タナトロジー
「お姉ちゃん」
「良い時間かな? 徳川園はまた紅葉の季節に堪能しに来ようか。その時は美術館と蓬左文庫も観たいね」
「……うん」
皆まで言う必要はなかった。ここまでずっとそうだったように。
何かが喉元まで迫り上がってくる。これはきっと、「幸せ」と呼ぶものだ。
でも、あたしは喪失に巣くわれていて……だから多分、「切ない」というのが一番近い。
それが、彼の不在から得られた幸せを切り捨てることも受け入れることも出来ないあたしの感情につく名前。
二年半もの間、閉じていた瞳を開いて「あたし」を
「どうやって行くの?」
「まず名古屋駅に戻らないとだから……メーグルは遠回りになるみたい。取り敢えず『徳川園新出来』のバス停に向かうところからかな」
お店を出る前にアクセスを調べなくては迷子になること必至だった。またしてもブラウザアプリのお世話になる。
「お……じゃなくてえっと、最終目的地は何処にあるの?」
うっかり「お墓」と言いそうになった姉が慌てて言葉を選び直した。その様子がなんだか可笑しくて、少し口角が上がる。
口許を緩めたあたしを見つめるその視線は、すごくあたたかかった。
「実さんの実家は清須市だよ。名鉄名古屋本線で行けるの」
お墓の場所を知るための電話をしたのは一週間前。とても勇気が必要だった。けれど、誰かに頼んで良いようなことではない。
震える指で、ようやっと電話帳の番号に触れた。
『もしもし、まなちゃん?』
『お久しぶりです、実さんのお母様』
コールは、少し長かった気がする。もしかしたら、同じ緊張があちらにもあったのかも知れなかった。でも、あたしを呼んだのはそんなことを微塵も感じさせない声音。
二年半も逃げていたあたしの番号を消さずに取っておいてくれて、優しく名を呼んでくれた。
優しい人は優しい人に育てられたんだなあ、と思う。私は彼に優しく出来ていただろうか。
「もし、帰りたくなくなったりとかしたら教えてね。ホテルでもなんでも探すから」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
過去に引き摺られた意識が姉の声で戻ってきた。茫然自失だったあたしを誰よりもよく知っているお姉ちゃん。行き過ぎな程に心配してくれているのを肌で感じた。
今日のあたしは、ずっと胸が苦しい。良くも悪くも。
「そう……じゃ、行こっか」
それからはまた沈黙の時間になった。姉はあたしが「切ない」心を処理出来るように、時間をくれたのだと思う。
電車の窓から見える景色に彼とのデートを垣間見たり。初めて見る彼の故郷に彼との約束を思い出したり。
きっと、あたしの動きは不規則になっていただろう。お姉ちゃんはその全てを自然に受け入れてくれた。
「ここ、だ」
最寄り駅から徒歩二十分ほどだったろうか。住宅地の一角の墓地、その中の「兼松家之墓」に、やっと辿り着く。
そう、やっとだ。
「あ、お花!」
お墓を見た姉の第一声に、血の気が引く思いがした。
「ほんとだ……蝋燭とお線香は忘れなかったのに……」
「お姉ちゃん、お花屋さん探して買ってくるから。愛ちゃんは待ってて」
お墓参りはいつも親同伴で行くものだ。自分たちだけで用意するのは初めてだから、仕方のないことかもしれない。そうはいっても、準備不足にひどく心が痛んだ。
蔑ろにされたように感じるのではないかと、胸が苦しくてしょうがない。
「実さん、ごめんね」
長いことずっと待たせて。
「ごめん」
お墓参りがうまく出来なくて。
「ごめんなさい」
あなたの記憶を封じ込めていて。
「ごめん」
二年前、忙しいなんて言って金曜日から泊まりに行かなくて。
「ごめんね」
あなたを、助けられなくて。
一度口にしたら止まらなくなった。お墓の前に跪いて、零れるままに謝り続ける。服が汚れることなんか考えられなかった。
何度繰り返したか分からないけれど、涙と謝罪を沢山たくさん流して、漸く落ち着きを取り戻す。
変わらない過去。きっと変えられる自分。今は形のないの未来。
そこで唐突に気付いた。
あたしは、「あなたを足枷にしたくなかった」のだ。考えたら足枷になる。だから考えることから逃げて、逃げて、静かな檻の中に逃げ込んだ。
端から見れば、檻も足枷も同じ「縛り」だと気付かずに。
愛するあなたがあたしを苦しめる「縛り」になることが耐えられなかった。
けれど、違う。やっと分かった。これは碇だ。あたしの船をこの世界に留めるための。
「ありがとう、まことさん」
出会ってくれて。優しくしてくれて。愛してくれて。愛させてくれて。
立ち直ったとは言い難い。けれど、あなたの居ない世界でも笑うことが出来ているから。どうか、安心してほしい。
口角を持ち上げてみた。多分、すごく不細工だけれど、実さんに笑いかけることも出来たと思う。
彼に言いたいことは一通り言えた。一息ついて、水場に移動する。本来の使い方ではないけれど、こんなぐちゃぐちゃの顔のままお参りを続けるのも失礼だろう。そう思って、先に手や顔を清めた。
それから、手桶に水を溜めて実さんのところへ戻る。お墓を清めている内に、お姉ちゃんもお花を抱えて戻ってきた。
蝋燭やお線香、お水にお花。お墓を整え終わって、二人で手を合わせる。
あたしの心はもう決まっていた。
貴方を想って生きていく。辿り着いたのはそんな簡単な答え。
ひとより泣いている時間が長いかもしれない。すぐにまた心の在り方に悩むのかもしれない。
それでも。
貴方を想ったまま、死を心に抱えたまま、喪失の意味は解らないまま、柔らかに生きていこうと決めたのだ。
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