【3】龍(3)


*     *     *


「叉雷が集会開くってさ。十六才以上の人は寄り合い所に夜七時集合ねー」

 この村では十六才以上の者は既に成人しているものと見なされる。十六才に満たない者は責任能力を持たない子供とされ、集会への参加を許されることはない。

 集会では様々な事柄が取り沙汰される。その内容は大きなことから小さなことまで多種多様であり、それらのほぼ全てが村に関することだ。最終的な決定権は長にある。だが、それはあくまで形式上のものであり、実際の決定は村人たちによる匿名での投票の結果に基づいたものでしかない。


「捺夏。ちょっと」

 低く忍ばせた声に続いて、絽々の後ろから姿を現したのはイフラジャンである。彼は都の若者が被っているような、前面に出っ張りのついた赤い帽子を目深に被っていた。

「なに?」

 捺夏はとことこっと音を立ててイフラジャンの元へと駆け寄る。

「聞いたぜ。叉雷の奴、とうとう村を出るらしいな」

「いつもの旅だよ。すぐに帰ってくる」

 捺夏は軽い調子で応える。

「馬鹿云うな。長が死んでからもう三年以上経つんだぞ。これ以上村長への着任を引き延ばしたりしたら、叉雷が今の地位を失うことは必至だ」

「たぶん叉雷はそれを狙ってるんだろ」

「冗談じゃない! 叉雷以外に誰がいる? この村を治められるのはあいつだけだ」

 捺夏は少し顎を引いた。醒めた眼差しでイフラジャンを見ている。

「あのさぁ」

 どこか感情が欠落したような、茫洋とした声。捺夏がこういう声音を出す時には、後に続く言葉は相当辛辣なものになる。イフラジャンは捺夏との長年のつき合いからそれを学んでいた。彼は目に力を入れて捺夏を見返したが、当の捺夏は至って冷静である。

「お前ら勝手だよ」

 捺夏はうっすらと微笑みさえしている。

「長が死んだ時、叉雷は十八だった。あの時お前ら皆で叉雷を長に選んだじゃないか」

「――それは」

 叉雷の実家である秋一屋は、代々優れた長や女巫女を輩出してきた名家だ。叉雷の父は人望ある長であった。名を高凱という。高凱は数年に一度氾濫する彩流河の治水に於いて稀代の才を発揮した人物でもあった。

「分かるよ。あいつには、人と違う不思議な力があるもんね。だけどさあ、叉雷は云ったじゃないか」

 当時を思い返すように目を細める。捺夏とともにイフラジャンも思い返していた。

「ああ。覚えてるさ」

 息が詰まるような集会の空気。新たな長に祭り上げられた叉雷はしかし、取り乱してはいなかった。まるで最初からそれを予期していたかのように冷静だった。

「『おれは若長に立つ。だけど、この年じゃ大したことはできないだろう。先代の長との血縁を理由に新しい長を決めるのは間違っているとおれは思う。今三十代の村人の中から、次の長を決めてくれ』ってさ」

 蝋燭の光だけに照らされた叉雷の顔は神々しくさえ見えた。その背に何が負わされたのか薄々悟りながらも、イフラジャンは盛大な拍手を贈る村人たちに混じって両手を叩いていた。

「だけどお前らは決められなかった」

 捺夏はにこやかな表情を崩さない。

「今になって、叉雷を縛りつけようとするのはよせよ。こんなちっぽけな村にさ。本当に見苦しいよ」

「だったら、お前が代わってやったらどうだ」

 イフラジャンは憤怒に顔を歪めている。

「孤児のおれには投票権も発言権もないよ」

 してやったりという表情で応える。

「……そうだったな」

「流れ者が置いていった孤児は村人じゃないよ。お前らの村とおれは何の関わりもない」

「違う。この村はお前の村でもある」

「だったら教えてあげるよ。叉雷は、おれと同じ流れ者の孤児だ」

「う、――嘘だ」

「嘘なもんか。このことは、サトばあちゃんとおれと叉雷の家族しか知らないよ」

「だったら、叉雷はなぜこの村に……」

 イフラジャンの声は力無い。小さな不安が膨れ上がり、やがて確信へと変わってゆく。巌のような高凱の顔つきは、息子である筈の叉雷とは全く似ていなかった――。

「知らないよ。おれは出ようって云ったんだけど、叉雷はばあちゃんに用があったんだ。ずいぶん前から『どうしても占ってもらいたいことがある』って云ってたけど、何だかそれも終わったみたいだ」

