第2話 奇異な出会い
翌朝、
と、音もなく襖があき、儀式の開始を告げる鐘の高く澄んだ音が響き渡った。控えていた僧たちはしずしずと部屋の奥へ進み、位置につく。
(この人がアニシチェか…?)
異国の教えを継ぐ流れ者だというから、もっと怪しげな姿を想像していたのだが、目の前のすらりと背筋を伸ばした人物からは微塵の胡散臭さも感じられない。目を除いて全身を覆う紫の薄い衣には、蔓のような模様の美しい金色の刺繡が施されている。
(この香りは…松?)
松の葉のような、微かにつんとする甘い香りだ。
と、先ほどの鐘がまた二回鳴った。いよいよアニシチェの儀式がはじまることを意味する。彼の容姿があまりに予想外だったので一瞬気をとられたが、ここからは澄史たちの出番でもある。気を引き締めてこの男をしっかりと見張っていなければ。
アニシチェが深く息を吸い込むのが聞こえ、次の瞬間、手にしていた木の横笛を吹きはじめた。その音は湧き水のように澄み切っていて、乾いた土を潤すかのごとく深く、深く、聞く者の中に沁み込んでくる。聞きなれない旋律だったが、その透明な響きは、心も、体をも浄化してくれるように思えた。
(酔いしれる、とはこういう事を言うんだろうな。)
よい夢を見ているような心地よさに浸りながら、澄史はぼんやりと心の中で呟いた。ふと目をやると、アニシチェが笛から片手を離し、隣に用意してあった蝋燭に火をつけたのが見えた。するとすぐに、その蝋燭から何とも言えない
(花のような香り…。こんな旋律も香りも、初めてだ。)
笛を吹き続けながら、アニシチェはすっと立ち上がり
と、アニシチェはくるりと踵を返し、舞ながらもとの場所へと静かに向かいはじめた。澄史はやっと彼を正面から見ることができたが、灯りが蝋燭しかないのと、衣が彼の目以外のすべて覆っているのとで、どんな顔をしているのかほとんど分からない。アニシチェは歩を進めるとともに笛の音を弱めていき、もとの場所へ戻ってくると演奏を止めた。それはまるで心地よい風が吹き止んだようで、不思議な満足感が澄史を満たしていった。アニシチェはそのまま、金属の丸い板のようなもので一つひとつ蝋燭を消していき、すべての蝋燭を消したあと、儀式の終わりを告げた。
白銀皇子の部屋を出た
「おい、いったい何だったんだあの儀式は?!」
「あの笛、俺、あんな美しい音初めて聞いたよ。何という曲かはさっぱりだったが。」
「それにあいつはいったいどんな香をつかったんだ?嗅いだことのない香りだったぞ。」
「儀式のとき、なんだか夢を見ているような気がしなかったか?なんだかこう、身も心も快い何かに包まれているような…」
皆口々に感想を言い合っていたが、澄史はまだぼうっとしていて、思いを言葉にできるほどの状態ではなかった。
と、鋭く低い声が響いた。
「皆、今日は朝早くからご苦労だった。見慣れない儀式で、見張りをするにはかなりの集中が必要だったことだろう。皆の働きをしっかりと労いたいところだが、私はすぐに
和尚の冷静な言葉にしん、と部屋が静まり返る。そうだ、俺はあいつを見張らなければならない立場だったのに…
「恐れながら申し上げます。私の見た限りでは、確かに奇異な儀式ではありましたが、魔の気配は感じられなかったように思います。」
一人が答え、何人かの僧がうんうんと頷くのがわかった。
「うむ。他の者たちはどう感じたか。」
返答を促すように、
「この部屋にいる全員、魔を感じなかったということでよいか。」
和尚の静かな問いかけに、同意を意味する沈黙が流れる。
「よろしい。私も、あの儀式に魔を見出す瞬間は一度もなかった。
部屋を出ていく僧たちの流れに押されながら、澄史はぼんやり歩いていた。
「おい、大丈夫か?」
緑雨の声ではっとする。
「え?あ、ああ。ちょっとぼうっとしていた。」
緑雨が澄史の目をじっとのぞき込む。
「お前、顔色悪いぞ。あの香、結構きついにおいだったもんな、具合でも悪くなったんじゃないか?俺は今から
「あ、ああ、うん。ありがとう、
緑雨に背中を一押しされて、澄史は自分の部屋に向かって歩きはじめた。
しばらく歩いて、はっとした。ここは自分の部屋がある
(俺、どんだけぼんやり歩いてたんだ。またやってしまった…。
(王宮に泊まっているんんじゃないのか?…ああ、確か帝が王宮に桐和宗以外の信者を宿泊させるのを嫌がられて、こちらで宿泊させることになったんだっけ。でもこんな端に泊まってるのか?ってまあ、それもそうか…いくら
と、ふわりと風が吹いて、アニシチェの顔を覆っている布がはだけ、一瞬彼の顔がのぞいた。
(!)
澄史はそこに、見覚えのある顔を見た。艶やかなとび色の瞳と髪、長い睫毛、少しとがった顎。ただ、ちらりと見えた瞳には、見違えるほどの輝きと逞しさが宿っていた。どきん、と心臓が鳴る。
(まさか…)
その姿を追いかけそうになる自分をすんでの所で抑える。
(いやいやいや…そもそも俺、あいつの顔もうぼんやりとしか覚えてないし。十年も前だからたぶん俺の想像とかもまじってるだろうし。それにさっきの顔、どことなく
今思いついたことの馬鹿馬鹿しさに自分でも呆れかえって、ぼりぼりと頭を掻いた。
(さっさと部屋に戻ろう。)
鮮やかな紫色の後ろ姿が向こうの廊下の奥に吸い込まれていくのを目の端で見送りながら、澄史は部屋へと早足に向かっていった。
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