【3】龍(1)
翌日である。
村の朝は早いようで遅い。
それぞれに自己主張の激しい野良着を着た若者たちが、手弁当を提げた娘たちを従えて現れるのは、陽も高く昇りつつある午前九時頃である。
既に朝食を済ませたのか、早起きの雀たちが道の真ん中でチュンチューンチュンチュンと囀り合っていた。
「いっくよー」
姉さん被りの千寿屋の心が号令をかける。
「おぉー」
応える声にやる気はあまりない。それでも皆一様に顔つきが穏やかなのは、やはり長年の憧れであった耕作機――隣の安芸芝村にも無い――を得た喜びからだろうか?
「耕作機なぁ。えかったわー」
「あぁ。大事にしような!」
ここは、田畑を望む広場である。集まった若い男女は十人ほどであろうか。和気藹々とした様子である。
「タカジん嫁さん、いつ着くんかい?」
村の訛りで問うのは、タカジの友人の与一である。彩泰の標準語も喋れるのだが、身内同士では村の喋り方をする者が多い。都からの観光客には見栄を張って都言葉で接するが、幼少の頃から頻繁に都へ出て行っていた叉雷や捺夏とは違い、どこかぎこちなくなってしまう。「自分は田舎者だ」という誤った思い込みからか、卑屈な態度を取ってしまう者も少なくない。
「来月の頭や」
「うぇー。貧乏人から祝い金ふんだくる気か」
「えっへへへ……」
タカジが笑う。黒い紐付きの麦わら帽子がよく似合っている。
「うわーきも。赤くなるような柄かっての」
少し離れた場所で毒づいているのはイフラジャンである。眠たげな目を瞬く彼は、金髪を後頭部の高い位置で結んでいた。さらに、白いTシャツと小豆色のハーフパンツをだらしなく着込んでいる。
「沙依ちゃん、ハーブ始めたんだて?」
「はっじめたよぉ。観光の人さ売るんだわ」
お下げ髪の少女が微笑みながら応える。
「あたしも始めたわー。今年はラベンダーが来るさ!」
握り拳とともに息巻くのは、誰もが認める姉御肌の心である。
「来るさって。お前作んの初めてだろうが」
「ええでしょうが。云うのは勝手だわ」
「うー、怠なぁああー」
「叉雷は……来んわなあ」
「あの人は、田んぼも畑も好かんけ」
「はぁ。羨ましいわー。おれも、都で拳闘ら覚えておけばなあ」
「虫がええわねぇ。叉雷が都によう行きようから、あんたら、はぁ悪口ばっかり云うちょったけなぁ」
七つの頃に安芸芝から養女に貰われてきた郁が唇を尖らせる。
「おれらの中で学校最後まで行きよったんは、あいつだけらったー」
「そらまあ。おらみてえに、河やら山やらで遊んでばっかおったら奨学金は出んわ」
「あの人、いつ結婚すんの?」
「さあ。都じゃあ、よう遊びよったらしいが」
「あたし、あの人すこうし怖いわ」
「何でだよ?」
常に早口のイフラジャンが訊ねる。
「目が遠い、ゆうか……。時々ふっと遠くの方を見よるんよ」
「ふん。おれは思うけどよ。この村は、叉雷の奴には狭すぎるんだろうよ」
イフラジャンが云う。普段から毒つくような口調が板についている。
「どういう意味じゃ?」
憮然として訊き返すのは与一である。
「お前ら昨日、叉雷に任せて逃げただろう。まあおれもだけどよ。今までおれたちの失敗を全部チャラにしてくれたのは誰だよ。叉雷だろうが」
「そりゃあ分かるけどもよー」
渋々肯く与一は不満げであった。
「あんたら、また何かやらかしたんかい?」
「あの耕作機はな、宗香まで行きたいゆう旅の子からもらった金で買ったんさ」
タカジが心の問いに応える。
「あーぁ。戦争しちょー国にどげんして入るさね。いい加減なことばっかしやってー」
「だけん、捺夏がロロ貸してくれるゆうてさ」
「はあー。やんだぁ」
溜め息まじりに心がこぼす。これまでの心労が伺える声音であった。
「ほんで? ちゃんと送ってあげられた?」
「ロロに乗んのは嫌やてゆうから揉めてさ」
「当たり前じゃないの。あたしやて怖いよ。一度も乗ったことなあもの。あんたら、その旅の子はどうしたんね?」
心が訊ねたのは叉雷の弟分でもあるイフラジャンである。
「さっき紗那さんの宿に寄ったら、流れ者はすっかり機嫌も直ってて、夕べは叉雷と散歩したとか抜かしやがった」
「あらー。流石だわねぇ」
心は素直に感嘆する。
「ほんまにもてようよねー」
「しっかしなあ。ほんだら、なしていつまでも独り身でおるんじゃ」
「知らねえよ」
イフラジャンはいかにも異国の血が流れている者らしく、大仰な身振りで両手を掲げた。
「そうだわねぇ」
「あいつあれで結構決断力ねえからな。一人にはっきり決められんで、今まで何人も見送っとるなあ」
「分かるわー。ほんで、若い子らと文通してやっとったりしてな」
「あれじゃ。都で流行のロリコンじゃ」
「あっはっはー」
云いたい放題である。
さて、その頃の当人はというと……。
「……むぅ」
目覚めたら素晴らしい体勢になっていた。
右手は床に落ち、上半身の右側は宙に浮いている。そんな叉雷であった。
叉雷の部屋は、「忠屋の宿」の二階にある角部屋である。北向きだが、陽当たりの悪さを感じることはあまりない。
「子供の頃は寝相悪くなかったのに……」
孤独に病む老人のように独り言の多い青年は、乱れた頭をぶんと振って体を起こした。
両腕の包帯は昨日と変わらず固く縛られている。二日酔いの苦しみは彼から去ったようで、叉雷の顔色は昨日よりも改善されていた。
叉雷は箪笥の引き出しを開けた。そこから、ろくに考えもせず、最初に手に触れた衣服を何枚か引っ張り出す。
叉雷の身支度は早い。数分後には身なりを整え終えていた。
階段を降りて階下へと向かう。朝食は既に終わったようで、宿の中はひっそりと静まり返っている。
廊下の壁には格調高い銀製の額縁がある。額は三枚有り、横一列に等間隔で掛かっている。それらの中には、都に住む叉雷の友人が贈ってくれた詩が納まっている。
一枚目の詩はこうだ。
あわれ時の巨人
栄光は枯れ 看取る者もなく
重い鎖が絡みつく
死すべし 死すべし
大鴉の歌がとどろく
巨人どもめ
業火のなかで灼け死ぬがいい
二枚目はこう続く。
幾千の都が滅ぶとも
悼んで泣く鳥などあるものか
見ろ この空を
焼け爛れ 黒雨を垂らし
金銀の羽根に絡みつく
巨人どもめ
溶けゆく氷に沈むがいい
三枚目はこうだ。
時の檻に囚われた巨人どもよ
見ているか
煙に灼かれぬ空を
油の撒かれぬ海を
命とは尾を銜えた蛇
始まりはなく 終わりもない
眠れ 眠れ巨人よ
世界は我らのもの
叉雷はさらに奧へと進む。裏口に近い部屋には、宿の主人であるサトが生活している。
「叉雷です。入りますよ」
云ってから扉を開く。
中には、揺り椅子に腰を下ろしたサトの姿があった。サトは七十歳近い老婆である。
小柄だ。髪の色は黄みがかった白である。
木綿の白いシャツ。紺色の大振りなスカート。薄紫の丸い小さなエプロンを首から掛けている。
「婆様?」
彼女は占者である。夢の中で神々の言葉を承り、それを村人たちに伝え続けてきた。
村人同士の争いを仲裁したり、種蒔きの日を決めたりもする。だが、輝かしい実績は今や遠い過去のものになりつつある。
「お早うございます」
「うぁ~」
奇妙な唸り声が返ってくる。
サトは、三年ほど前から痴呆の症状に悩まされているのである。叉雷はサトの世話係として度々宿に泊まるようになり、やがて自然とここに居着いてしまったのだった。
最近のサトは、一日起きて二日眠るという常人には不可能なサイクルで生きている。
叉雷は紗那ともう一人、都で老人介護の職に就いたことのある戴牙という若い男とともにサトの暮らしを見守っている。余談だが、戴牙は最初の一年はここに住み込んで働いていた。しかし、サトの眠りが一日から二日に増えた今では、叉雷の実家に居候している。ちょうどその頃家を出た叉雷と入れ替わった格好だ。
「何かお話しませんか?」
年寄りが聞きやすいゆっくりとした口調で話しかける。
サトは寝ぼけたような顔で叉雷を見た。
「叉雷かね」
「おれです」
「……叉雷かね」
「はい。そうです」
ふと手すりを握る両手に力がこもり、緩やかに体を起こして立ち上がる。
サトの背中はまだ曲がってはいなかった。
「婆様」
その立ち姿には年若い者を圧倒する確かな威厳があり、叉雷は何だか少し泣きたいような気持ちでサトの行動を見つめていた。
「どこへ?」
徘徊は痴呆を抱えた老人の本能と云っても過言ではないだろう。だが、幸いサトは宿の中をうろつくことはあっても、そこから外へ出ることは滅多にない。
「婆様、いけません。そちらは戸棚ですよ」
つかつかとあらぬ方向へ歩いてゆくサトを慌てて追う。
「あらあら。まあ」
サトは驚いたように声を上げて立ち止まり、そのまましばらくふがふがと口を開いたり閉じたりしていた。
「何が必要なんですか? おれが取って来ましょう」
そう訊ねながらも、叉雷は実の所全く別の事柄に気を取られていた。
