【4】水の惑星(1)

 夢を見ている。


 冷えた外気が後ろへと流れながら、叉雷の頬に触れている。それなのに、夢の中で叉雷は肩の辺りまで水に浸かっている。水は生温かい。少し離れた所で捺夏が魚のように泳いでいる。鱗雲が青空に散っている。

 夢だと分かっているのに、なぜか目が覚めない。叉雷には秋一屋の血は流れていない筈だが、彼は時々こんな風に夢を視る。過去の記憶を再現する夢や、未来に起こるかも知れない出来事を予感させる夢を。

「サライ」

 川辺に立つ少年が叉雷を呼ぶ。山羊の毛皮で覆われた靴が叉雷の目の高さにある。川の両側の地面には、ごつごつとした大きめの岩が転がり、彼方まで延々と続いている。

「この星には海がある。知ってるか」

 少年は名をエンという。叉雷たちを泊めてくれていた酪農家の長男である。綺麗に刈られた坊主頭が特徴的だった。

「知ってるよ」

 叉雷が応える。エンは大きな目をきゅっと細めて叉雷に笑いかけてくる。

「おれ、海を見たことがない」

 ぎこちない喋り方でエンが語る。彩泰と宗香の公用語は倭語である。共通の言語を扱う二国は、かつて一つの国であったといわれている。宗香には倭語を元にした独自の言語が存在するが、エンはあえてそれを使わずに話そうとする。素朴な少年は、華やかな隣国の文化に憧れの念を抱いている様子である。

「そうか。見てみたい?」

 叉雷が問いかける。

「先生がいっていた。おれたちの体のほとんどは水で、この星のほとんども水だって」

「今日勉強したの?」

「そうだ。おれ、驚いた」

「そうか」

 包帯を巻かれた両腕が水面の近くに浮かび上がる。叉雷の掌が川の水を掬う。

「エン、川に入っちゃだめよ」

 若い娘が対岸から声を上げた。緩めた指の隙間から水が零れ落ちてゆく。

「わかってる」

 エンが応えを返す。

「マリさん。水汲み?」

「はい」

 はにかんだ様子で叉雷の問いに応える。

「ねえちゃん、おれ手伝うよ」

 エンの姉は名をマリという。彼女は真っ直ぐに伸びた黒髪を項の後ろで一つに束ねていた。

 この川は雪白川ゆきしらかわと呼ばれている。源流は、宗香と彩泰の東側を塞ぐように広がる東稜という国の中にある。白蓮山よりもさらに高い不二山。その名は「世に二つと無い」という意味である。年間を通して中腹まで白く雪の残る山は、世界有数の高さを誇っている。

 そこには透明な水を湛えた泉がある。雪を被った木々に隠され、青い浮き草たちに護られている。ごく小さな湧き水の水たまりだ。澄み切った水は不二山を下るうちに細い川となり、やがて白蓮山の手前で二手に分かれる。一方はこの雪白川となり、もう一方が白蓮山の麓と村の間を流れる彩流河となる。

 雪白川は彩流河よりも小さいが、白蓮山の裏側を通り、地形の傾きに沿って西へと流れるにつれ、二倍、三倍と大きさを増してゆく。この川が存在するために、宗香と彩泰の二国は白蓮山の周辺の一部を除いて引き離されている。地続きではないのである。同様に、宗香と接するアンガルス共和国もまた、彩泰とは離れている。アンガルスと宗香の国境を越える頃には、川の水に塩気が混じり始める。

 彩泰側に作られた川下り船の発着場を横目にさらに下ると、ついには川幅三十キロメートルを越える大河となって西都さいと海へと注ぎ込む。その手前にはアンガルスと彩泰を結ぶ橋があり、多くの物や人が行き交う。

 青い海に面したアンガルスと彩泰の海岸は港である。夜ともなれば、無数の灯りが海に漂う。貿易船、漁師たちの舟。カンテラと電球の白々とした光の群。アンガルス港に立つ細長い優美な形をした灯台。旋回する光。

