塀の彼岸

@ibukiasa

第1話 記憶

 丸い障子窓からあたたかい夕日がさしこんでいる。肘をついてもの思わしげに外を見やる少年僧の姿。あの、何か考えこんでいるようなとび色の瞳と、それを覆うようなふさふさした睫毛――夕日にあたると目に影ができるくらいの量だったな。さらりと柔らかそうな髪。少しとがった顎。ああ――思い出すといつも、くうっと心臓をつかまれたような感じがする――。




 しまった、と澄史とうしは軽く自分の額を小突いた。今日配られた新しい経を読んでいたら、ついうつらうつらしてしまっていたようだ。このところ読経の試験や山入り修行の準備で忙しすぎて、疲れでもたまっているのだろうか。もう十年も会っていない、それどころか最初からたいして親しくもなかった同期のことを思い出すなんて――

 空隆くうりゅうが寺を出ていったのは澄史とうしが八つのときだった。澄史は名家・天沢あまさわ家の次男で、五つのときに都一勢力のある桐和宗りゅうわしゅう忠清寺ちゅうしんじに入門した。ここ白川しらかわくにでは、帝が即位するときに二人の宰相を選ぶ。一人は宗教界から、もう一人は政界から、最も権威と実力のある者がその地位につく。前者は東宰相とうざいしょう、後者は西宰相さいざいしょうと呼ばれる。都の名家では、東宰相の地位を狙って家を継がない次男以下の兄弟たちを名のある寺へ入門させるのは王道であり、澄史もその一人だった。

 一方空隆は、赤子のときに布にくるまれて門の前に置き去りにされていたらしい。早朝に門の灯を消しにきた僧に見つけられ、そのままここで育てられた。彼はかなり無口だったが、学問においては圧倒的な才能をもっており、年の近い少年僧たちにとってただならぬ存在だった。どんなに長い経でも数回唱えただけですべて覚えてしまい、異国の言葉で書かれた難解な書物でも、驚くほど明瞭に講釈した。数多の年上の少年僧たちを軽々ととびこして儀式の模範演技をまかされ、その一つひとつの動きの優雅さは大僧正たちをも終始見とれさせた。

 これほど才に恵まれ、将来は東宰相になると早くから噂されていた彼が、ある日突然いなくなった。そして、澄史はその瞬間を目撃したのだ。


  *


 その夜、澄史は厠に行きたくなってふと目が覚めた。彼らのような幼い少年僧は十人ほどまとめられて一室で雑魚寝することになっている。澄史は部屋の一番奥で寝ているので、二、三の坊主頭をそうっとまたいで進まなければならなかった。用を足して厠の扉を閉めると、その日がとても美しい夜だったことにふと気がついた。煌々と輝く満月に、微かにただよう甘い梅の香り。吸いこまれそうな青黒い空

と、細くたなびく長い雲。

(きっと二階へ上がれば、小池おいけの水面に月がうつってきれいだろうな。)

澄史たち少年僧らが寝起きするこの建物の東側には、小池と呼ばれている池がある。その名の通り小さく深さもたいしたことはないが、すぐ近くの湧水を引いているから底まで澄んでいて、鯉や亀の住処になっている。「僧服をまとっているとき以外は仏のおわす階上へ上がらない」と常日頃から厳しく言いつけられていたが、澄史は梅の香りに酔わされたのか、月の光に当てられたのか、小池を見に寝巻きのまま二階へ行くことにした。

(誰もいない…よな?)

 澄史の年頃の子どもは、ほとんどが薄墨うすすみそうで、この棟で寝ているのも薄墨ノ僧だけだ。彼らは十二ある僧位のうち一番下位で、毎朝日の出前には起床し、読経や講釈の授業までに寺中の掃除や修行僧全員分の料理など、すべての雑事をこなす。一日の仕事と授業が終わるだけでへとへとになるので、就寝時間を過ぎても起きている者など誰もいない。したがって誰に見つかることもないはずなのだが、先輩僧たちに毎日言い聞かされている掟のひとつを破るのは何となく後ろめたかった。それでも、足音を忍ばせ階段をのぼりきり、東の縁側に出た。

