【3】龍(4)

 叉雷は頃合いを見て立ち上がった。

「ここでおれから提案がある。一年の半分近くを留守にするような無責任な若長を解任し、この役職により相応しい者を推薦したいと思う」

 ざわっと人影が揺れる。その波が収まらぬ内に叉雷は新たな爆弾に着火し、ろくに躊躇いもせずに投下した。

「蓬屋の与一を新たな若長とする。これは現若長の命令である。反対は一切受けつけない」

 わーと若者たちの歓声が上がった。与一の周辺からのみではあるが。

「与一。おれの横へ」

「そらあ、あまりにも急でねえか」

「投票も無しに決めるんかね?」

 村人たちが抗議の声を上げられたのは、叉雷が大きめの茶封筒から今年のパンフレット用の原稿を取り出してからのことであった。

 原稿を捺夏に手渡し、捺夏がそれを神棚の内側に恭しく立てかけるのを見届ける。

「叉雷やぁ。理由を云わねば分からんが」

 村人たちは明らかに動揺している。

「えー、正直おれは疲れました」

 叉雷は突然くだけた調子で身も蓋もないことを云った。

「白蓮山の遭難者の捜索。朝夕の巡回。彩流河の観察と農業用水の調節。ここの屋根瓦の修理。毎日出稼ぎに来る約四十一人分のタイムカード管理。観光用パンフレットの作成。急病人の搬送。税金の計算と役所への届け出。観光客との間に起こったトラブルの後始末。安芸芝村からの養子受け入れに伴う手続き……あと何だったっけ?」

 与一の顔が見る見るうちに青ざめてゆく。

「さ、叉雷。おれやっぱり」

「何よりつらいことは、プライベートで自由に使える時間が一切ない! ということです」

 叉雷は与一の発言を無視して続ける。

「与一、おめでとう。歴史ある淵沼の未来はお前に託すことに決めたよ」

「ちょ、ちょっと待て! 叉雷っ」

「至らないおれを今まで支えてくれて有り難うございました。おれは若長としての最後の仕事をしてきます」

「最後の仕事? 何じゃそれは」

 喘ぐように与一が問う。

「ある場所に連れて行ってあげるという約束を理由に、我が村が耕作機を買えるだけの金を支払ってくれた娘さんがいます。しかし、その約束を果たせそうなのはどうやらおれと捺夏だけのようなので、おれたちが代わりに行ってきます」

「お、お前まさか、最初からそれを狙って?」

「それこそまさかだ。偶然だよ」

 叉雷は眉一つ動かさずに応えた。

 与一は大声で喚きたい衝動に駆られる。

 だったらなぜ捺夏と意味ありげな目配せを交わしたりするんだ。お前らはただ大っぴらに外出するための理由が欲しかっただけなんじゃないのか――と。何しろ叉雷は以前から村の外に出たがっていた。与一は昨年の暮れの集会で「長である叉雷は今後数年旅に出てはならない」という意見を出した。それに対して村人全員が賛成の票を投じた結果、叉雷は例年なら風のように村を出てゆく季節の春になってもどこに行けず、村人たちはほっと胸を撫で下ろしたのだ。なぜなら……叉雷が村にいる期間は、なぜか彩流河は氾濫しないのだ。そして、雨が降らずに田畑が干上がるということもないのである。逆に、叉雷が旅に出ている間の村人の苦労は筆舌に尽くし難いものだった。作物は六割ほどしか実らず、河は暴れ、あるいは大幅に水かさを減らしたりしたものだ。

 なぜ叉雷はあの大河を大人しくさせることができるのか? その理由を与一は知らないが、おそらく長の家に伝わる「何か」があるのだろうと睨んでいる。儀式なのか呪いなのか分からないが……。長老が新任の長に渡すという心得書にその秘密が載っているのだと思っている。

