07:同衾

「ベルにいちゃん!」


 豹柄の、猫の少女。

 目の前を元気に駆けていく。


(妹が、カモミールが居る筈がない。……これは夢だ。いつも見るあの夢だ。思い出したくない『あの時』をなぞる夢……)


 聞こえるか聞こえないかの、微かな高音と低音。

 ベルハイドがこの夢を見るときは、いつも頭の中にこの音が響く。


(またこの音だ。そうだ、『あの時』もこの音が聞こえていた)


 山中の小径、家路につく若い猫の兄妹。

 幼い頃に両親を亡くした兄妹は、互いが唯一の肉親である。


「ベルにいちゃん!こっちこっち!」


 新月の日、夕暮れ時。

 完全に夜となる前に、集落に戻らねばならない。


 夜目の利く毛民にとって、夜はそれほど怖い時間帯では無い。

 だが新月の夜は話が別だ。

 月明かりのない夜の闇は、毛民ですら見通すのが難しい。


 そしてここ数年、新月の夜に毛民が忽然と姿を消す事件が相次いでいる。

 それは『神隠し』と呼ばれ、恐れられていた。


(もうすぐ『あの時』がやってくる。……糞、夢だと分かっていても止められない)


 峠の曲がり角は手前側に大きな岩があり、死角がある。

 先に角を曲がった妹の姿が、岩に隠れて見えなくなった瞬間だった。


「きゃ」


 小さく短い悲鳴が聞こえた。

 ベルハイドは慌てて走り、大岩の曲がり角を抜ける。

 ……そこに妹は居なかった。


 辺りを見回しても、何処にも居ない。

 忽然と姿を消していた。


 そして、またあの音が響く。

 聞こえるか聞こえないかの、微かな高音と低音……。



「カモミール!」


 がばっと起き上がるベルハイド。

 汗びっしょりだ。


「大丈夫? うなされてた」


 シロップが声をかける。

 汗を拭いてくれていたようだ。



 巨神の谷の洞窟の中。

 焚き火が燃えている。


 まだ日の高い時間だ。

 夕暮れまで仮眠を取っていたのだ。


「ああ……悪い夢を見ていた……」


 そう言ってベルハイドは顔に両手を当てる。

 そのまま長いため息を付き――ふと、顔に手を当てる直前に視界を掠めた景色を思い出す。


(ん? シロップ今……)


 指の間から、ちらとシロップを見る。

 裸だ。


 一緒に毛布にくるまり、添い寝状態で汗を拭いてくれていたらしい。

 ベルハイドは顔から手を離さないまま、少なからず慌てた。


(ちょ、距離感おかしくね!?)


 毛民は身体が毛に覆われているので、裸への抵抗感はそれほどでもない。

 また寝るときは着ている物を全部脱ぐ風習があり、実際ベルハイドも裸で寝ていた。


 だからシロップが裸なのは、それほどおかしな事ではない。

 だが二人とも裸で、しかも添い寝となると、話が全く違ってくるではないか。


 毛布に閉じ込められていたシロップの甘い香りがベルハイドの鼻腔をくすぐる。

 ベルハイドは両手を顔に当てたまま、うねうねと身悶えた。


(シロップは依頼主、護衛対象。シロップは依頼主、護衛対象。)


 何かの呪文のように、自分に言い聞かせる。

 そこにシロップが心配そうに声を掛ける。


「カモミールって、妹さん?」

「ああ……んんっ!?」


 ベルハイドは顔から手を離し、ばっとシロップの方を向いた。

 何故それを知っているのか?