 ――全く、何て光景だろう。あの白い灯台を薄闇の中で見上げた時の気持ちが胸に迫ってくる。叉雷は瞼にかかった髪を後ろへ撫で上げ、エンを見上げた。

 エンは叉雷に小さな背を向けていた。

「エン? どうした」

 違和感が電流のように叉雷の心を走る。

 これは過去の記憶ではない……。こんな姿のエンは見なかった。

「泣いてるのか」

 啜り泣きとも笑いともつかなかったが、弟の代わりにマリが応えた。

「戦争が終わったの。疎開先を紹介して下さって、本当にありがとう」

 顔だけ振り向いたエンも笑っていた。つぶらな瞳に涙が浮かんでいた。誰か親しい人が亡くなったのかも知れないと思い、何か応えようとしたが――。

「うぁ」

 応える前に目が醒めた。冷たい風が叉雷の頬を切る。切って、すぐに後方へと流れ去る。

 風になびく灰色の髪が見えた。寒そうに丸まった猫のような背中も。絽々の速度は緩やかだ。白の翼竜は鴎のように悠々と空を泳ぐ。

「随分ゆっくりだな」

 叉雷の腕は、穏やかな顔で眠る希莉江の体をしっかりと抱えていた。

「向かい風で絽々がしんどそうだから」

 もごもごと応える。何か食べているのかも知れない。

「もっと眠ってりゃ良かったのに」

「いや。充分寝たよ」

 強い風が正面から吹きつけてくる。

「うー、さむいっ」

 堪りかねたように捺夏が口にする。

「同感だな」

「キリエを起こせよ。叉雷」

「もう着いたのか?」

 首を伸ばして地上の景色に目を凝らすが、目に映るものはまばらな光と街道らしい道だけだった。花の都と謳われる首都「彩楼」の姿とは到底思えない。

「まだだよ」

「――どこへ寄り道する気だ」

「夜だぜ。真夜中だ。あんな危なっかしい所に直行しようっての?」

 捺夏が振り返った。口の周りにパン屑らしきものを沢山つけている。

「冗談じゃない。身ぐるみ剥がされて地下道に放り捨てられるよ。今の都の治安は最悪だ」

「何だ。ちゃんと考えてるんじゃないか」

 叉雷が笑う。

「頼りになるガイドがいて嬉しいよ」

 捺夏はフンと鼻を鳴らしたが、満更でもない顔で絽々が着地可能な場所を探し始めた。

 叉雷は上空を見上げた。太った月が叉雷を見返している。煌々とした光を放つ球体は、限りなく真円に近い。その姿は幾分ぼやけて見えた。

 ゆるゆると蛇行していた絽々が、すうっと高度を下げた。下には巨大な黒いキャンバスがある。所々に、黄色の油絵の具で塗られたようなほのかな灯りが光っていた。

「降りるよ」

 色白の手が絽々の頭をぽんぽんと叩く。人語を解する飛竜はキュウキュウと喉を鳴らして捺夏に応えた。青いペンキで塗られた屋根が急激に近づいてくる。白く塗られた外壁は鉄板らしく、赤茶けた錆の色が表面に浮き出していた。絽々は屋根を避けて芝生らしい柔らかな地面に後ろ足から降り立ち、高く広げていた翼をだらりと降ろした。

「着いたよ」

「キリエ」

 希莉江の両肩を掴んで揺り動かすと、金色の睫毛が不快そうに震えた。

「しょうがないな」

 叉雷は眠ったままの希莉江を右肩に抱え上げる。自分と希莉江の荷物を左肩にかけて、絽々から飛び降りてふわりと着地した。幅広い道の両側には、夜目にもそれと分かるほどに造りの荒い民家が立ち並んでいる。どこかで犬が鳴いていた。