「では解散。お疲れさまでした」

 軽く頭を下げてから元に戻る。叉雷は男ですら見惚れてしまうような笑顔をしていた。

「かいさん、かいさん」

 投票権も持たない――本来ならば出席する権利もないのだ――捺夏が歌うような調子で云うのを聞いて、与一は全身から力が抜けてゆくのを感じた。


*     *     *


 ヒューッ、ヒューッと耳元で風が鳴る。

 だが、強風の中にいるのではない。全てを後ろに振り捨てるような速さで彼らが飛んでいるだけのことである。

「与一が長になってくれて良かったよ」

 明るい声で云う。叉雷の碧の瞳は猫のように細められていた。

「もっと早く押しつけるべきだったんだ」

 応える捺夏も嬉しそうな顔をしている。

「明日になったら、お前の文通相手が泣くだろうな」

「旅先から葉書を送るよ」

「旅立ちには相応しい夜だね」

 捺夏はあれほど強く叉雷を引き留めたことも忘れたように笑っていた。

「全くだ」

「下ろしてぇ!」

 これで何度目だろうか。希莉江の泣き声が星空を揺り動かす。

「何でさ? 歩けば五日、馬車で二日。絽々ならひとっ飛びだよ」

 のほほんとした風情の捺夏が応える。

「あ、あ、あたしは高い所が苦手なのッ!」

「なーんだ。やっぱりね」

「やっぱりって! 分かってたの?!」

「あんた、飛竜ってのはもっと大きいもんだと思ってたんだろ。だけど、こんな小さな竜じゃ、地上が丸見えでとても飛べないと思ったんじゃないの?」

「……!」

 捺夏の指摘は図星だったらしい。希莉江は顔を真っ赤にしている。

「いいから大人しくしてなよ。これ以上あんたが暴れるつもりなら、今すぐここから突き落とすからね」

 血も凍るような台詞を和やかに語る。

「ダッカ! ……冗談でしょ?」

「だといいけど。ただでさえ定員オーバーなんだからね。いつもはおれと叉雷しか乗せないんだから」

「ちょっと待って! ちょっと! オーバーってどういうことよ?! 限界を越えてるってことじゃないの!」

「あんたは軽そうだから平気だよ」

 あっははは。捺夏はさも楽しげに笑った。

「い、いやぁあああー! 下ろしてぇー!」

「下ろして? 落としての間違いじゃなくて?」

 人の悪い冗談を云いながらも、叉雷は希莉江の肩を抱き、なおも叫び続ける彼女の視界を左手でそっと覆い隠した。

「絽々。もっと低く」

 叉雷の指示に絽々はクィーと鳴いて応えた。徐々に高度を下げてゆく絽々に、主たる捺夏は少々不満げである。

「下げるなよー」

「いいんだよ。――大丈夫?」

「平気よ。下を見なきゃ、こわくないわ」

 震える声で希莉江が応える。その強がりを叉雷は微笑とともに見守っている。

「その通り。目に入らなきゃ怖くなんかないさ」

 絽々の頭を撫でながら捺夏が云う。

「いつだって人間は、見なくてもいいものを見たがる。自分が望んでそれを見たくせに、一度見てしまった後は目を閉じることも忘れて怖がるんだ」

「それはダッカの経験?」

「かもね。おれはどんなにつらい思いをしても大丈夫なんだ」

「どういうこと?」

 目を塞がれたままの希莉江が問う。

「目を閉じることを知ってるからさ。云っておくけど、忘れるってことじゃあないよ。

 ただ目を閉じるみたいに考えるのをやめるんだ。ひとつ苦しいことがあるだろ? そのことよりももっと大事で、自分にとって優先するべきことを考えるんだ」

「たとえば?」

「明日の飯をどうやって調達するか。雨漏りする屋根をどうやって直そうか? いつこの村から出よう? とか。そうしているうちに、最初の悩みなんかばかばかしくなってくるんだ。明日喰う飯のあてもないのに、これから先の人生についてくよくよ考えるなんてバカじゃないの、って」

「……なるほどね」

「おれも叉雷も孤児なんだ」

 単なる事実を述べる時の口調で云う。

「嘘」

「あんたに嘘をついても一円も得しないよ。おれは金にならない嘘はつかないんだ」

 金になる嘘ならつくのか、と叉雷の視線が無言で問いかけている。

「だってサライは、あの村の若長だって」

「孤児が人の上に立つのはおかしいって?」

「そんなこと云ってないわ」

「誰と誰の子供に生まれるかなんて、本当はどうでもいいことなんだって思わないか?」

「……わからない」

「おれはたとえおれの親がとんでもない悪人でも罪人でも、ただおれを産んでくれたことだけで感謝するよ。この美しい世界を見なよ」

 白い頬を絽々の後頭部に擦り寄せる。

「世界は広いんだ。絽々に乗って空を飛べば、あんなちっぽけな村でいじいじしていることがどんなにくだらないことか分かるよ。理屈じゃなくね」

 うっかり下の景色を見ようとした希莉江は、叉雷の指先にそれを阻まれる。

「見ない方がいい」

「わ、分かったわ」

「代わりにおれが見るよ。――もう豆粒以下だな。白蓮山はひっくり返した茶碗ぐらい」

 叉雷の言葉に希莉江が吹き出す。

「都も小さい? この世界に比べたら」

「小さいよ。あんたは地平線の意味を考えたことがある? あの向こうにも地面があって、そこには大勢の人が生きてるってことを? 世界はだだっ広くて、始まりも終わりもない丸い珠だ。おれ一人いなくたって何も変わりやしない。そう思うと、おれはとてもほっとするんだ」

「ふぅん……」

 希莉江は曖昧な相槌を打った。

「少し寝たら? どうせ、すぐに着いちゃうけどさ」

「分かったわ。お休み」

「おやすみー」

 希莉江の体から力が抜けた。叉雷の胸に頭を預けたまま、じっとしている。


 やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 叉雷は希莉江の目元に被せていた手を離した。ぴくぴくと動く睫毛が月明かりに照らされて頬に影を落としている。


「捺夏」

「何?」

「有り難う」

「変なの。おれの失敗を取り返そうとしてるのは叉雷の方だろ」

「そうじゃない。お前がいなかったら、おれはきっとこれまで生きてはこられなかった」

「――ふん」

 くすぐったそうに鼻を鳴らす。

「もう寝なよ」

「いいって。眠くないよ」

「いいから。おれは集会の前にたっぷり昼寝したから平気なんだ。どこに着いてもいいなら寝ちゃうけどね。絽々に任せたら、翌朝はおれの部屋で目が覚めるかもしれないんだ」

「そいつは悪夢だな」

「そうさ。ぞっとするだろ。あれだけ逃げ出したがっていた村に逆戻りだ」

「捺夏。おれは逃げたかった訳じゃない」

「嘘つけ」

「ただ、自由になりたかったんだ」

「……」

 空を切る絽々の翼の音が聞こえる。

「おれもだよ」

 捺夏の声が夜空に浮かぶ。それは白い月に一度跳ね返ってから、子守歌のような効果を発揮して叉雷の瞼を静かに閉じさせた。

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