第3話 腐臭
アニシチェの儀式の日から三日が経った。王宮から
(あれは『
経稽古というのは、経を暗記してすらすらと唱えることを練習する修行のことだ。先輩僧が教師の役をし、後輩僧がきちんと経を暗記できているかどうか確認する。先輩僧にとってはすでに学んだ経なので、彼らにとってもよい復習となるというしくみだ。
澄史の場所から見える教室では、
と、その少年の口の動きが止まった。おそらく、経の文言を途中で忘れてしまったのだろう。遠くからでも、その瞬間部屋中に氷ついたような空気が流れたのが分かる。少し間をおいて、真ん中で仁王立ちしている白ノ僧の少年が険しい表情で何か言い放った。後輩の少年がうつむく。両者が黙り込み、恐ろしいほどの緊張感がその場に漂っていた。すると突然、仁王立ちの先輩僧が、うつむいている少年に向かって怒鳴りはじめた。一言一言は聞き取れなかったが、その音は澄史の耳にも届いてくるほどの声量だ。怒鳴られている少年は泣きそうな顔になって畳を見つめている。と、その先輩僧は怒鳴り散らしながらずんずん歩いて泣きそうな少年の前に立つと、いきなり頭を掴んで畳にぐいと引き下げた。か細い少年の体が畳みに打ち付けられる。侮蔑的なまなざしを向けたあと、彼は後ろにいる他の白ノ僧に顎で合図をした。応えるように彼らはさっと立ち上がり、倒れている少年を取り囲んだ。
そこで、澄史は目を背けた。次の瞬間何が起こるか容易に予想がついたからだ。倒れている少年は、彼を取り囲んだ先輩僧らに血を吐くまで蹴られ、血を吐いたら『穢れ』と言われて中庭へと連れ出される。運が悪ければ、『清め』と題して窒息しそうになるまで池に顔を浸されることになるだろう。
澄史自身も、このような現場に幾度も居合わせた。級友が読経を言いよどんだときの凍りつくような空気感を思うと今でも腹の底が締め付けられるような恐怖を感じる。あの張り詰めた空気も先輩僧の怒鳴り声も暴力も、すべてが澄史には死ぬほど恐ろしかった。だから、どれほど難しい経でも完璧に唱えられるようになるまで何日も寝ずに練習したのだ。そのおかげで澄史自身は
(経も舞も数珠も、そもそもこの寺の教えのすべては、人間を闇から救うためにあるんじゃなかったのか。いくら修行の身であっても、同じ人間をあんな恐怖と痛みに陥れることは、それこそ教えに背いているんじゃないのか…。)
このような場面に出くわす度に、憤りの混じった問いが自分の中に浮かび上がってくる。しかし澄史は、異を唱えるほどの勇気も無鉄砲さも持ち合わせてはいなかった。ただひとつできたのは、毎日狂ったように修行に打ち込み、誰からも一目置かれるほどの優秀な僧になって、このような腐った『正義』に関わらなくてよいようにすることだった。実際、『第二の神童』と呼ばれるまでになった澄史は、先輩僧や和尚から暴力を受けるほどの失敗をしたことは一度もなかったし、自分が先輩僧になってからも、周りが後輩を殴っているからといって自分もそれに参加せねばならないという圧力を感じたこともなかった。
(俺は、ただの弱虫なのかもしれない。)
自分の身だけを守り、周りで起きていることにはずっと見てみぬふりをしてきた。そんな自分に対する情けなさと憤りはいつも心の奥底に巣食っていて、先の少年のような場面を見る度に胸がじりじりと疼く。それでも、わざわざ寺の慣習に逆らって、今まで必死で築き上げてきた地位と名声を犠牲にするような行動に出るつもりもなかった。
学舎への道を急ぎながら、澄史の頭にふと、この寺のそこら中で焚かれている強いにおいのする香は本当は魔除けなどではなく、ここに染みついた腐臭を隠すためものなのではないかという考えが浮かんできた。
遠く後方から、年若い青年たちの蛮声と、まだ幼い少年の泣き声が響いてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます