はん:透明
湯藤あゆ
はん:透明
ネットの情報の中を泳いでいると、私はよく実態のないお化けのような意識を見かける。
目に見えないようで、その存在を誰でも掌握することができる。でも、その実情はわからない。彼らは「存在するだけの存在」であるかもしれないからだ。
SNS上のそうした「半透明な」存在は元々人間が知るはずのない一種の現象だ。しかし、不確定性でいっぱいなその存在を、私は知ってしまったのだ。
当時の私は、荒れていた。というか正直、家庭が終わっていたのだと思う。
「朱音、靴舐めて」
「ぇ……」
「良いから舐めろ。ヨソモンの癖に」
「ぇ、ぁ、はい」
「……本当に舐めるやつがあるか、汚ねえ!!死ね!!!」
「ッぎゃぅ……!!」
高校ではいわゆるイジメに遭った。イジメグループの中心は校内でも顔の知れた女子。一人を一方的に甚振ることで、共同の敵を作り上げる優越に浸っていたのだと思う。やり口も陰湿、言葉は棘を孕み、暴力に容赦はない。先生の前ではえらく友好的で、何を言っても信じてくれないことは明白だった。私の家庭は転勤族だったから、高校へは2年で転校してきた。彼女らにとって私は「ヨソモン」なのだ。父親は家を出て行った。海外出張となった時に母が実家に近い土地の雰囲気や地域性を気に入ってしまい、そこでいざこざに発展した。そこから、ゴルフに金をかけすぎるだの、私の面倒を見ないだの、関係ない話にまで討論は飛び火し、お互いがお互いを、私を、傷つけ続けた。父は消え、母は大きく変わってしまった。
そして私は1ミリも部屋から出ないと決めた。ネットに没頭していた。大してフォロワーがいっぱいいるわけでもないSNSを起動して、手当たり次第に投稿しては本音をばら撒いていた。勿論、そんなことをしても誰からも返答もない。相槌さえも。一切のレスポンスが、ない。
残酷なシステムだと思った。
私がどれだけここにいるよってシグナルを送っても、自分の輪郭は曖昧だ。自分の存在は結局他人の存在によって成立するのだから。
でも、とにかく迸る心だけは悲しいかな止めようがなかったから、うだうだ垂れ流していた。
そんな時期に、一件のメッセージが届く。
「フォローありがとうございます。ゆうです、よろしくお願いします」
赤い①が知らせるありがちなメッセージに、「またこういうタイプか……」と辟易しながらも、当時の私は人とのつながりに飢えていた。誰も受け取ってくれなかった浮遊した私のコトバを、受け取ってくれた人がいるってことだから。
「私の話を、聞いてほしい」
本当にわがままながら、私はメッセージ上で自分の本音をぶつけた。父親は出て行き、母は毎日バイトと酒煙草、学校には化け物しかいないこと。親を恨んではいない、ただ、人間の限界に居るだけ。学校の奴らは大嫌いだったし、死ねば良いと本気で思っているけど。彼は黙って、でも既読だけはつけ続けてくれていた。メッセージ傍に表示される漢字二文字だけが心強かった。
最後まで話し終えると、彼は一言、
「また、ここで僕が話聞くからね」
私は泣いた。親でさえいっぱいいっぱいでかけてもらえなかった言葉だった。
その日から私は彼と話し続けた。
気がつくと私の中には、二人で築き上げた人生哲学が残っていた。
傷を舐め合ったって、二人きりだって、存在することが罪だなんてことはないんだろう、って。
そして、私は彼を次第に拠り所としていった。
「いっつもすぐ既読つくよね、なんで?」
