【2】淵沼の村(2)


*     *     *


 紗菜が希莉江に宛った部屋は、希莉江自身の予想よりもずっと広かった。

 木の床と白い壁が真新しい。設えられた家具類は使い古しのようだが、手入れは丁寧なようだ。何より、全体に清潔感がある。

 叉雷と別れてから数時間が経つ。この間に希莉江は夕食を摂った。その時には、希莉江以外の客はいなかった。さらに、一階の奧にある浴室を使って旅の疲れを癒した。

 服は花柄の寝間着に替わり、解いた髪が肩や背中へ流れ落ちている。

「……」

 希莉江はぼんやりとした顔で考えている。

 明日はどうしようか。どこへ行こうか?

 窓枠に手をかけて窓の向こうを見る。

 白い峰が遠くに見えた。山裾にあるこの村からはそう離れていない筈だが、あまりにも山が高いためにそう感じるのだろう。

「あたしは自由だ」

 呪文のように呟く希莉江は、白い上掛けのかかった寝台の上で両足を投げ出している。叫び過ぎたせいか、希莉江の声は嗄れていた。


 希莉江は、ある日突然住んでいた家を出た。

 理由はあった。人知れず冷たくなって横たわる死体のような、無惨な理由が――。

 この国の都の南側で、裕福な呉服商に仕える女がいた。それが希莉江の母である。母の名は冬花といった。

 希莉江は使用人の娘として十四年前に生まれた。父親は異国からの流れ者だったとしか知らない。

 幼い頃の暮らしぶりは悪くなかった。希莉江の母親は飴細工のように優しかった。彼女の期待に応えるためならば、苦手な勉強すら厭わなかったほどである。ただ、希莉江の父親が異国で名を馳せた拳闘士であったとか、喧嘩っ早く、気性は荒く、まるで野生の狼のようであったなどと母親から聞かされる度に、希莉江は母親と自身の違いに気づかざるを得なかった。年を追うごとに病弱になってゆく母親に代わり、希莉江が侍女として働き始めたのは七才の秋のことである。

 母親の身分が実質的な奴隷であり、主人である呉服商が望めば体を許さなければならないと知ってから、希莉江は熱砂の上を彷徨う旅人のように自由を渇望した。

 あたしは嵐でありたい。希莉江は、雷鳴の轟く日に、着の身着のままで外へと――殆ど衝動的に――飛び出していったりするような子供だった。

 並外れた、とまでは行かないが、希莉江の器量は人並み以上のものであった。まだ年若い呉服商の若旦那は、希莉江が十才になる前から彼女を傍らに置いて離さなかった。幸い何かを奪われた訳ではないが、明らかにそれと分かる視線を浴び続けることは、希莉江にとって決して愉快なものではなかった。

 呉服商には娘が二人いた。年は、それぞれ十一才と九才である。彼女たちが希莉江よりも平凡な容姿を持って生まれたことで、希莉江の立場はより厳しいものとなった。「奥方様」だけではなく、娘たち自身も希莉江を疎んじているのを肌で感じつつ、希莉江は悪意の中に全身を浸しながら生きてきた。

 外出するのにも呉服商の許可が要った。何をするにも、主の機嫌を伺わなければ実現しない。九才で初等学校を出た後の希莉江は、中等学校にはやらされず、だだっぴろい屋敷の中に完全に囚われることとなった。

 いつからか――と訊かれれば、生まれた時からとしか応えられない。希莉江の心は自由を求めていた。いつか、あたしはここを出て自由になる……。


 希莉江の母親が病に倒れたのは数年前のことだ。看病も虚しく天に召された母親を発見したのは、ほかならぬ希莉江であった。

 人知れず冷たくなって横たわる死体。それが希莉江に与えた衝撃は云うまでもない。

 その日の夜に家を出た。希莉江は風になり、未だ全容を知らぬままの都から流れた。母親が残した金と、主から気まぐれに贈られた貴金属の全てを手にして。

 ……あたしはもう、誰にも縛られたくない。

 これまで保身のために抑えてきた希莉江の本来の気性が開放され、彼女は文字通り嵐となって行き先のない旅を始めた。

 しかし、あれほど望んだ自由の身になってから、初めて彼女は気がついたのである。

 希莉江には、帰る場所などどこにもないのである。希莉江が愛する者もいなければ、愛してくれる者も既に亡い。

 こうして少女は、自由とともに虚無を得た。

 希莉江は、自分が考え得るありとあらゆる思いつきを実行することで、何とかこれまでの日々を乗りきってきた。

 有名な理容室に行き、切ることを禁じられて腰の下まで伸びていた髪を切った。都風の服を買い込んで、若者たちの盛り場で注目を浴びたこともある。甘い菓子。色とりどりの氷菓を盛り合わせたデザート。流行の玩具や文具。目につく物は全て手に入れた。

 だが、何をしても、何を買っても、希莉江の心が満たされることはなかった。

 戦場に行きたいと思ったのは、死に場所を求めてのことかも知れない。だが、自ら死を選ぶことは怖ろしくてできなかった。貧民窟の住人ですら自殺するだけの覚悟があるのに、それが出来ない自身を希莉江は臆病だと感じていた。……実際には、希莉江が健やかな心を保っていられたというだけのことなのだが。