(うわぁ…。)

そこから見えた景色は、ただただ美しく、澄史はしばらく呆けたようになっていた。波一つ立たない小池の水面には、やさしく光る白い月が浮かんでいる。池のふちの岩や、そのまわりの地面はしっとりと苔むし、まるで池の水が苔になって溢れ出ているようだ。右側には大きな太い松の木が生えていて、頑丈そうな幹がくねくねとうねって寺の内外を隔てる塀の上まで届いている。生温かい夏の空気が、しっとりと身体を包みこんでくる。風ひとつ、物音ひとつしない空間で、池と、月と、自分と――ひとつひとつの存在が己の境界をもってそこにあるのに、すべてがひとつにとけあっているような、不思議な感覚が澄史を包んだ。まるで、時が止まったようだった。

 と、カサカサッと近くで音がした。心身ともに完全に無防備な状態に陥っていた澄史は一瞬で現実に引き戻された。

(誰かいる?!)

心臓がバクバクと一気に高鳴りはじめる。薄墨ノ僧は最下位・最年少の僧である分、年長の僧たちの標的になりやすい。もしも先輩僧に寺訓をやぶったことを知られでもしたら、数珠をからませた拳で顎に一発くらうことになってもおかしくない。

(どうしよう…)

どこか隠れる場所を探そうとすばやく左右を見渡したとき、何かが動いたのが目に入った。驚いて目を凝らすと、それは、松の枝先から塀の上へ足を踏み出そうとしている少年の姿だった。

(?!)

澄史が驚きのあまりその姿を真っ直ぐに見つめたまま立ち尽くしていると、視線を感じたのか、彼がくるりとこちらを振り返った。

(こっ、こっち見たっ…!)

何か言おうと口を開けたが言葉が見つからず、半開きの口のまま目を見はって固まっていると、彼は澄史をまっすぐに見つめ、にやりと笑った。

(!!)

まだ反応できずにいる澄史を背に、その少年は松から塀へ乗り移ると、そこからひょいと軽く飛んだ。彼の姿が塀の下に消えた――

(あっ?!)

トスっという落ち葉と地面がすれあうようなくすんだ音が一瞬したかと思うと、それは枯葉を忍び足かき分け駆けていくような音に変わり、すぐに消えていった。

(えっ、えぇっ?!)

あれは、俺たちと同い年でただ一人、その実力ゆえにしゅそうまで一気に飛び級した空隆というやつだ。髪をあんな風に襟足までのばしているのはあいつしかいない。

 髪の長さは、桐和宗の中で優れた僧かそうでないかを見分ける最も分かりやすい目印のひとつだった。桐和宗の僧位は全部で十二あり、そのそれぞれに色が割り当てられている。ちょうど中間の位にあたるももそうよりひとつ上の、しゅそうからは頭髪の長さが自由なのだ。というのも桐和宗では、頭髪は異界の存在をよせつける力があるとされ、それらの中には、人を癒し助けてくれるものもあれば、人外の世界へ連れ去ってしまうものもいると言われている。すなわち頭髪は利益にもなれば災厄にもなるのだ。力の不安定なももそう以下の僧は、利益よりも災厄のほうが大きいとされ、髪はすべて剃り落とすことになっている。澄史と年の近い少年僧のほとんどは薄墨うすすみそうで、みな坊主頭だったから、とび色の髪を襟足まで伸ばした空隆は遠目からでもすぐに彼だとわかった。髪だけではない。心配になるほど細長い手足も、ものごとを奥底まで見据えるようなしんとした眼差しも、あの少年が間違いなく空隆であることを物語っていた。

(あいつ一体何してるんだ…?)

 忠清寺では、最高位のむらさきそうとそれに次ぐ薄紫うすむらさきそうしか門外に出ることが許されていない。それ以外の者がこの禁を破れば、想像を絶するほど厳しく罰せられると聞いていた。具体的にどう罰せられるのか、澄史は知らなかったが、三つ四つ年上でやんちゃ盛りの先輩僧たちでさえもこの話題には決して触れないようにしていることから、相当な重い罰なのだろうと思っていた。それなのにあいつはなんで…?見つかればしゅそうの位なんて剥奪されるに決まってる。こんなことをすれば、今まであいつが積み上げてきた寺での信頼と名声は根こそぎ失われるだろう。

(俺は、どうしたらいいんだ…?)

