【2】淵沼の村(1)
かっこん、かこん、かこかこ……。楽しげに鳴る木の階段を下りる。
「ふぁー。だるい」
思わず欠伸が洩れた。
叉雷〔さらい〕に家は無い。実家は近くにあるのだが、今はそこを出て一人暮らしをしている。古びた木造の二階建ては、サトという老婆が旅人向けに営業している宿だ。叉雷は、ここの二階に生活の拠点を置いている。
木の扉を押して外へ出る。五月の空は綺麗に晴れていた。
「よっ」
叉雷が捺夏〔だっか〕に声をかける。
「オィーッス」
捺夏は待ちかねたように両手を挙げて叉雷を迎えた。
叉雷の仲間たちは既にそれぞれの場所へと散ったらしく、捺夏だけが件の少女とともに叉雷を待っていた。捺夏は相変わらず茫洋とした顔をしているが、隣に立つ少女はぶすーっとした顔で叉雷を睨みつけてくる。
「ようこそ。淵沼の村へ」
やや胡散くさい笑顔を作りながら云う。
「あたし、観光しに来たんじゃない」
少女は素っ気ない声で応える。
「なるほど。色々訳があってここへ来ているんだな」
叉雷は独り言のように云った。
「自己紹介しよう。おれは叉雷。屋号は秋一屋。叉雷と呼んでくれて構わない」
一気にくだけた調子で名乗る。
「で、君は?」
少女は数秒の間叉雷をまじまじと見つめていたが、やがて渋々唇を開いた。
「希莉江〔きりえ〕」
「キリエさんか。上の名前は?」
「いいでしょ、そんなこと」
少女――希莉江は苛々したように応える。
「あたし、騙されたの。ここの、この村の、いい加減な男どもにねッ!」
「分かった。その話は後でゆっくり聞こう。
おれはこの村の若長だ。君が村人に金品を支払ったと云うなら、その代価を求めるのは当然のことだからな」
「その言葉、忘れないから。あたし」
「……」
責任を感じているのか、捺夏は珍しく無口である。
「君の家はどこだ?」
叉雷は唐突に尋ねる。
「あたし? あたしの家は……」
希莉江は云い淀んだ。
「君、家出してきたんだろ」
叉雷は断定的に云ってのける。
「もう帰りなさい。この村には、君が楽しめるものなんか何一つないんだから」
「あたしは遊びに来たんじゃないッ!」
間髪入れずに希莉江が叫んだ。
「年は幾つだ?」
「十六」
十六才にしては幼い外見の少女が応える。もっとも、サバを読んでいないという保証はどこにもないが……。
「あれだな。君には、やりたいことがあるのかな?」
「あるわよッ! でなきゃ、なんで家を出たのか分かんないじゃない!」
「やっぱり流れ者だ」
捺夏が肯き――速攻で希莉江に睨まれた。
「うるさいッ!」
「おぉ、こわ」
叉雷の親友である捺夏という青年は、叉雷よりも少し背が高い。彼の性格を一言で云い表すならば、「致命的なまでの無邪気さ」と云うほかないであろう。さらに、捺夏は極度の面倒くさがり屋である。
短く刈り込んだ灰色の髪は、禅寺から逃げ出した若い僧のようでもある。だが実際は、捺夏があまりにも己の髪型に無頓着なので、定期的に叉雷が刈ってやっているだけなのだった。
毎月終わり頃、鋏を打ち鳴らしながら叉雷が捺夏の元を訪ねると、捺夏は多少億劫そうに、自身がどこからか拾ってきた新聞紙を床に広げて、その上に正座をする。叉雷は捺夏と他愛のない世間話をしながら、捺夏の髪を器用に整えてやる。そんな時、色白の捺夏は毛を刈られる羊のように大人しくしている。
今日の捺夏の服装は、色がぼやけつつある藍染めのシャツと乳白色のハーフパンツ――昨夜、風呂上がりの捺夏が寝間着として身につけたもの――である。くたくたの袖の辺りや、首から提げられた猫の顔を象った財布のいかにもなお下がり感が、明るい孤児である捺夏の暮らしぶりを如実に表していた。