 希莉江は今、アンバランスの極致にある。生と死の境が曖昧で、どちらにでもすぐに転がり落ちてしまえるのだろう。


 こつ、こつ。乾いた音が希莉江を現実へと舞い戻らせた。

「……誰?」

 億劫そうに応えながら体を起こす。

「おれ」

 短い応えが帰ってくる。希莉江は丸い取っ手のついた扉の前まで歩き、内側からそれを開いた。

「サライ」

 なぜか爽やかな石鹸の匂いがする。希莉江は驚いたように叉雷を見上げた。

「やあ」

 叉雷はベージュの部屋着に着替えている。薄茶の髪の色が水に濡れて濃くなっていた。

「ちょっと出ようか」

「出るって、どこへ行くの?」

「散歩さ。村を案内するよ」

 叉雷の声は人を安心させ、同時に浮き立たせるような不思議な響きをしている。

「行く?」

「うん。着替えるから、下で待ってて」

 希莉江は迷わず肯いていた。

「じゃあね」

 叉雷は外から扉を閉め、使い慣れた階段とは別の螺旋階段を下っていった。


「紗菜さん。ちょっと出てきます」

 事務室に顔を出すと、紗菜はくつろいだ姿で本を読んでいた。

「あら。遅うなる?」

 分厚い本に栞を挟んでから顔を上げる。

「いえ。一時間くらいかな?」

「そしたら、閉めておきますから。鍵は?」

「大丈夫です」

 手に持つ鍵の束を示す。丸い銀の輪につけられた二つの鍵は、実家と宿のものだろうか。

「あっ。そうだ」

「何か?」

「紗菜さん。あの子の宿代、おれが半分持ちますから」

「あらっ」

 紗菜は驚いたように目を丸くする。

「どうも、捺夏が迷惑かけちゃったみたいなんで。あの子には云わなくていいですから」

「うちはええですけど。はぁ、驚いてもうた」

「どうして?」

 怪訝そうに叉雷が訊ねる。

「叉雷さんの恋人かしら、と」

「まさか。もしそうなら全額払いますよ」

 叉雷は力無く笑う。寄りついてくる娘には不自由しない叉雷だが、実は、決まった相手と長続きした試しが無い。

「充分もててはるのに。ねぇ?」

「ははは」

 叉雷の唇から虚ろな笑いが洩れた。

「おれは待ってるんですけど。なかなか」

 包帯の巻かれた腕を上げ、頭を掻いている。

 叉雷の背後で扉が開いた。

「サライ」

 髪を後ろで一つにまとめた希莉江がそこに立っていた。荷物は無く、薄い黄緑色のワンピースだけを着ている。

「行こうか」

「行ってらっしゃい」

 紗菜は胸の前で手を振って叉雷たちを送り出した。


 スリッパを履いた希莉江と、裸足の叉雷は木の廊下をぺたぺたと歩いてゆく。

「あそこに何か置いてあるけど?」

 希莉江は玄関の手前で何かを見つけたようである。

「パンフレットだね」

 叉雷が応える。

「去年作ったんだ。中に村の地図が載ってるよ」

「一部もらうわ」

 希莉江は手を伸ばして縱置きのラックから薄い冊子を抜き出した。


 昼間通った玄関から外へと出る。空は既に暗くなっていた。

 街道へと続く通りに並ぶ家々に灯りが点っているのが見えた。

 希莉江は宿の前から見える風景をきょろきょろと見回している。

「どうしたの?」

 叉雷はてれんとした部屋着の下のポケットに両手を突っ込んでいる。

「こっちの方が家が多いわ。灯りも多いし。裏口の方は畑ばっかりだったのに?」

「一応こっちが都側だからね。山に近づくと、どんどん建物が減るよ。君は、都から街道を通ってきたの?」

「そうよ。馬車を借りたわ」

「……贅沢な旅だなあ」

 叉雷は嘆息している。

「じゃあ行こう。畑を見てもしょうがないから、こっち側を歩くよ」

 叉雷が云う。希莉江は無言で肯き返した。

「虫が鳴くのを聞かせられなくて残念だよ」

 希莉江の速度に合わせて歩き始める。

「虫? 何で?」

「梅雨を越えると凄いよ。大合唱。もう寝てられないくらい鳴くね」

 希莉江は相槌の代わりに叉雷を見上げた。

「都はここから真南にあるんでしょ? 山は北の方角にあって、山の手前に大河があるわ」

「よく知ってるね」

「当たり前でしょ。あたしは、あの山を越えて宗香に行くつもりだったんだから」

 この村から都までの道程は、馬の足で二日。人の足では五日ほどかかる。

「南側の畑や田んぼは、どこまで続いてるの?」

「河の手前まで。いや、待てよ。最近始めた茶畑は山の斜面を利用してるか」

「あんなにだだっ広い土地を誰が耕すの? 人はそれほど多くないように見えたけど。それとも、他の村から人を雇ってるとか?」

「ああ。出稼ぎに来てくれる人は多いよ」

「それにさっきから、全然人に会わないわ。夜には出歩かないの?」