「終わった?」

 イフラジャンの声には覇気がなかった。

「叉雷は旅に出る。たぶんこれが最後の旅になる」

「最後ってどういうことだ。もう戻らないつもりか」

「そうなるかもね」

「ああそうかい。全く気がつかなかったよ。お前らがそこまでこの村に嫌気が差していたなんてな」

「お前、今までおれたちの何を見てたの?」

 ふと寂しげな眼差しで金髪の少年を見る。

「おれが十六になるまでの間、叉雷は自分が稼いだ金を分けてくれたよ。それも端金じゃなくて、いつだってきっかり半分ずつくれた。あいつは知ってたんだ。叉雷が長の家で育たなかったら、おれと同じ境遇の中で生きる筈だったことを。だからおれは叉雷の味方だよ。あいつが何者でも、おれは絶対に叉雷を助ける。あいつの旅には必ずついてゆくし、叉雷が一人で絽々に乗ることも許すよ」

「叉雷が孤児だという証拠は?」

「今から二十二年前、長の家の召使いが叉雷を拾った。長は叉雷を自分の子供として引き取った。叉雷のお母さんは、実家のある安芸芝村へ半年くらい里帰りしてた。叉雷が拾われたのはお母さんが村に帰ってきた直後だったから、叉雷は長の赤ちゃんだって皆が思ったとしても、それほどおかしいことじゃない」

 ゆっくりとした捺夏の声がイフラジャンの息の根を止めてゆく。

「お前らが有り難がって崇める長は、耕す畑も職もないおれと同じ種類の人間だよ」

「そんな……そんなこと、おれに云うのか」

 イフラジャンは両手で目頭を覆った。

「おれは、お前らのダチだったんじゃなかったのかよ……」

「友達だよ。だけど叉雷は俺の親で、兄貴で、しかも親友なんだ。イフラよりも大事な人だ」

 その言葉はイフラジャンを完膚無きまでに叩き壊した。同時に彼は二人の親友への悔悟の念によって激しく打ちのめされてもいた。

「どこへでも行っちまえ。お前らなんか」

 片親が村人であるイフラジャンにとって、己が在るべき場所はこの村だ。この村でしか有り得ない。だが叉雷は。そして捺夏には、己が在るべき場所など元から無かったのだ。

「ごめんね」

 今日ほど捺夏のあどけない笑みを恨めしく思ったことはない。イフラジャンの顔つきはそう語っている。

「じゃあ、おれ行くよ。まだあと三十二人に伝えなきゃいけないんだ」

「さっさと行けよ。だけど忘れるなよ、捺夏」

「何を?」

 捺夏は絽々の白い額に両手で触れる。主に撫でられる飛竜は幸福そうに喉を鳴らした。

「おれは、お前らを待ち続けるからなッ!」

 イフラジャンは吐き捨てるように叫んだ。

「うん」

 捺夏は子供のように笑う。

「叉雷は龍が見たいんだってさ」

「竜? 絽々がいるだろうに」

「そう思うだろ? でも違うんだ。蛇みたいにながーい龍が見たいんだってさ。いつになるか分からないけど、見れたらきっと帰ってくるよ」

「まったく叉雷もおかしなことを考えるな」

「しょうがないよ。取り憑かれてるんだ」

「――気をつけて行けよ」

 捺夏に背を向けて云う。イフラジャンの声は気落ちこそしていたものの、その中には彼なりの優しさが含まれていた。

「ありがと」



 捺夏が村中の家の扉を叩いて回り、それぞれの田畑に顔を出して同じことを伝える間、叉雷は自分の部屋で荷造りをしていた。

 一つずつ木片を高く積み上げてゆき、崩した人間が負ける積み木崩しの遊びのように、慎重かつ熱心に作業を進めてゆく。

 窓の向こうではまだ太陽が地上を照らしている。旅の支度をする時、叉雷はいつも無口になる。「しんとした気持ちになる」。これは、いつか捺夏に向けて彼が語った旅立ちの前の心境である。


 青い寝袋と軽いビニール素材のリュック。水筒。携帯食料用のビスケット。現金と貴金属。前者は食料と屋根を得るためのものだ。後者は通貨の異なる場所で現金と同じ価値を持つのだが、実際にはあまり出番はない。叉雷も捺夏もある理由によって野山でのサバイバル能力に長けているために、さほどの苦労なしに食料を調達できるのである。屋根に至っては、捺夏曰く「寝床がふかふかのベッドじゃないとか、屋根がなくて寒いってことについて文句を云うほど贅沢じゃないからね」。