サトが起きている。それもどうやら正気のようだ。機会は今しかない……。
「おれは」
「龍のことかい」
叉雷の心を読んだのか、言葉の途中でサトが問う。鳥のように高く軽い声でありながら、底知れぬ凄みを含んだ声音である。
「そうです。婆様にお願いがあります」
叉雷は改まった顔をしている。
「おれはあるものを捜しています。それは、この先見つかるでしょうか? 見つかるならば、それはどこで?」
「ほっ」
清らかな瞳が珍しくぱっちりと開き、叉雷は生ける神を見るような思いでサトを見つめている。透き通る灰色の瞳は汚れを知らず、独身を貫いてきた占者は乙女のように美しく叉雷の目に映る。たとえその肌にいくつもの皺が川となって流れていても、叉雷はそれを醜いとは思わない。村人のためにと長年占い続けた崇高な精神が、今なお背後から老婆を支えているのが感じ取れるからだ。それは、天や神の加護と呼ぶべきものかも知れない。
叉雷は思う。人の魂とは、見目かたちの美醜や、生まれ落ちた境遇によって左右されるものでは決してないのである。目を覆うばかりの貧しさの中に聖人が育つこともあれば、食べ残しを床に捨てるような歪んだ豊かさの中でぐずぐずに腐ってしまう者もいる。
「あんたにの~」
「はい」
叉雷の額には薄く汗が滲んでいる。サトはしばらくの間あぁ、うぅ、と小さな声を上げていた。
「婆様?」
しびれを切らせて叉雷が問う。
「あんたにの~」
「それはさっきも聞きましたが」
「……」
サトは悲しそうに口をもぐもぐさせている。一生懸命に何かを思い出そうとしているのだ。それはきっと、叉雷が望む答えの一つであるに違いない。
「いいです。いいです」
悩むサトを哀れに思ったのか、叉雷は殊更穏やかに言葉をかける。
「ゆっくりしていて下さい。もし思い出したら、その時に教えて下さいよ」
「叉雷や」
「はい」
灰の瞳がさらに大きく開いた。口元に力が宿る。サトは突然若返り、力強くなったように見えた。
「都へ行って降魔師のお方に尋ねるがよい。龍はいずこかと。わしはあんたの拾われた日に太陽を運ぶ鳥の神さまの夢を見た。神さまはおっしゃった。この者いつか何かを探しに旅に出るだろう。時が来たらおれが知らせてやるからお前がそれを伝えるのだと。はたして先の夕べにとうとう時の彼方を視るという神さまのお言葉が下った。叉雷よ。南の果てを目指せと」
老婆は淀みなく云い切った。まるで祭の夜に子供たちが芝居を演じる時のように、ろくに息継ぎもせずに。
「婆様……」
老婆の傍らに跪く叉雷には、そんな喋り方をしたサトの気持ちが充分に理解できた。
祭の芝居は豊穣の神へ捧げるものだ。
大人たちは、子供たちの芝居を見つめながら翌年の豊作を祈る。ゆえに、失敗は決して赦されない。本番に至るまでの練習は厳しく、祭の五日前からは連日深夜に及ぶほどだ。
そして、祭の当日――。演じる子供たちは真剣そのものである。真剣すぎて、目が血走っている者もいる。舞台から転げ落ちて泣く者も。途中で躓けば、これまで苦心して覚えた台詞が全て飛んでしまうという恐怖に駆られながら、皆一瞬の間も置かずに喋り続けるのである。
サトは叉雷のために、大事な言葉をずっと抱えていてくれたのではないだろうか?
来るべき日に、こうして叉雷を後押ししてくれる時のために。
「ありがとう。おれ、すぐに出発するよ」
「あい」
「婆様。龍は本当にいると思うかい?」
「……ふむ」
少し遠い目をして叉雷の顔を眺めている。
「おれは龍を捜したいんだ」
本当は「捜したい」のではない。これまでにも、ずっと「捜し続けてきた」のである。
だが、どれほど足を――時には絽々の翼を借りて――伸ばしてもなお世界は広く、叉雷は龍の影すら見つけることはできなかった。
「龍は、おるよ」
サトが云う。叉雷は全身に痺れが走るのを感じた。それは、どこか甘い痺れだった。
「本当に――?」
「この星を護ってらっさる」
その声があまりに厳かだったので、叉雷はそれを本気で信じてしまった。同時に、彼は幼い日に碧の瞳に灼きついたあの残像を己が微塵も忘れていないことを思い知らされたのである。握り拳に爪が食い込む。叉雷の脳裏には虹色の龍の姿が閃き、踊るように空を泳いでいる。おれは再び龍を見る。必ず。この願いさえ叶うならば、長として一生をこの村で暮らすことすら苦痛とは思わない――。
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