「暗いからね。野良仕事でくたびれてるし」

「サライも?」

「おれは畑は耕さない」

「じゃあ、どうやってお金を稼ぐの?」

「蛇の道は蛇ってことさ。村の雑用係を請け負う代わりに、毎月給料がもらえる」

「いい身分じゃない」

「まあね。これでも苦労してるんだけど」

「分かるわ。なんか疲れてる感じがするもの」

「……」

 叉雷はばつが悪そうな顔をする。

「おれ今日はちょっと調子が悪くて、当たりがきつかったかも知れないな。ごめんね」

「病気なの?」

「違うよ。二日酔い」

「酔っぱらってたの?」

 問い返す希莉江は呆れ顔である。

「うぅ。恥ずかしい」

 叉雷は両手を目元に置いて呻いた。

「どうしたの?」

 そのままの格好で急に足を止めた叉雷を、希莉江が不審そうに見つめている。

「いや。何でもないよ」

 はっとしたように手を下ろす。叉雷は目にゴミでも入ったかのように瞬きをしている。

「ねぇ。なんでそんなに飲んだのか訊いてもいい?」

「いいよ。――手紙が来て」

「手紙?」

「嬉しい知らせだったんだ。だから、ちょっと調子に乗って呑みすぎた。それだけさ」

「……へぇ」

「地図を見てごらん」

「見てるわ」

 歩きながら、ぱらぱらと流し読みしていたパンフレットの三頁目を開いて示す。

「この地図には村の名所も描いてある。ここにある寄り合い所っていうのが、あれ」

 道の先にある、掘っ立て小屋に近い平屋を指差す。立て看板には「わが村のよりあい処」と赤らしきペンキで大きく書いてある。

 窓の向こうは明るい。賑やかな音楽と歌声らしきものが洩れ聞こえてくる。どうやら、祭り囃子の音のようだ。

「あれは何をしてるの?」

「毎年夏に祭をやるんだ。その準備だよ」

「ふうん」

「ささやかな祭だけどね。おれが小さい頃は七年ごとに大きな祭があったんだけど。今はそれも無くなった」

「聞いたことある。祭の最後に、山頂で花火を打ち上げるんでしょ」

「見たことあるの?」

「無いわ。知り合いの人に聞いたの」

「そうか。花火は今でも上げてるよ」

「お祭には誰でも参加できるの?」

「十年くらい前までは村の人間しか参加できなかったね。今は誰でも参加できるよ」

「観光客も見にくるの?」

「うん。都からは大勢来るよ。登山と併せて宣伝してるせいかな」

「あたし、昨日は村の入り口の目の前にあるホテルに泊まったの」

「うん?」

「白蓮山に登るっていう人をいっぱい見たわ。団体でホテルに泊まってた」

「やっぱりツアー客が多いよ。彩流河を越えなきゃならないからね。たとえ橋を渡り切れても、あれだけ険しい山をガイド無しで登るのは危険だし」

 毎年幾人かが山中で命を落とす。叉雷は、哀れな登山家の死体を山男から引き取った経験がある。覆いをかけられ、橇に横たえられた人の体はずっしりと重く、非常に気が滅入る仕事であった。……隣に捺夏がいなければ、無事に村まで運び終えられたかどうか。微妙な所である。

「でもサライは登ったことがあるんでしょ」

「そりゃあね。祭の最後の夜には、必ず村人全員が山に登るし」

「全員参加なの? それって」

「強制だね。行かないと後で怒られる」

「……あたしには無理だと思う?」

 あの峰を越えて、宗香へ行けるだろうかと言外に問うている。

「まあ、やってやれないこともないだろうけど。おれならトンネルを抜けるだろうな」

「トンネル? 向こう側まで穴が空いてるの?」

「ああ。だけど、誰でも通れるような道じゃないよ」

「サライなら通れるの? 何で?」

「……。一緒に通れば分かるよ」

 叉雷は曖昧な応えを返してくる。

「そう。じゃあ、楽しみにしておくわ」

「おれはこの村が好きだよ」

 叉雷が呟く。その顔はなぜか無表情である。意に添わぬ言葉を、無理矢理己に云い聞かせているようにも見えた。

「都の人から見ればみすぼらしいかも知れないけどね。これでも充分豊かな村だと思うよ」

「あたしには、そこら辺のことは分からないけど。少なくとも景色は綺麗だわ。とても」

「明日君は、自分の行く道を決める訳だ」

「……」

「おれに出来るだけのことはするよ。それが、どんな選択であろうともね」

 叉雷は量りがたい眼差しで夜空を見上げている。希莉江はつられたように顔を上げて、思わず息を止めた。

 毒々しい広告灯の無い地上から見る暗闇。

 ――無数の光。青白い炎の群は煌々と瞬く。


 そこにあったものは、満天の星空だった。

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