の剥製が置かれている。右手を高く振り上げ、左足を斜め前にちょこんと出している。見ようによっては、楽しげに踊っているようにも見える姿である。

「何だ。あれは」

 叉雷は激しい嫌悪感を隠そうともしない。ガラス玉の虚ろな眼差しが恨めしそうに叉雷を見つめている。艶々とした毛並みが見て取れる。この熊はなぜこれほどに惨い仕打ちを受けているのだろうか?

「来なよ。二人とも」

 絽々を従えた捺夏が云う。先に動いたのは叉雷だった。僅かな逡巡の後、希莉江は心底嫌そうに叉雷の後をついてゆく。

 白いテーブルカウンターの向こうで、野暮ったい化粧をした二人の少女が頭を下げた。

「ホテル・サーガへようこそ」

 長い前髪を耳の前に垂らした少女が云う。

「ご予約のお名前をお伺いします」

 もう一人が云い、微笑とともに会釈をした。

「淵沼の捺夏です」

 捺夏が名乗る。彼には屋号が無いため、村の名を屋号代わりに使っているのである。

「お待ちしておりました。三人部屋で宜しいですね?」

「ええ。料金は今払います」

「では……」

 捺夏が懐から茶革の札入れを取り出す。札入れを開くと、中には大量の札束が無造作に詰め込まれていた。

 希莉江が息を呑んで叉雷を見上げる。だが、叉雷の顔に驚きの色はなかった。

 これだけの金を持ちながらも、捺夏の身なりは貧相としか云いようがない。擦り切れた布靴、洗い晒しの木綿のTシャツ。首に提げた猫の財布はぺしゃんこである。……だが、これこそが淵沼の村で生きのびるために捺夏が学んだ処世術なのかも知れない。