先輩僧の誰か頼りになりそうな人を起こしてこのことを伝えるか。薄墨うすすみそうの面倒を見ている薄墨うすすみ和尚おしょうを呼びに行くか。はたまたしゅそうの棟まで行ってしゅ和尚おしょうに報告するか。とにかく、誰でもいいから自分以外の誰かにこのことを伝えるべきなのだろう。頭ではわかっていたのに、どうしてもできなかった。いや――したくなかったのだ。

(あいつのあんな顔、はじめて見た。)

澄史の知っている空隆は、誰とも群れず、掃除や献花、舞など体をつかった修行以外の時間はいつも静かに書物を読んでいた。空隆のその姿と、そこから醸し出される空気はあまりに静謐で、波一つ立たない澄んだ湖面を見ているようだった。美しかったけれど、澄史は秘かに、彼のことを人命の宿らない精霊か何かのように思っていた。その様子には、この世のものとは思えない美しさとはかなさがあったのだ。

 しかしあの時、まさに寺の外へ出んとしている彼が澄史に向けた表情から、確かな人の子らしさを感じた。彼からそんな風な感じを覚えたのは初めてだった。まるで小さな子どもが逃げるバッタをやっと捉えたときのような興奮と、詰めていた息を一気に吐き出したような解放感が伝わってきたのだ。

(もし俺が今、あいつの掟破りを誰かに報告したら、どうなるだろう?――きっと、すぐに寺総出で捜索がはじまる。忠清寺はかなり急な山の頂上にあるし、何より子どもの足だ。そう遠くへは行けないはず。あいつはすぐに見つかってしまうだろうな。見つかってしまったら、寺に連れ戻されて、何かしら厳しい罰が与えられるに決まってる――いやそれでも、優秀なあいつのことだ…どんな罰でも飄々とこなして、またすぐに上位の僧になっていくかな。いくら重大な罪を犯したといっても、あれだけすごいんだ。寺としても忠清寺の名前を上げてくれるような人材を邪険には扱えないだろうし…。ってことは、本人への影響もさほどないだろうし、寺の規律を守るためにも、やはり誰かに報告すべきかな。)

澄史はふうっと息を吐きだした。

(でも…)

あのにやりと笑った顔、あの不敵な眼差し。

「ちくりたいなら、ちくれよ。俺は行く―――。」

そう、言われた気がした。澄史にはなんとなく、空隆のあの表情は『ここから出られる』という喜びに由来しているような気がした。

(もし俺がちくったら、あいつはまた…)

また、湖面のように静かな顔に戻って、生きているか死んでいるかも定かではないような人間に戻ってしまうのではないか。それは、空隆にやっと宿った魂を、握りつぶしてしまうことになるのではないか。澄史には、掟破りを報告しないことよりも、そちらの方がもっと罪深い気がした。考えあぐねて廊下を数往復したあと、結局、おとなしく寝床に戻ることにした。

(だってもしかしたら俺の見間違いかもしれないし…寝ぼけてたってこともあるかもしれない。明日の朝、経講釈の授業の時間になってもいなかったら誰かに話してみよう。)

心の底では見間違いでも、寝ぼけてもいなかったとはっきり分かっていた。それでも、どうしても、今見たことを誰かに話す気にはなれなかった。


 結局、次の日の朝、空隆と同じ部屋で寝ていた僧が、彼の布団がもぬけの殻であることを発見し、寺中が大騒ぎになった。寺総出で数週間捜索が続いたが、彼の消息は一切つかめなかった。何か知っている者を見つけるため寺の僧全員に事情聴取が行われたが、澄史は最後まで一言も話さなかった。本音を言えば、空隆が逃げ切ってくれればいいと秘かに祈っていたのだ。あいつの、生きているのに死んだような顔、もう見たくない。あの湖面のように静かな表情に、波紋でもさざ波でもなんでもいいから、とにかく波が生まれればいい。ちゃんと自分の生を生きていてほしい。空隆―――