「……」
叉雷は口元に手を翳して少女を見やった。何事かを考え込むような様子である。
「そうよ。あたしは家出したわよ。それで? あたし、そのことであんたたちに何か迷惑かけた? かけてないでしょ?」
捺夏に詰め寄る。完全なる逆ギレである。
「まあね」
捺夏は首を伸ばして上空を見上げる。
そこには彼の愛する飛竜がいた。爽やかな風に乗って、青い空を滑るように飛んでいる。真昼の日射しが絽々を照らしていた。逆光の中に、飛竜の姿が浮かび上がる。右へ、左へ――。
風向きに逆らわず、くるくると方向を変えてゆく。時々、捺夏に向けて合図をして見せたりもする。その仕草からは、人に馴れた飛竜に特有の穏やかさが見て取れる。
ホーィ。ホホーィ。ホホホーィ。
絽々は上機嫌で歌っていた。
「君は、宗香〈そうこう〉に乗り込んで何がしたい?」
叉雷は云いながら右手を下へ下ろした。
宗香とは、戦渦のただなかにある隣国の名である。
産業に乏しく、人口は減少の一途を辿る貧国だが、国としての歴史は古い。初代の大王は天文学の祖として崇められた学者であったという。当時、いくつかの村落の集まりでしかなかった牛込〈うしごめ〉地方をまとめ、一つの国とした。今から千年以上も昔のことである。
叉雷は二年前に宗香を旅したことがある。捺夏とともにあるものを捜しに行ったのだ。
春から夏まで、酪農を営む民たちと暮らしていた。朝は遅くに起きて、昼は牛を追い、夜には星を見る。逆側から見上げる白蓮山は美しく、二人は雄大な自然の中で楽しい時間を過ごした。残念ながら、叉雷の捜しものは一向に見当たらず、「もう帰ろうよ」と捺夏が急かすのを宥めながら半年近く待ったが、発見には至らなかった。
「答えによっては、おれが君を連れて行ってあげてもいい」
隙のない瞳が希莉江を正面から見据える。
「あ、あたしを?」
希莉江は己の顔を人差し指で示す。
「ああ。君は、あの竜には乗りたくないんだろ。だったら徒歩で行くしかないよ」
「宗香には入れないって云ってたじゃない。あれは嘘だったの?」
横からの風が希莉江の髪を舞い上げた。
「嘘じゃないさ。ただ、やってやれないこともない」
叉雷は冷静な声で応える。希莉江の後ろに立つ捺夏は、気遣わしげな顔で叉雷と希莉江を見比べていた。
「その代わり、命の保証はしないよ」
人を一気に突き放すような叉雷の言葉が、希莉江の表情を凍りつかせた。
「あたし……」
「君がやりたいことは何だ?」
「あたしは、人を助けたいの」
途方に暮れたように云う。
「はぁ?」
訝しげに捺夏が訊き返した。
「人助けなんてのはさあ、頼まれてもいないのによその国に押しかけてまですることじゃないよ。都人なら、都にうようよいる浮浪者を先に助けてやれば?」
無邪気な口調で云う。希莉江は捺夏に何か云い返そうとしたが、結局何も云えずに口を噤んでしまった。
「キリエさん。君が望むなら、おれが宗香に連れて行ってあげよう」
鋭い眼差しが少女を射抜く。
「……」
希莉江の瞳もまた、叉雷を見ている。
「どうする?」
「叉雷っ。またお前の悪い癖が出てるぞ」
「何のことだ?」
叉雷は捺夏を見つめ返した。
「そんな風に困ってる人を片っ端から助けて回ったら、いろんな人がお前にしがみついてくるよ」
「しがみつきたけりゃあ、しがみついたっていいよ」
叉雷が応える。それは、ある意味投げやりとも取れる言葉であった。
「どうする?」
さらに問う。希莉江は、ぐっと唇を噛んでいる。迷っているのかも知れなかった。
「叉雷ぃー」