ある時、気になって何気なく訊いてみた。彼はいつもすぐに既読をつける。そして30秒以内には返信がくる。私と違って、全然投稿はしないけど。
「んー、暇なんだ」
「え?仕事とかしないの」
少し間が空く。
「うん、何もやることないし」
「そっか」
彼のことは詳しく知らない。年齢もよく分からないし、好きな色や、生い立ちもよくわからない。顔写真も見たことがない。名前しかわからない相手。だけど、こんな風に気軽に話せる存在は初めてで、この空間は心地よかった。
そこまで考えてふと違和感を感じた。私は、あまりにも彼のことを何も知らない。「彼」と呼んではいるが、性別さえ定かではない。住んでいる所も知らない。
「そういえば、私ゆうについて何にも知らないんだけど、いくつ?」
すぐに返信がくる。
「同い年だよ」
「そうなんだ、話合うと思ったよ。どこ住んでるの?」
「東京だよ」
「じゃあ、今から会える?」
返信が止まる。
実は、3ヶ月ぶりに部屋の外に出ようと思い始めていた。ゆうのお陰で心に余裕ができてきたし、母親はほぼ毎日バイトに行っていて家を空けているから、いつでも会いに行けた。
何より、ゆうに会いたい。会って、お礼が言いたい。彼がいなければ、私は今頃人間でなくなっていた。
「無理かな」
「なんで?」
予想外の返答に、考えるより早く返信してしまう。
「親が厳しくて」
「抜け出しちゃえよ」
「忙しいんだ」
「やることないんでしょ?」
「ごめん、無理だ」
怒りにも似た感情が顕れる。何故、会えないのか?釈然としない理屈が繰り返される。まるで私を拒絶しているみたいな、……あの最悪の日々を思い出すような。
「どうして?ちゃんとした理由を教えてよ」
目の前がぼやけてくる。向こうも、何かあったのか。それを斟酌できる余裕もないのだけれど。
3分。ゆうから返信がくるまでに、それほど時間がかかったことはなかった。
「それなら、会おう」
何か決意が滲んで見えた。彼の心の何か重要な部分をいじってしまった気がする。
「僕を疑わない?」
「勿論」
正直、変な質問というか、おかしな確認をされたと思った。だけど、会いたい。この部屋を抜け出しても。
あの想いは相当強かった気がする。
「それじゃあ、まずは裸になって」
目を疑った。早速、ゆうを疑ってしまう。
「なんで???どういうこと???」
「お願い、会うならこれしかない」
ストリーキングでもさせる気か。
「わかった」
恐る恐る服を脱ぐ。
「全部脱がなきゃダメ?」
「うん。コンタクトやメガネ、アクセサリーをつけていたらそれも外して」
何なんだろう。疑いはますます深くなる。
「このまま外に出ろとか言わない?」
「絶対言わない」
訳が分からない。初めてゆうが少し怖かった。
「そのまま鏡の前に行って。ハンドミラーでも姿見でもいいから」
鏡には、何のしがらみもない、私の身体が映っていた。
「リンクを送るから、それをタップして鏡に向けて」
……呪い?魔術?
ゆうへの恐怖は増していった。どうして?目的を一切教えてくれないのが凄く不気味だった。一連の行動といい、何も分からない。
リンクをタップすると、黒い背景に白い四角形が表示された。画面を鏡に向ける。
意識は、鏡に向かって前傾姿勢をとり、そのまま何かから自分自身が吐き出されたような、不気味な痺れを帯びて鏡に突き刺さった。自分の姿が一瞬目に入る。
何も、感じなくなった。
***
目が覚めると、目の前に誰かの顔が見える。
「おはよう、朱音」
おんなのこ……?