 ごおぉん、という低い鐘の音で澄史ははっと我にかえった。

(何してんだよ、俺…。)

軽く自分の額をこづいて立ち上がる。明日の授業のために書庫から借りていた数冊の経を返さなければ。立ち上がった拍子に、首から下げた親指ほどの長さの薄紫に塗られた板が目に入った。

(俺ももう、講釈を受ける側じゃなくて、する側になったんだよな。)

 澄史は空隆が失踪してからの十年で、最高位の僧の一つ下に位置する薄紫ノ僧になっていた。十八でここまで登りつめるのは異例のことで、周りからは「第二の神童」とも呼ばれている。薄紫ノ僧になれば、門外へ自由に出ることができる。そうなれば、もしかしたら、空隆とまた会うことができるかもしれない――こんな望みなど愚の骨頂だと重々わかってはいたが、同時にこれは、澄史をこの僧位に就くまで突き動かし、心の奥に居座っていて決して去ろうとしない思いでもあった。

(そうはいっても、いざ薄紫ノ僧になってみれば、下位の僧たちに経講釈の授業をしたり、儀式や舞を教えたりしないといけないし。それに俺自身の研究も進めないといけないし。忙しすぎて自由に外出なんて夢のまた夢だよ、ほんとうに。)

 薄紫ノ僧は十二の位の中で最も忙しいと言われている。上位三位・四位のあおそう薄青うすあおそうの指導を受け持つだけでなく、その合間に自らの修行として、自分で選んだ聖典の研究も行う。また、最高位のむらさきそうに昇格するための試験勉強や、香や楽器をつかった複雑な儀式も新たに学ばなければならない。毎日やらなければならないことに追われるばかりで、自分でも愚かしいと分かっている願いにかまけている暇はなかった。



 書庫のほうへ向かって廊下を歩いていると、向かい側の棟から、同じ薄紫うすむらさきそうりょくが真っ青な顔をして小走りで出てくるのが見えた。

「緑雨!どうかしたのか?」

「澄史!大変なんだ…白銀しろがねの皇子おうじが危篤なんだ…!」

「なんだって…?!」

白銀しろがねの皇子おうじはこの白川しらかわくにの第一皇子だ。十日ほど前に突然倒れ、そのまま床から起き上がれなくなったとは聞いていた。皇族専属の医者でもある忠清寺の最高位・むらさきそうたちのほとんどが彼の治療に駆り出され、夜も寝ずに祈祷を続けている。あれほど実力も実績もある僧正たちが全身全霊で祈祷しているというのに、効果がないなんてあり得ない。

「き、危篤になられたってことは、さらに悪化したってことだよな?でも、なんで…」

「そんなの俺たち全員が知りたい。でも誰もわからないんだ。帝もご心配しておられるが、帝より母君の紅蕾こうらい様が気が気でなくて…こうなったら忠清寺の僧ではなく、近頃都で評判になっている、流れ者の異教の僧を呼ぼうとなさっているとか…」

「なんだって…?!そんなこと、帝がお許しになるわけがない!」

「それがそうでもないんだ。この流れ者の僧って奴は民の間で『救い人』と呼ばれているらしい。変わった異国の衣を身に纏って、なんだかよく分からない笛やら香やらをつかった儀式をするそうだ。」

「なんだそれ?ますます胡散臭いじゃないか。」

「いや、それが、その儀式のなかでそいつが鳴らす笛の音が、この世のものとは思えないほど素晴らしいんだと。その笛で、どんな病でも治してしまうっていう噂なんだ。なんでも、都の西に住む大商人の娘が原因不明で突然倒れて、どんな薬も祈祷も効かず諦めかけていたら、何のつてがあったかその僧がやってきて、娘をたった一回の儀式で治してしまったんだってさ。それから娘は何もなかったようにケロリとして毎日元気に過ごしているらしい。」