捺夏が叉雷を咎めるような声を上げる。
「いきなりそんな風に云ったら、答えられる訳ないよ」
「安心しろ。本人に答えがないなら、連れては行かない。家に戻ってもらうだけさ」
「あたしは帰らない」
「家には帰りたくない? どうしても?」
「どうしても」
希莉江は何かを振り切るように応えた。
「しょうがないな。君の行き先を決めるのは君自身だ。さあ、どうする?」
真摯に問いかける。叉雷は全く揺らがない。
「あたし……」
紫の瞳は心なしか潤んでいた。
「ちょっと考えさせて。……明日の夜までに必ず決めるから」
やがて、己に云い聞かせるように応える。
「分かった。それでいいよ」
叉雷は軽く肯いて見せた。
「あのさぁ」
堪りかねたように捺夏が声を上げる。
「何だ?」
「おれは、二人とも行くべきじゃないと思う」
捺夏は強い調子で云い切った。
「捺夏」
「どういうこと?」
「だけど、叉雷はあんたを助けるって決めたみたいだから、おれもそれに従うよ」
唇をへの字に曲げながら云う。
「そいつはどうも」
応える叉雷は、声も上げずに笑っている。
「あと、あんたがどこに行くにしろ、あんたの金はもう返せないから」
「なんで?!」
金切り声が空を切り裂いた。この少女は、数秒で沸点に達することが出来るようだ。
「あんた、イフラに前金で渡したろ。あの金は、もう耕作機に化けちゃったんだ。だから返せない。ごめんよ」
申し訳なさそうに謝る。だが、そこはかとなくふてぶてしい態度なのが捺夏らしい。
「こうさくき?! 何それ!」
型番はRK5208。イマムラ電機が昨年九月に世に放った、最新型の耕作機である。
「……」
表現しがたい沈黙が三人の間をたゆたう。
「あんた、生まれはどこ?」
捺夏は無邪気に訊ねる。
「彩泰〈さいたい〉」
希莉江は迷わずこの国の名を挙げた。
「この国には、降魔学(こうまがく)と医学だけしかないとでも思ってたの?」
「何が云いたいの?」
「よく見てみなよ。あんたの後ろを」
混乱する希莉江が振り返る。今さらながらに背後の景色を見渡した。
「あっ」
……畑だ。青々とした田畑が所々に隙間を空けて無限に続いている。正面に見えていた家並みの少なさに比べて、緑の地の何と広大なことか――。
「彩泰は農業大国でもあるんだ。そんでもって、この村には田んぼと畑しかないんだよ。あれが来たから、みんなで大喜びしてる。今さら、『やっぱり返品します』なんて云えない空気だよ」
「あぁ、もう!」
希莉江はその場で地団駄を踏んだ。
「分かったわよ! あんたたちが、あたしに意地悪してた訳じゃないってことはねッ! あたしのお金で、稲でも何でも刈ればいいじゃないッ!」
「……ごめんね」
捺夏が笑う。邪気のない微笑みだった。
「もう、いいわよ」
「じゃあ、おれ行くよ。行き先が決まったら教えてね。だけどおれは、叉雷が行くのも、あんたが行くのも反対だからね」
片手をスタンバイさせながら云う。
「分かった、分かった」
叉雷が捺夏を追いやるような仕草をした。
「じゃあね。――絽々っ」
ヒューイッと指笛を鳴らす。
「帰るよー!」
絽々が捺夏の頭の高さまで下降してくる。
「おぉ、よしよし」
擦り寄せられる白い鼻面を捺夏の手が愛しげに撫でた。
「えいっ」
助走も無しにひらりと飛び乗る。痩身が背に落ちつく間もなく、主を乗せた飛竜は上空を指して舞い上がった。そのまま飛び去ってゆく。
「……」
飛竜の早さに驚いたのか、希莉江は呆気にとられた様子で捺夏たちを見送っていた。
「かわいいなあ」
感心しきった声音で叉雷が云う。
「あれがぁ?」