「こちらがお部屋の鍵になります」

「ご案内致しましょうか?」

「いえ。だいたい分かるんでいいです」

 捺夏が鍵を受け取る。金色の鎖が細長い板と鍵とを繋いでいる。白い板の端には、赤い字で「5」と書かれていた。

「行くよ。二人とも」

 返事を待たずに歩き出す。

「絽々。上だよ」

 捺夏が片手で行き先を示すと、絽々はさっと翼を広げて飛び立った。

 捺夏を先頭にして螺旋階段を昇る。二階の廊下にも赤い絨毯が敷かれていた。

 中ほどにあった「5」の部屋に入る。

「ダッカ、どうしてそんな大金を持ってるの?」

 扉が閉まるのと同時に、希莉江が待ちかねたように口を開いた。

「云ってたじゃない。食べる物が無くて困ってたって」

「あー、子供の頃はね」

「今は違うの?」

「そりゃあ違うよ。いい大人なんだからね」

 捺夏の態度は心なしか誇らしげである。

「どこが?」

 赤い床に荷物を降ろした叉雷が口を挟む。

「じゃあ、何をしてお金を稼いだの?」

 鋭く問う。希莉江の表情は真剣である。

「拳闘士のトーナメントがあるんだよ」

 捺夏は眠たげな顔をしていた。

「トーナメントって?」

「勝ち上がり制ってこと。年齢別の試合だよ。都で毎月やってて、誰でも参加できる」

「それで?」

「叉雷がそれに出るんだ。おれは会場の中で周りの人に賭けを持ちかける……もちろん、叉雷に賭けるのはおれくらいだから、叉雷が勝つ度に結構な額の金が手に入る」

「負けたらどうなるの?」

「……」

 捺夏は少しの間黙り込んでいたが、叉雷が何も云わないのを見て希莉江に応える。

「叉雷は負けない。八才の時から今まで、一度も負けたことがない」

「凄いじゃない!」

 希莉江の瞳が輝く。叉雷はそれには応えず、ただ控えめな微笑みを返した。

「それより、絽々に食事をさせなきゃ」

「もう遅い」

 捺夏の言葉に叉雷が応える。

 絽々は壁際にいた。既に首を曲げて睡眠の体勢に入っている。

「あぁあ~!」

 捺夏は両手で灰色の髪を掻きむしった。

「少し寝たら起きるだろ。平気だよ」

「おれが嫌なんだよォー。起きたら空きっ腹だなんて、絽々がかわいそうだろ!」

「泣くなよ」

「泣いてないっ」

「ねぇ。あたし、お風呂に入りたい」

 希莉江の手が捺夏の袖を引く。

「わかったよ。下に行って、受付でタオルと石鹸を買いなよ」

 投げやりな声が希莉江に応えた。

「馬鹿にしないでよ。それぐらい持ってるわ。お風呂はどこにあるの?」

「一旦外に出るんだ。裏に屋根のついた温泉があるから」

「ダッカたちは?」

「ここに残って、あんたの荷物が盗られないように見張る人が必要だろ? おれはあんたが戻ったら行くよ。叉雷はおれが戻ってきたら行く」

「そう。じゃあ、あたし行くわ。お先に」

 手早く持ち物を選び、希莉江は一人で部屋を出て行った。

「……」

 これは一体何だ。そう云いたげな顔の叉雷が隣の希莉江を見る。希莉江は一瞬カウンターに座る娘たちに背を向け、扉を逆にくぐろうとする素振りを見せたが、数秒後恐る恐るといった体で後ろを振り返る。そこには、悪趣味という文字を現実において具現化したとしか云いようのない「ホテル・サーガ」の内装があった。

「ありえない」

 叉雷の背中に隠れた希莉江が呟く。

 ロビーは二階まで吹き抜けになっており、白い螺旋階段が二階部分の廊下へと続いていた。天井からはガラス製のシャンデリアが薄ら寂しい光を投げかけながら何基か吊られている。床には一面赤い絨毯が敷かれていた。

 階段の脇には、何の脈絡もなく熊の剥製が置かれている。右手を高く振り上げ、左足を斜め前にちょこんと出している。見ようによっては、楽しげに踊っているようにも見える姿である。

「何だ。あれは」

 叉雷は激しい嫌悪感を隠そうともしない。ガラス玉の虚ろな眼差しが恨めしそうに叉雷を見つめている。艶々とした毛並みが見て取れる。この熊はなぜこれほどに惨い仕打ちを受けているのだろうか?

「来なよ。二人とも」

 絽々を従えた捺夏が云う。先に動いたのは叉雷だった。僅かな逡巡の後、希莉江は心底嫌そうに叉雷の後をついてゆく。

 白いテーブルカウンターの向こうで、野暮ったい化粧をした二人の少女が頭を下げた。

「ホテル・サーガへようこそ」

 長い前髪を耳の前に垂らした少女が云う。

「ご予約のお名前をお伺いします」

 もう一人が云い、微笑とともに会釈をした。

「淵沼の捺夏です」

 捺夏が名乗る。彼には屋号が無いため、村の名を屋号代わりに使っているのである。

「お待ちしておりました。三人部屋で宜しいですね?」

「ええ。料金は今払います」

「では……」

 捺夏が懐から茶革の札入れを取り出す。札入れを開くと、中には大量の札束が無造作に詰め込まれていた。

 希莉江が息を呑んで叉雷を見上げる。だが、叉雷の顔に驚きの色はなかった。

 これだけの金を持ちながらも、捺夏の身なりは貧相としか云いようがない。擦り切れた布靴、洗い晒しの木綿のTシャツ。首に提げた猫の財布はぺしゃんこである。……だが、これこそが淵沼の村で生きのびるために捺夏が学んだ処世術なのかも知れない。

「こちらがお部屋の鍵になります」

「ご案内致しましょうか?」

「いえ。だいたい分かるんでいいです」

 捺夏が鍵を受け取る。金色の鎖が細長い板と鍵とを繋いでいる。白い板の端には、赤い字で「5」と書かれていた。

「行くよ。二人とも」

 返事を待たずに歩き出す。

「絽々。上だよ」

 捺夏が片手で行き先を示すと、絽々はさっと翼を広げて飛び立った。

 捺夏を先頭にして螺旋階段を昇る。二階の廊下にも赤い絨毯が敷かれていた。

 中ほどにあった「5」の部屋に入る。

「ダッカ、どうしてそんな大金を持ってるの?」

 扉が閉まるのと同時に、希莉江が待ちかねたように口を開いた。

「云ってたじゃない。食べる物が無くて困ってたって」

「あー、子供の頃はね」

「今は違うの?」

「そりゃあ違うよ。いい大人なんだからね」

 捺夏の態度は心なしか誇らしげである。

「どこが?」

 赤い床に荷物を降ろした叉雷が口を挟む。

「じゃあ、何をしてお金を稼いだの?」

 鋭く問う。希莉江の表情は真剣である。

「拳闘士のトーナメントがあるんだよ」

 捺夏は眠たげな顔をしていた。

「トーナメントって?」

「勝ち上がり制ってこと。年齢別の試合だよ。都で毎月やってて、誰でも参加できる」

「それで?」

「叉雷がそれに出るんだ。おれは会場の中で周りの人に賭けを持ちかける……もちろん、叉雷に賭けるのはおれくらいだから、叉雷が勝つ度に結構な額の金が手に入る」

「負けたらどうなるの?」

「……」

 捺夏は少しの間黙り込んでいたが、叉雷が何も云わないのを見て希莉江に応える。

「叉雷は負けない。八才の時から今まで、一度も負けたことがない」

「凄いじゃない!」

 希莉江の瞳が輝く。叉雷はそれには応えず、ただ控えめな微笑みを返した。

「それより、絽々に食事をさせなきゃ」

「もう遅い」

 捺夏の言葉に叉雷が応える。

 絽々は壁際にいた。既に首を曲げて睡眠の体勢に入っている。

「あぁあ~!」

 捺夏は両手で灰色の髪を掻きむしった。

「少し寝たら起きるだろ。平気だよ」

「おれが嫌なんだよォー。起きたら空きっ腹だなんて、絽々がかわいそうだろ!」

「泣くなよ」

「泣いてないっ」

「ねぇ。あたし、お風呂に入りたい」

 希莉江の手が捺夏の袖を引く。

「わかったよ。下に行って、受付でタオルと石鹸を買いなよ」

 投げやりな声が希莉江に応えた。

「馬鹿にしないでよ。それぐらい持ってるわ。お風呂はどこにあるの?」

「一旦外に出るんだ。裏に屋根のついた温泉があるから」

「ダッカたちは?」

「ここに残って、あんたの荷物が盗られないように見張る人が必要だろ? おれはあんたが戻ったら行くよ。叉雷はおれが戻ってきたら行く」

「そう。じゃあ、あたし行くわ。お先に」

 手早く持ち物を選び、希莉江は一人で部屋を出て行った。


「おれ、一番手前のベッドがいいな」

 捺夏が宣言する。部屋には、人が一人通れるだけの隙間を空けて、三つのベッドが並んでいた。ゴシック調のベッドカバーは赤と緑である。気が触れたような配色だとでも思っているのか、叉雷は冷ややかな瞳でそれらを見下ろしている。

「キリエは奧の。叉雷は真ん中のにしなよ」

「別にいいよ。どれでも」

「おれは嫌だ。絽々の近くがいいんだから」

「やれやれ。お前の好きにしたらいいよ」

「ことーんと眠っちゃうんだもんなあ」

「なぜ、この宿を選んだのか教えてくれ」

 絽々の隣で壁に寄り掛かる叉雷は、胸の前でゆるく腕を組んだ。

「……」

 捺夏はばつが悪そうな顔をしている。

「妙に手回しがいいな。予約してたのか」

「先週来たんだ。あのー、下見を兼ねて」

「おれに黙って? 一体誰と」

「うるさい」

 捺夏の顔は耳まで赤くなっている。

「郁を連れ出したな」

 元若長は威厳に満ちた声で決めつけた。郁とは、叉雷を除いた村人たちの中で、捺夏が最も心を許している少女の名である。

「出してないよー!」

 捺夏は慌てふためいて視線をやたらと左右に飛ばした。

「与一に云ったりするなよ……。郁が都に行ったことないって云うからさ、一目だけでも――ってあぁあ今鼻で笑ったろっ、お前っ」

「いや。……笑ってないよ」

 片手で口元を抑えて応える。叉雷の両肩は小刻みに上下動している。

「じゃあその手を離せよっ! ほらぁ笑ってるじゃんかー」

 それからしばらくの間、二人は大して広くもない部屋を鼠と猫のように駆け回った。

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