「それで紅蕾こうらい様は、商人と同じようにその僧を呼ぼうとなさっているわけだな。」

「そうだ。『救い人』が不治の病をあっさり治した話はそれだけではないし、都中がその僧の噂でもちきりらしいからな。紅蕾こうらい様は藁にも縋る思いなのだろう。」

「しかし…白銀皇子は次に帝になられる聖なるお方だ。どこぞの僧の手にかかって汚されるようなことがあったらどうするんだ。」

「だから俺たち忠清寺の僧が何とか皇子を治そうとしているんじゃないか。さあ、俺はこの知らせを藤月とうげつ様に伝えに行くところだから、すまないがもう行かせてくれ。」

ああ、と澄史が返事をする間もなく、緑雨は薄紫ノ僧が暮らす棟の奥へ急ぎ足で去っていった。藤月とうげつは、薄紫うすむらさきそうを束ねている和尚だ。聡明で穏やかな人だが、いくら藤月様といってもこの知らせにはそう穏やかでいられないかもしれない。

(『救い人』、か…)

今まで書物で読んだ聖人のほとんどがそう呼ばれてきたな、と思いながら、澄史は書庫のほうへと足を向けた。



 三日後、澄史が十数人の青ノ僧たちに西国の経典を講釈していると、襖の向こうから年若い青年僧の声が聞こえてきた。

「澄史殿、講義中大変申し訳ございません。藤月殿が藤菖とうしょうでお待ちでございます。」

なんだろう、と一瞬戸惑ったが、澄史は生徒たちに課題だけ出しすぐに藤菖とうしょうに向かった。部屋について見ると、澄史のほか、薄紫うすむらさきそうのほとんどが呼び出されており、皆何事かとささやき合っていた。部屋の右端にいた緑雨と目が合ったので、澄史は彼の隣に腰を下ろした。

「いったい何事だろうな。」

と澄史がささやくと、緑雨はにやりと笑っていった。

「俺は、この間の紅蕾様と流れ者の僧のことが関係しているんじゃないかと思うね。」

ああ、と澄史は納得した。確かに、薄紫うすむらさきそう全員を呼び出してまで騒ぎ立てるようなことといえば、白銀しろがねの皇子おうじの病のことくらいしかないだろう。

「でも俺たちにどうしろっていうんだ?薄紫うすむらさきそうむらさきそうに次ぐ位だとはいっても、皇族の病を診ることまでは許されていないんだぞ。」

「もうすぐ分かるさ。」

といって、緑雨は軽く顎をしゃくって部屋の奥をさした。見ると、部屋の奥の一段上がった部分、藤月和尚のみが座ることを許される座敷の御簾が上がりかけていた。

「皆の者、静粛に。」

よくとおる低い声が部屋を貫いた。一瞬で場が静まり返る。

「忙しい皆を急に呼び出してすまなかった。しかし、皆に早急に伝えねばならない重大な知らせと、仕事がある。」

藤月和尚はいつも、一言一言に重しをおくように、ゆっくりと話す。今日はその響きにただならぬ深刻さが感じられた。

「先日より病に伏しておられる白銀皇子のために、紅蕾様が、アニシチェという僧を招くことを決められた。帝もほかに手はないと、これを認められた。ただし――」

部屋中に起こったどよめきが収まるのを待とうと、和尚は言葉を切った。

「し、しかし和尚、そんないかがわしい…」

前列に座る僧が思わず口に出すと、

「わかっている雲月うんげつ。私は『ただし』といったはずだ。話はまだ終わっておらぬ。よいか、これが皆にとって受け入れがたい知らせであることは私も重々承知している。この話を聞いたときは私も耳を疑った。しかし、事の次第が決まった今、我々がすべきことはその状況の中で忠清寺の僧として力の限り務めを果たすことであろう。」

ぐうの音も出ない返答に、部屋のどよめきが引き波ようにさっと静まった。

「さて、先ほどの続きだが、帝はある条件つきで、今回のことをお認めになった。それが、我々忠清寺の紫ノ僧・薄紫ノ僧全員の監視下のもとでならば、アニシチェによる祈祷を認めるということだ。」