 するとシロップは眉間に皺を寄せてベルハイドの顔真似(?)をしながら言った。


「ひとつ聞く。お前ら、過去に若い猫の女を攫った事があるか?」


 あの大木の前の野営地で、狸達三人に詰問している時のベルハイドの真似らしい。

 ノリノリで続ける。


「四年程前だ。俺と同じような、こういう珍しい柄の猫だ」


 ベルハイドは頭を掻いた。

 狸達を問い詰めていたとき、シロップは離れた所で仲間の隊員の縄を解いていたはずだったのだが。


「ちっ……聞こえてたのかよ」


 するとシロップは長い耳を両手でつまみ、変顔をして言った。


「兎の聴力!」

「ぶっ!」


 美人のくせに、かなり攻めた変顔を披露され、ベルハイドは吹き出した。

 まったく、調子が狂う。


 ベルハイドは、他人に対して斜に構えて接する癖がある。

 物腰も、口調も。ようするに格好付けなのだ。


 そしてベルハイドは、そんな自分が嫌いでは無かった。

 なのにシロップは、その壁のようなものを突き崩してくる感がある。困ったものだ。

 だが不思議と、悪い気はしなかった。


 はー、と力が抜けたように息を吐き、ベルハイドは打ち明け始めた。


「新月の夜だった。妹と二人、山の中を歩いていた時だ」

「……新月。ひょっとして神隠し?」

「ああ。一瞬だった。ほんの少し目を離しただけだったのに……忽然と」


 また、厭な汗が噴き出してくる。


「あのときの俺はただ狼狽えて、妹の名を呼ぶしか出来なかったんだ」


 先程まで夢に見ていたせいで、その時の感情が克明に蘇る。

 

「何が起きたか分かればまだ、感情の矛先も向けられる。だが、何が起きたのかが分からない」


 呼吸が荒くなり、ベルハイドは胸元の毛をぐっと掴んだ。

 シロップはまた、汗を拭ってくれる。


「無理に話さなくても良いのよ」

「すまない。大丈夫だ。それから俺はめちゃくちゃに自分を鍛えた」

「感情の矛先として、自分を追い込んだ?」


 ふー、と息を吐き、頷く。


「それもある。それと、あのとき自分がもっと目端が利き、僅かな手がかりから何が起きたか探れる力があれば……という思いもあった」

「それで追跡術ね」

「ああ。剣の師匠に弟子入り、魔法の師匠に弟子入り、狩りの師匠にも弟子入り。探索術と追跡術、魔法、剣術。修行に明け暮れた」


 寝床の脇に畳んだマント、そろえて置いた防具と二本の剣に目をやり、修行の日々を思い出す。

 少し落ち着いてきたようだ。


「修行しながら方々の山に、妹を探しに出かけた。近隣の山窩の集落に訪ね、手がかりがないか聞いて回る日々だ。荒っぽいこともしてきた」

「神隠しって、やっぱり山窩の仕業なのかしら」


 ベルハイドは首を振った。


「結局、何もわからないのさ。今でも探し続けている。今でも夢に見るんだ。妹が見つからない限り、俺はあのときの夢を見続けるんだろう。もし見つからないのだとしたら、永遠に」


 永遠の悪夢。

 それを聞いたシロップは、ため息を付きながら言った。


「魔法でも、悪夢を消す事は出来ないものね……」


 そんな魔法があれば良いな――と言いかけた時、シロップと視線が合った。

 じっとベルハイドを見つめている。

 長い睫毛。丸くて黒い瞳。


 二人はしばらく見つめ合っていたが、シロップがふとベルハイドの左の肩口に視線を移した。

 

「あら、またここ怪我してるんじゃない?」


 自分からは見えにくい、左肩の背中側のあたりを指差される。


「ん? そうか? そんなはずは無い。痛くもないし、何処だよ」

「こーら、動かないで」


 シロップはベルハイドに近づきながら舌を伸ばす。

 そして肩口から首筋、耳の下あたりまで、ゆっくりと舐め上げた。

 ベルハイドは体中がぞわぞわ~っとして、毛が逆立つ。


「にゃほおおおおーっ!」


 とびっきり情けない声が出た。

 若い男なんてものは、魅力的な女に首筋を舐め上げられたら、こんな声を出す物だ。


 やはり痛い部分など無かったし、だいたい聖句を唱えてもいない。魔那に呼びかけてもいない。

 単に、ゆっくり舐め上げられたのだ。気持ち良いに決まっている。


「おっ、おっ、おまえっ……!」


 ベルハイドは大きな声を上げたが、こういうとき毛民は都合が良い。

 毛のおかげで顔が真っ赤なことは悟られない。


 シロップはまた、真っ直ぐベルハイドの目を見ている。


(……!)