「どこだ? ここは」

 希莉江の体は骨を抜かれたようにぐにゃりと軟化している。

「嵯峨市。おいで、絽々」

 絽々が捺夏の後ろにぴったりとくっついて歩き出す。後ろ足だけを使う歩みは多少危なっかしい。叉雷は愛おしそうな眼差しで絽々を見守っている。

「初めて来たな」

「地味だろ? ここだけ急に寂れてるんだよ。都には近いんだけど。ここ昔刑場だったんだって」

「ふぁー?」

 溜め息のような欠伸が耳元で聞こえた。ややあって、両手で叉雷の背中を押してくる。ようやく目覚めたらしい。

「ここ、どこぉ?」

 叉雷はその場に屈んで希莉江を降ろした。

「もう都に着いたの?」

 眠たげな声が問う。

「いや。嵯峨市だってさ」

「どこなの? それ」

「都から少し離れた街だよ」

 足をもたつかせながらも、希莉江はかろうじて前へと進んでいた。

「一体、いつ都に着くの?」

「明日の朝か昼。あんたが決めていいよ」

 二人の前から捺夏が口を挟んだ。

 両手で目を擦りつつ、希莉江はよたよたと歩いている。

 なーん、なーん……。どこからともなく猫の鳴き声が聞こえた。

「猫」

 希莉江が呟き、立ち止まって辺りを窺う。

「だめだよ」

 顔だけ振り返った捺夏が希莉江を制する。

「あたし、猫が好き」

「よかったね。ほら歩いて。こっちだよ」

「ねーこ!」

 希莉江は無闇ににゃーにゃー鳴いた。

「寝ぼけすぎだよ。あんた」

 捺夏は眉根を寄せて顔を顰める。

「ねむだるーい」

「眠くて、しかも怠いのか。大変だな」

 そう云う叉雷も欠伸を噛み殺している。

「お前ら、おれをバカにしてるんだろっ」

 捺夏が唸った。肩を怒らせながらどんどん歩く速度を上げてゆく。

「怒るなよ」

「怒ってないよっ!」

 捺夏は明らかに怒っていた。

「見ろ。君の猫への執着が捺夏を怒らせた」

「あたしのせいじゃない。何よ、せっかく猫がいたのに」

「飼い猫だよ。あれは」

 耳に馴染む柔らかな声で叉雷が云う。

「なぜ分かるの?」

「声が甘かった。人に馴れてるんだ。餌づけされてる野良かも知れないけどね」

 前を見ると、絽々が捺夏の腰に鼻先をつけてクゥクゥと鳴いている。逆立った主の気分を癒そうとしているらしい。

「ここ曲がるよ」

 幾分和らいだ声で告げ、捺夏の体が白い石塀の陰に隠れる。叉雷と希莉江は無言で捺夏の後を追い、同じ場所で左に曲がった。

 曲がった途端にアスファルトで塗装された道が始まり、眩しい光に両側から照らされる。

 道の両側に石塀がある。光源は塀の上に置かれていた。丸い電球が等間隔に並び、のろのろと点滅している。よく見ると、塀と道が接する部分にも小さな電球が置かれていた。

 クークーという鳴き声が頭上から聞こえる。強い光を嫌う絽々は、自らの意志で空に逃れたようだ。

「じゃーん。今夜はここに泊まるよ」

 捺夏が身振りで道の先を示す。そこには、周囲の家屋とは明らかに造りの違う建造物が建っていた。コンクリートを使っているのか、白く塗られた壁には凹凸がない。建物の形は横に長く、屋根は平らだ。

「豆腐みたいな建物だな」

 叉雷はぼけた感想を洩らした。強烈な光のせいか、いつもより人相が悪くなっている。

「都で流行ってるのよ。こういうの」

 希莉江は醒めた眼差しで宿――都風にホテルと呼ぶべきだろうか?――を見やった。

「『ホテル・サーガ』だよ」

 捺夏が壁の高い場所を指差して云う。アンガルス語で書かれた看板がかかっていた。

「ずば抜けたセンスだな」

 痛烈な皮肉を洩らし、叉雷は二人分の荷物を地面に降ろした。

「全然読めないわ。――ありがとう」

 希莉江の手が赤いナップサックを持ち上げて右肩に担ぐ。

「行くよ」

 捺夏が云い、そこだけ黒い扉を押した。

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