声にならない驚きの波が広がる。

「いくら都で『救い人』と呼ばれるほどの評判があるとはいえ、どこぞの流れ者にお世継ぎの命を託すのは帝もご不安なのだろう。もしもアニシチェが祈祷と称して皇子に害を加えるようなことがあれば、我々に止めに入ってほしいとのご意向だ。」

「し、しかし和尚、彼奴きゃつは異国の技をつかうと聞きました。我々は桐和宗りゅうわしゅうの教えは熟知していますが、そんな異国の教えなど…」

「よいか雲月。我々は忠清寺の中でも誠に優れた者しか上りつめることのできない薄紫ノ僧だ。たとえ教えの発祥が違うといっても、魔は魔。聖は聖。ものごとの本質はその形が何をとろうと変わることはない。お前たちは、その首から垂れている藤色の板を勝ち取った者たちなのだ。身も心も満身創痍になるほど厳しい修行を経てきたお前たちは、もう十分に魔を見抜き打ち破る力をもっている。よいな、アニシチェがどのような祈祷を行おうと、それに魔が潜んでいればお前たちは必ず見破ることができるのだ。これを天から与えられた未曾有の機会と思うて、存分に自らの力を発揮しなさい。」

和尚のいつになく強い言葉遣いに気おされ、部屋は水を打ったように静まり返った。

「事は一刻を争う。急だが、アニシチェは明日の日の出より皇子の御部屋で祈祷することになっている。して、お前たちは日の出前にこの藤菖とうしょうに集合し、ともに王宮へ向かう。必要な者は破邪の呪文を復習しておくように。要件は以上だ。それぞれ仕事に戻ってよい。」

 口々に意見を交わしながらぞろぞろと廊下へ出ていく僧たちに交じって、澄史と緑雨は外へ出た。

「なんだか、予想外の方向へ進んだな。」

「そうか?俺はなんだかんだで忠清寺もアニシチェさんとやらに何かしら関わるんじゃないかと思ってたが。それより破邪の呪文、俺復習しないとなぁ。」

緑雨は憂鬱そうに頭をかいた。

「嘘だろ?この前試験があったばかりじゃないか。」

「俺はお前みたいにこまめに予習なり復習なりするような人間じゃないの。必要なときにちゃちゃっとやるだけでいいの。」

「お前はほんっと、太平楽なくせに要領はいいんだからな。」

澄史は恨めしそうに緑雨をにらむ。

「お前は俺のこと見習って、ちょっとくらい肩の力抜いたほうがいいと思うけどな、『第二の神童』の澄史さん。みんながお前を完璧な存在として見るからって、お前自身がそれに合わせて完全無欠になる必要はないんだぜ。」

痛いところを突かれた気がした。誰よりも真面目に、誰よりも真剣に修行の一つひとつをこなして、たった十八でここまで上りつめた。その過程で周囲が澄史に向けるようになった尊敬や羨望、期待、嫉妬の目線が痛くて重くて、時々もういっそのこと粉々に砕け散ってしまいたいと思うことがある。

 一瞬澄史の顔が曇ったのに戸惑ったのか、緑雨は澄史の背中をかるく叩いていった。

「ほら、あの失踪した空隆なんかさ、いつも他人のことなんてどこ吹く風って態度だっただろ?俺が言ってるのはああいうののことだよ。空隆の次って意味で『第二』の神童なんだし、もういっそのこと態度まで似せちゃえばいいんじゃないか?」

他意のない緑雨の笑顔に、澄史も少し気分が明るくなった。不思議だ。競争と嫉妬が渦巻くこの僧界で、緑雨はただ一人、周りに脅威も敵意も感じさせない人物だった。

「俺はお前みたいな人間になれたらなと思うよ。」

「え?俺?なんで?あ、じゃあさ、そのための第一歩として、俺が破邪の呪文の復習してる間、澄史が代わりに俺の研究進めてくれない?」

「馬鹿いうなって」

澄史が緑雨を肘で小突くと、彼はけたけたと笑った。




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