一章 秋一屋の叉雷

【1】叉雷

「嘘つきッ!」


 いきなりハツカネズミの悲鳴みたいな怒鳴り声が聞こえてきて、叉雷〔さらい〕は急な丘から転げ落ちるように目を覚ました。


「――ッ!」

 起きた途端に激しい頭痛に襲われる。

「うぉいてっ! うぁああ~」

 こめかみに突き刺さるような痛みだ。きりきりと、先の細い刃物で突かれているような感触が叉雷を苛む。

「参ったなぁ……」

 全身に夕べの酒が残っている。昨日は呑みすぎてしまった。いつになく気分が良くて、きつい米酒を立て続けに三瓶空けた。

 名は叉雷。年は二十二。ど田舎の村のことであるから、名字はなく、古くからの屋号で互いを区別している。

 ちなみに、叉雷の家の屋号は「秋一屋〔しゅういちや〕さん」である。何の店も出していないのに、である。百年以上前からの習わしだというが、「猫好屋〔ねこずきや〕さん」やら「心配屋さん」やらが普通にいてしまう辺りで相当おちゃらけている。

 叉雷が生まれた村は、周囲からは淵沼〈ふちぬま〉の村と呼ばれている。しかし村人たちはなぜか、淵を省いて「沼の村」とか、さらに略して「沼」と呼んだりしている。


「ぐぇ」

 酒くさい息を吐きながら起き上がる。叉雷は寝起きが良い。素面であれば、の話だが。

「……」

 どんよりした目が据わっている。瞳の色は深い碧だ。耳の辺りで適当に切られた薄茶の髪は、指通りのいい猫っ毛である。整った顔の造りは所謂甘いマスクで、若い娘たちの求愛の的だ。鋭くも、蜂蜜のように甘ったるくもなる眼差しは、切れ長とどんぐり眼の中間あたりをふらふらしている。適度に鍛えられたしなやかな体躯は、少し痩せ過ぎかも知れない――。だが、そんなことは、叉雷に宛てて毎日せっせと恋文を書いては、叉雷から「どうも」とか「もうそろそろ飽きたんじゃない?」「あなたの家は回覧板を回すのが遅くて困ります」とかの短い返事が届く度に、仲間内できゃあきゃあと喜んでいる娘たちにとっては、大した問題ではないのである。

「包帯買いに行かないとなあ。もう面倒だから、また手袋に戻すかな?」

 理由は定かではないが、叉雷の両腕の手首から肘までには、使い古されて黄ばんだ白い包帯が巻かれている。滅多に人目に晒さないその箇所には、かつて叉雷が愛しながら失った恋人の名前が刻まれているのだ――と本人は云い張っているが、おそらく大嘘であろう。

「うぅーん」

 一度は体を起こした叉雷だが、ややもすると布団の重力に崩れ落ちそうになる。それを瀬戸際で阻んでいる原因は、冒頭の叫び声である。しかもどうやら、諍いは現在進行形で続いている模様であった。

「うるさいなー。喧嘩はダメだってのに」

 やけに外が騒がしい。叉雷の仕事は、村の若衆たちの取り纏めだ。自分が降りなければならないのだろう。……たぶん。いやきっと。

「どれどれ。おっ」

 ガラス窓から下の様子を覗く。緩いカーブを描く路地には、十人ほどの若者が集まっていた。その殆どが叉雷の友人である。

「がーん。見事にいつものメンバーだぜっ」

 よく知る仲間たちの集まりは、なぜか酷く焦った顔つきや身振りをしながら、その輪の中央に立つ一人の少女を取り囲んでいる。


「よくも、あたしを騙してくれたわねッ!」

 流れ者らしい少女は、仕立てのいい、都風の派手な服を余裕綽々といった感じで着こなしていた。田舎者には逆立ちしてもできない芸当である。自らの身をごてごてと飾り立て、「あたしを見てっ! むしろ、あたしの素敵な服を見てっ!」とでも云いたげに振る舞い、着る者の本質さえ覆い隠してしまうような、馬鹿げた格好をすることは……。

 金がかった栗色の髪は、首までのおかっぱ頭と、胸まで届く二本の三つ編みを無理矢理共存させているという複雑な形をしている。癇の強そうな、吊り上がり気味の瞳の色は紫だ。足もとはワンストラップの赤い革靴。背中に垂れ下がる、裾の広がった淡いクリーム色のケープ。それを、蛍光色のオレンジを織り込んだワンピースの上に羽織っている。

 少女の姿はしかし、奇妙な出で立ちを差し引いてもなお充分に可憐だった。

「ちょっと! ひどいじゃないの! 何とか云いなさいよッ!」

 愛らしい顔を真っ赤にして、周りの男達に怒鳴り散らしている。


「……絽々〔ろろ〕?」

 ふと、あるものに気づいて叉雷が呟く。

 一人で叫び続ける少女に対し、言葉少なになりつつある人垣の後ろに、顔馴染みの飛竜がボケーッとした顔で座り込んでいるのが見えた。白くて丸っこい体つきは叉雷の好きな大福餅――豆が入っていない、シンプルな味のものが好きだ――を連想させる。

