イージー
そこから先のことは何も覚えていない。気付いたときには自宅だった。
姉曰く、「愛ちゃんはすぐ救急車を呼んだらしいんだけど、実さんはその時もう……。救急隊員に呼ばれて警察が来て、それから彼のご両親が来て。それで、事情聴取が終わったあと、お姉ちゃんに電話を寄越したの。あんたがあんまり危なっかしいから私が車出したのよ」だそうだ。
何時間運転してくれたんだろう。往復だから十時間はくだらないはずだ。
お姉ちゃんにも、当然感謝している。
あたしは彼の、実さんの、ただの恋人だった。ご両親の厚意で葬儀には呼んでいただけたけれど、それだけ。
現実を受け止められなくて、四十九日も一周忌も何もかも触れずに来てしまった。
彼が亡くなって二年以上経った今、ようやく心の整理をする決心が付いたのだ。
「愛ちゃん、お替わりいる?」
思考の海から浮上して一息吐いた。そのタイミングを察知したように姉が声を掛けてくれる。さっきと変わらない、あたたかな空気に泣きそうになった。深呼吸一つで込み上がったものを押し返す。
テーブルに目をやれば、姉のカップは空だったし、いつの間にかあたしもドリンクを飲み干していたらしい。
「ううん。折角名古屋に来たんだもん、観光に戻ろう」
今度は穏やかに言うことが出来た。空元気なんかじゃなくて。
心の傷を癒す最も有効な薬というのは、存外「時間」なのだと思う。
そう、あたしはもう立ち直っていいはずだ。お誂え向きに、彼との交際記念日が今年は土曜日だった。だから今日、名古屋に来たのだ。
あたしはきっと、ずっと実さんに謝りたかった。その気持ちをやっと認められるようになって、なおかつ丁度いい口実まである。今日お墓参りが出来なければ、一生実さんと向き合えないままだろうと思った。
それでも、彼との思い出を刺激されると「つらい」がどうしても勝ってしまう。金時計然り、金シャチの会話然り。
そんな自分でも受け入れようと考えられたのは、それもきっと時間薬のおかげだった。
悲しいものは悲しい。でも彼に笑いかけたいのも本当。
こんなぐちゃぐちゃの「あたし」だって、きっと彼は受け止めてくれる。
そう思えて、心に齎されたのは安寧。
これまでは彼を思い出すことすら出来ないような状態が続いていた。
彼に纏わるあれこれを考えられるようになったことそのものが、そもそも時間薬の恩恵だったんだと思う。
「じゃあ早速、名古屋城に入ろっか」
「あたしも初めてだから、案内は期待しないでね」
あたしの顔を見て、安心したようにお姉ちゃんが言った。心配を掛けていたんだなあと実感して、ただ寄り添ってくれた優しさにまた謝意が湧く。照れ臭くて、口を衝いたのは茶化すような言葉だったけど。
なんとか感謝の気持ちを示したくて、支払いを申し出る。すると、頭に軽い衝撃が来た。どうやら姉に小突かれたらしい。「お姉様の面子を潰そうとしないの」と、伝票が手の中から消えていく。
観覧券発売窓口で徳川園との共通券を購入するときも同様だった。お姉ちゃんがさっさと二人分の料金を出してしまっていたのだ。次のお誕生日には、少し奮発してプレゼントを選ばないといけないなあ、と思う。
「次の行き先も決めてなかったし、二割引って言われてつい共通券を買っちゃったけど……徳川園って何処?」
「ちょっと歩いて行くには遠かった気がするなあ……調べてみようか?」
そんな風にお喋りしながら歩いていると、人だかりが目に付いた。「おもてなし演武」が始まったところらしい。
今では各地のお城で活躍する「武将隊」の先駆け、「名古屋おもてなし武将隊」の催しだ。あとから知ったのだが、「おもてなし演武」は休みの日の十一時と十四時半にしか開演しないという。出会えたのは幸運だった。
姉の「初めから観られるなら、折角だし鑑賞しよう」という言葉に同意する。
約三十分の公演だっただろうか。「おもてなし演武」が終わったときにはすっかり気分が高揚していた。初めて生で見る殺陣は「圧巻」の一言。これ以上は上手く言葉に出来そうにない。
姉も同じだったらしく、二人とも無言でひとまず隅の方へ移動した。同時に感嘆の息を吐いて、思わず笑い合う。
「タイミング一緒とか……愛ちゃん、お姉ちゃんのこと好き過ぎじゃん」
「何言ってんの、お姉ちゃんがあたしのこと好きなんじゃん。そんなことよりさ、殺陣、凄かったね……舞台にハマるの分かるわ……」
「おもてなし武将隊が人気なの分かっちゃったねー」
「ほんとね……」
感動を分かち合って心を落ち着けた。ついでに、徳川園への行き方を調べたり、城内の散策ルートを決めたり。徳川園に行けるバスは、十二時二十一分発の次は五十一分発になってしまうらしい。
慌ただしく観覧するのも趣に欠けると思ったあたしたちは、五十一分のバスを目処にすることにした。
入城時にもらったリーフレットを見ながら、御深井丸、本丸、二之丸、西之丸の順に回る。遠目に見てもお城というものは威厳があるものだけれど、間近で見るのはやはり迫力が違った。
お姉ちゃんとじゃれあいながら一通り見終わって、目をやった時計が示していたのは十二時四十六分。停留所はすぐそこだし、丁度いいと言える時間だった。
ルートバス「メーグル」で徳川園へ。
「やっぱり、惜しい感じするね」
「一月後だったら紅葉が見頃だったんだろうねー」
バスに揺られるのはたった五分ほどだったが、その間に徳川園を検索していた。
ロックを解除した途端、画面が映したのは名古屋城で徳川園へのアクセスを調べたブラウザ。
そういえばそのまま画面消したなあ。ずぼらもたまにはプラスに働くみたいだ。
なんて考えながら、「名古屋城 徳川園」の検索結果に目を走らせる。それによると、ここは紅葉の名所らしい。
その情報があった所為で、却って「惜しい」と姉が言う。賛同してみたが、あたしは今も十分にきれいだと思った。実さんと来てみれば良かった、と。
「取り敢えず腹拵えかなー?」
「ふふ、お姉様の仰せのままに」
悲しくなるより先に、姉の弾んだ声があたしを引き寄せた。
こちらが徳川園の特色なんかを調べている間に、姉はランチを探していたようだ。「蘇山荘」という和カフェのおすすめ記事を見つけたみたいで、強く推される。
「この『蘇山荘』って建物、国の有形文化財なんだって」
「へえ……文化財で食事したって自慢になるんじゃない?」
「ほんとだ!」
他愛ない会話を楽しみながら、ランチに舌鼓を打った。時刻はもう十四時を回っている。
冬至までまだ少しあるとは言え、もう随分日が短くなった。
そろそろ実さんの実家方面に向かうべきだろうか。
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