 戸棚から薬箱を取り出して床の上に置く。

 叉雷は机に向かい、椅子を引いて腰を下ろした。

 叉雷の手が机の引き出しを開く。がたりと乾いた音が鳴った。中には大量の手紙が敷き詰められるようにして収まっていた。年下の文通相手たちと遊びで交わすものとは違い、それらの手紙は高価な封筒に包まれている。

 叉雷はその一つ一つを手に取って机の上に並べてゆく。ピンク色の封筒、白の封筒、黒の封筒……古紙で作られた封筒。

 封筒に貼られた切手は彩泰のものばかりではない。宗香、アンガルス、新港湾。これらは叉雷の旅の証拠でもある。龍を捜しながらではあったが、異国の人々との交流を楽しむことも旅の目的の一つだった。彼はどの地においても、必ず一人かそれ以上の友人を得ることが出来るという稀有な特質を備えていたのである。

 叉雷は何かを懐かしむような顔で手紙の束を見つめていたが、その内の二通を抜き取ると革のベストの胸ポケットにしまい込んで、残りを引き出しの中へ戻した。

 旅に赴く時には、あまり荷物を多くしないことが肝心である。絽々の背に大きな負担をかけることは避けなければならないし、行きよりも帰りの方が荷物が多くなるのは当然のことだった。彼は初対面の相手に対して自然と愛想良くできる青年であったため、叉雷との別れ際に自家製の干し肉やチーズ、手作りの装飾品などを持たせようとする人は少なくなかった。

 旅をしている間、叉雷は涼やかな風が心の中を駆け抜けてゆくのを感じる。忘れたくても忘れられない悲しい記憶が、消え去りはしないまでも、ごく薄くなるのを感じるのだ。鍋で温めた牛乳の表面に張られた膜のように、薄く。旅が叉雷に与える清冽な風。それこそが叉雷に束の間の安らぎをもたらすのである。無論、この村に戻る度に薄らいだ記憶は元通りの重さで叉雷にのしかかってくる。それでも、彼は村に帰ることから逃れたことは無かった。――これまでの所は。

 念入りに掃除を済ませて部屋の中を見渡す。この部屋に戻ることがあるのかどうか、今の叉雷には見当もつかない。

 荷物を担ぎ上げ、灯りを落として廊下へ出る。夜の気配が叉雷の心を踊らせている。


*     *     *


 午後七時。電灯の光を消された小屋の中には、一本の蝋燭だけが点っている。その灯りは叉雷が自ら点したものだ。

 陽はとうに落ちている。人の熱気が建物の中に籠もっていた。

「では始めます」

 叉雷はこれまで何度も口にした言葉を静かに吐き出した。胡座をかいた叉雷の姿を蝋燭が下から照らし、背後に映る巨大な影が彼をどこか禍々しいものに見せている。

 ホーゥホーゥと遠くで鳴いているのは、街道側の森に棲む梟たちである。

 寄り合い所の壁は、子供たちが描いた村の絵で埋まっている。天井は古い木の梁が剥き出しで、床には黄色く変色した畳が並ぶ。

 村人たちは中央に置かれた燭台の周りを囲むように座り込んでいる。叉雷の正面には長老である夜滝が座っていた。その老人は叉雷と高凱の名付け親であり、祭を取り仕切る者であり、村が誇る賢者であり、占者サトの兄でもあった。

 叉雷は、壮年の男たちの少なさに胸の内で溜め息をつく。帝政を布く彩泰は十一年前に内戦を経験している。都を一時占拠しかけた「過激派」と呼ばれる反政府組織を殲滅するために多くの村人が都へ集められ、半数以上が二度と村には帰ってこなかった。


 集会の前半は通常通りのものでしかなかった。観光客向けの土産物屋をもう何軒か増やすべきか? 村の学校に新しい教師を呼ぶための資金はどう集めるか?

 いずれも結論は既に出ており、村人たちは半ば形骸化した投票を行う。白く塗られた木箱の中に票を入れてゆき、叉雷が最後にそれを受け取る。ひび割れた黒板に白墨を滑らせて、叉雷が読み上げる言葉を写すのは捺夏の役割である。捺夏は左手で整った字を書く。

 黒板を横目に叉雷が決定を下す。誰も反対する者はいない。それもその筈、村人たちは集会に先立って、各々が小規模な会議を開いて答を一つにまとめている。文字通りの井戸端で、あるいは壁に掛けられた電話を使って。

 集会の後半は自由な意見が飛び交う。前半には大人しかった若者たちがここぞとばかりに自己主張を始めるのである。

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