 鼻先が丸く、毛の少ない肌はすべすべしていて心地よい。叉雷は絽々がとても好きである。可愛いし、何より飛竜は空を飛べる――。

「あいつ、何であんな所に」

 絽々がいるということは、近くに絽々の主がいるということだ。

「バカーッ! あたしは、この山の向こうに行きたいのよーッ! なんで今さら無理とか云うのよッ!」

 少女は薄い胸の前で両の拳を固く握りしめている。全身から迸る怒りの炎が眩しい。

「凄いな。今あの子のそばにいたら、二軒先の真子ちゃんの脂肪も余裕で燃えそうだ」

 叉雷は分かりにくい例えで少女を讃えた。

「バッカじゃねえのか! この流れ者は!」

 負けじと叫び返したのは、異国人と村人の間に生まれたハーフのイフラジャンである。

「国境(くにざかい)は封鎖されてる。蟻の這い出る隙間もねえんだよ! それぐらい分かれよな!」

 アーユーオケーイ? 彫りの深い顔立ちの青年は馬鹿にしきった調子で締めくくった。

「だったらお金を返してよ! あたしのお金よッ! ねぇひどくない? ありえない!」

 取り縋るようにして少女が畳み掛ける。

「だから最初に云っただろうが! おれたちじゃ案内は無理だから、代わりに人に馴れた飛竜を一匹連れて来るってよーっ!」

「聞いてないっ!」

「聞いとけよっ!」

「これに乗るの? これに? あたしが? こんな間抜け面した竜に乗るの、いやぁあああぁーっ!」

 泣き出しそうに顔を歪めて叫ぶ。

「なっ……!」

 絶句するのは、絽々の親代わりの捺夏〔だっか〕だ。叉雷の幼馴染みでもある二十歳の青年は、半月前に十才の誕生日を祝ってやったばかりの飛竜に視線を送る。

「おい、お前ひどいこと云われてるぜ!」

 怒りに満ちた顔で告げる。

 絽々はまるで興味のなさそうな顔で、一言「ホュー」とだけ鳴いた。

 飛竜――。ヒュモノプトロゲスとも呼ばれる彼らの種族は、ゆうに数百年の時を生きる。ゆえに絽々は、未だよちよち歩きの赤ん坊も同然なのであった。

「ったく、なーにやってんだか……」

 叉雷は、捺夏たちと少女のすれ違いっぷりを目の当たりにして瞑目する。

 これで一体何度目になるのだろうか。叉雷の友人たちは、またも、この村を訪れた旅客との間にトラブルを起こしてしまったのだ。

 叉雷の住む村は、夏でも頂上に雪が残ったままの白蓮山〈びゃくれんさん〉の麓にある。この峰は「景観が素晴らしく、旅情がある」と目の肥えた都人たちにも好評だ。

「都からの客と取引するの、いい加減にやめろと云ってるのに、全然聞きゃあしない。骨の髄まで田舎者なんだから、商人の真似事なんかするもんじゃないぜ」

 ぶつぶつと文句を云う。

 白蓮山の頂を挟んで向こう側の麓は、もう別の国だ。今その国は戦火に灼かれている。イフラジャンが云う通り、戦時中のあの国に少女が入ることはできないだろう。

「流れ者ってのは、村の言葉で『家出した人』って意味なんだけど。あの子も訳ありかな?」

 叉雷は裸の肩に麻の上着だけを引っかけ、ようやく窓の鍵に手をかけた。

「おーい。どうしたんだ?」

 開けた窓から顔だけ出して尋ねる。捺夏は、物凄く情けない顔で叉雷を見上げた。

「さらーいっ! 助けてくれーっ!」

「捺夏っ! 旅人とのトラブルは御法度だぜ」

「だって、こいつがあまりにも分からんちんなんだものー」

 そう云うお前はとんちんかんだ――と思ったかどうか定かではないが、よく陽に灼けた叉雷の額に、青筋が二本ばかり立ったことだけは事実である。

「ちょっと! あたしのせいにする気?!」

「ほんと、お前いい加減にしろよっ!」

 がなり立てるイフラジャンは爆発寸前だ。

「あたしは悪くないッ! お金返してッ!」

「……頼むから、もうちょっと静かに喋ってくれないかな」

「叉雷のばかっ! おれを助けない叉雷なんか、叉雷じゃないっ」

 捺夏が図々しくも勝手なことを口走った。

「うるさいっ! お前ら全員この村から追放するぞっ!」

 二日酔いの叉雷は、通常時の三割り増しで態度が大きくなっていた。

「げぇえええええーっ!」

「マジかよ! おれ来月嫁さんが来るのに!」

「タカジお前逃げた方がいいぞっ。まじで」

「ぅわー!」

 どさくさに紛れて、捺夏も仲間たちとともにあらぬ方向へ駆けだそうとする。

「おい、こらっ! 冗談だ、逃げるなよっ!」

 一目散に逃げ去ろうとする旧友たちを慌てて留める。

「とくに捺夏! 絽々で商売をしようとしたお前だけは許さん。せこいぞっ」

「えー?」

 応える捺夏は不服げである。

「だから、逃げるなって。何があったか話してくれよ。今そっちへ行くからさ」

 云ってから、叉雷は面映ゆそうに笑った。

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