 察したベルハイドは肩口で、とん、とシロップを軽く押した。


「わっ」


 申し訳程度に声を出し、シロップは何の抵抗もなく仰向けに倒れた。

 まるで押されるのを待っていたかのようだ。

 ベルハイドは仰向けになったシロップに覆い被さり、真上から顔をのぞき込む。


「おまえなあ」


 するとシロップは悪戯っぽい表情で言った。


「あれあれ~? ベルハイドさ~ん? 他種族の女を押し倒しちゃうんですかぁ~?」


 愉しそうだ。


「流石、肉食男子ねぇ」

「いや、こうなるように仕向けたの、おまえじゃないの……」


 なんだか上手く流れに持ち込まれた感じだ。


「私、草食だから、わかんな~い」

「やっかましいわ、こんニャろ」


 黙らせるように、ぐっと胸板で体重をかける。


「ぐえー、重い、重い」


 シロップは笑いながら脚をパタパタ動かした。


 体を押しつけ合うのは気持ちが良いものだ。

 特に、好ましい相手の場合は。


 程なくベルハイドは体重をかけない姿勢にもどろうとしたが、シロップの腕が首の後ろに回された。

 離れないで良い、と言うことらしい。


 ああ、事ここに至り、ベルハイドはようやく自分が間違っていたことに気が付いた。


 シロップはとっくに態度で示してくれていたのだ。

 なのに、やれ依頼主だ、護衛対象だと、目を向けようとしていなかった。

 とんだ朴念仁ぼくねんじんだ。


 改めてベルハイドは、きちんとシロップを『押し倒す』ことにした。

 そして二人は日が傾くまで時間を掛け、お互いの全てをさらけだした。


 絞り切ったベルハイドはシロップの胸に倒れ込み、そのまま眠りにつく。

 全てを受け止めたシロップもまた、ベルハイドを胸に抱いて眠るのだった。


 ベルハイドにとっては、妹が行方不明になって以来初めての、深い眠り。

 夢など見ないほどの、泥のような熟睡だった。



◇◇◇



 夜になってからベルハイドは目を覚ました。

 その気配でシロップも目を開ける。


 起きた二人はしばらく見つめ合っていた。

 ……が、猛烈に気恥ずかしくなる。


 毛民社会では他種族との恋愛や婚姻も認められていたが、かといって一般的でもない。

 お互い感情が高ぶった結果、勢いに乗って一線を越えてしまった。


「えーと、その……」

「ん、ああ」


 この空気!

 何か気の利いたことを言わねばならない。

 こういう時は、何と言うのが良いのだろう?


(あー、例えば『最高だったぜ……』とか、そういうやつか?)


 ベルハイド身悶えながら頭をガシガシ掻いた。


(いやいやいや、言えるかッ! そんな台詞ッッッ!!)


 実際最高だったのだが、そんな台詞を言える感性は存在していない。

 他に何かないか。ベルハイドは必死に考えた。


 女には、男とこうなるには理由が必要なのはわかる。

 『したかったから勢いでしちゃいました』とは中々言えない物なのだ。


 確かに勢いがあったのは事実だ。

 だがベルハイドはシロップに全てを受け止めてもらえて、かなり救われたのだ。

 いや、そうか、その礼を言うべきか。


「その、あー……よく眠れたわ、おかげでな。悪夢も見ないほど、ぐっすりとな」


 そう言われたシロップはじっとベルハイドを見つめる。

 すると、ぷーっと不満げに頬を膨らませて、軽くボスっとベルハイドをった。


「痛って!」

「それはよーございましたね!」


 ぷいっと横を向いてしまった。どうやら台詞の選択を誤ったらしい。

 何と言うのが正解だったのだろう?

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