「君の目は曇ってるな」
柔らかな風が二人の髪を揺らしている。
「あたしダメ。ああいう、つぶらな目の生きものって」
希莉江は顔をしかめている。
「……珍しい子だね」
叉雷は苦笑した。
「そうかな?」
「おれはね、絽々を見る度に大福餅のことを考えるんだ」
「えぇ?」
「好物なんだ。どっちもね」
「ふーん……」
刺々しい空気は既にない。叉雷と希莉江は年の離れた兄妹のようにも見えた。
「今夜の宿は? もう決めたの?」
問いかける叉雷は、数分前とは別人のように優しげな顔をしている。
「決めてない」
希莉江は首をふるふると横に振った。
「それなら、おれの所においで。下宿させてもらってる家が宿屋をやってるんだ」
「……いいわ。これのことでしょ?」
目の前に建つ家を指で示しながら問う。
「そうさ」
「高いの?」
「安いよ。良心的な宿さ」
「じゃあ、ここにするわ」
希莉江はここで初めて笑顔を見せた。
「よし。行こうか」
叉雷が希莉江を促し、先に立って歩き出す。希莉江は小走りに叉雷の後を追った。
「ここじゃないの?」
「こっちは避難用の裏口だよ。ちゃんとした玄関は別にある」
家を回り込むように木の壁に沿って歩く。
左へ曲がると、宿屋の入り口が目に入った。
「忠屋の宿」と書かれた木の看板が庇から吊されている。
叉雷の手が両開きの扉を開いた。
一階にある客用の玄関は落ちついた佇まいで二人を迎えた。幅広の廊下が奥まで続いている。
扇状に並べられた赤いスリッパ群の一足を叉雷が拾い上げ、そのまま希莉江に手渡す。
「どうぞ」
「……ありがと」
叉雷は靴を脱いで裸足となり、慣れた足取りで廊下の右側についた扉へと向かった。
ととととん。軽いノックをして、返事を待たずに扉を開いてしまう。
「紗菜〔しゃな〕さん。ただいま」
そこは小さな部屋だった。広さは六畳ほどであろうか? 右隅には年季の入った本棚があり、棚の一つに大小の招き猫が並んでいる。
叉雷の視線の先には若い女性がいた。まだ三十には届いていないだろうが、叉雷よりは年上のようである。椅子に座り、何か仕事をしていたような様子だ。机上には帳簿らしきものがいくつか広げられている。
「お帰りなさい。何か?」
応える声には西の訛りがある。
黒い髪は長く、頭の後ろで馬の尾のように結ばれている。草色の着物をゆったりと身に纏っていた。薄化粧だが、奧二重の瞳からは女性らしい色気が感じられる。
「お客さん」
叉雷の言葉から少し遅れて、叉雷の脇から希莉江がひょっこりと顔を出した。
「あら。いらっしゃいませ」
紗菜はにこやかに笑う。立ち上がり、壁際の椅子を希莉江の前へと置いた。
「婆様は?」
叉雷が問う。
「お婆さま、まだ寝てはるの」
紗菜が応える。サトは、この宿の従業員である紗菜にとっては雇い主にあたる。
元の場所へと戻った紗菜が本棚に手を伸ばす。革表紙の宿帳を手に取り、それを開いた。
「お客様、こちらにお名前を」
希莉江が椅子に座る。毛筆ペンを手にして「慈恵希莉江」と記した。叉雷は、希莉江の肩越しにその文字を見つめている。
「書いたわ」
宿帳の向きを逆さにして紗菜へ返す。
「お泊まりは何泊のご予定でしょうか?」
希莉江がちらっと叉雷を見上げる。叉雷は「うん?」とだけ応えた。
「とりあえず今夜。明日以降は分からない」
「かしこまりました。お夕飯は六時になっております。では、お部屋にご案内しましょう」
宿帳をぱたりと閉じてから紗菜が云った。
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