「まだぼーっとする?」
「ぁ、……なに、……?」
「ここが、僕のいる世界だよ」
周囲を見渡す。高校の教室の倍くらいの広さの、何もない空間。壁のところどころに亀裂が入っていた。
私は察した。目の前にいる女の子がゆうだということに。端正な顔立ち。透き通る肌は同性である私も思わず胸がギュッとなる。
ボクっ娘だったのか……。
そんなくだらないことしか考えられなかったが、徐々に疑問が湧き起こってくる。
ここはどこなのか。世界とはなんなのか。なんであんなことさせたのか。私は今どうなっているのか。
「まず、ここがどんな所なのか説明するね。ここは、SNSのバグによって発生した歪みだ」
理解ができなかった。
「そして僕は、アカウントそのものだ。アカウントにはすべからくそれを動かしている人間がいる、そう思うだろう。ところがそうではない。僕は、アカウントを作った人間もいないのに、システム上に存在してしまったアカウントだ。それゆえに、アカウントそのものに自我ができてしまった。ネットが持つ匿名性ゆえに、そのアカウントの向こうに人間がいないだなんて、誰も思わないんだろうけどね」
私は知った。ゆうは人間ではなく、プログラムに過ぎないことに。そしてそれは例外的発生であることに。
ゆうはゆうだ。そして、人間としてのカタチはないのかもしれないけど、この空間にたしかに「いる」。相手が人間でなかったこと、今自分の身に起きているあまりに唐突すぎる出来事。だが、こうして目の前に存在している。
私はゆうに、とても複雑で形容し難い匂いを感じた。
ただ、確かなのは、ゆうのことが好きなのは変わらないということだ。
「実は、朱音をここに連れてくるか悩んでたのには理由があるんだ。単純に、存在そのものに現実味がないってこと以外にね」
「何?」
「アップデート、というものがあるだろう?新機能を追加したり、メンテナンスをして……見つかった不具合を修正したりする、アレ」
不具合。ドキッとなる。
「僕も、不具合なんだよ」
私は、自分の居場所なんか現実にはどこにもない、そう思っていた。だからネットに衝動をぶつけることに没頭していた。
彼、いや彼女は、同じだったのだ。彼にも居場所なんてなかった。この狭い部屋の中で、自分がどれだけ外に出たくても叶わず、しかも、私と話していても、自分からは何も吐き出さずに。
「……傷を舐め合ったって、存在は罪じゃない。……今まで僕は朱音の傷を共に見つめてきた。呼んだのは僕だけど、来てしまったからには。今だけは、……僕の傷を舐めて。僕の本当の名前はUnknown-Error105。頭文字をとって、『
何でか知らないけど、少しだけ泣いてしまった。
「他にも聞きたいことがあるんだけど」
「まあ、あるだろうね、服のこととか」
そうだ。正直肝心なところ締まらなかったのは、ずっと全裸で話していたからだ。
「君は今肉体を抜けて意識だけをあのリンクに転送してある。だけど鏡の前に抜け殻が転がっている状況はまずいから、肉体を一緒にこっちの世界に置いておいたんだ。その時に洋服を着たままだと物質そのものの収斂が生じて洋服の変形が起こってしまうんだ。光速移動を伴うから衣擦れで怪我しちゃうかもしれないし。まあまだ誰もここに来た人間はいないから怪我するって話は仮定だけど」
私もシステムにはあまり詳しくないが、洋服が変形しちゃうし怪我するかもしれないかららしい。
「私帰れるよね?」
「うん、ここの壁が少し柔らかくなってるところに勢いよく突っ込むと、肉体と共に帰れるよ」
なかなか上手くできたバグだな、と緩む気持ちは、次の一言で一気に張り詰めた。
「……急にこんなことを言ったら良くないのかもしれないけど、君がここに出入りしたことで、僕のいる位置を奴らに知られてしまう可能性は大いにある」
「え……」
そんなリスクを冒してまで、どうして私を呼んだのか?
「そして、アップデートが行われれば僕もいないものになってしまう。僕は存在してはいけない、フラフラした存在だからね」
Uが消される?それは耐え難いことだった。私にとってUは今、親よりも、誰よりも、信頼している存在だったから。
「さっきのみたいなので逃げられないの?」
「移動は可能だ。でも、僕がここから立ち去れば、この部屋も消える。僕も、この世界も、もともとはシステム上には存在しないものだから。ただ、動くことも出来る。動いたところで後戻りはできないから、今のところまだ僕はここから動けないけど」
「……じゃあ、こっちの世界に来ることはできないの?」
「ほぼ無理と言っていい。君には外に肉体がある。僕には入るべき肉体がないんだ」
肉体。彼女と私との明確な違いが急に重たく感ぜられる。
「……何で、そんなリスクを冒してまで、私を呼んだの?」
「僕は、最後に一回でも、朱音に会いたかったから。最近は奴らもこういうアカウントの幽霊を潰しにかかってるからね、どっちみち長くないんだよ。でも、こうして会って、話すことができた。勿論、ここの存在を隠し抜くつもりだった。でも、君の『会いたい』って言葉が僕の本当の気持ちを思い出させてくれた。ありがとう、朱音。もし明日僕が消されてしまったとしても、僕に悔いはない」
頭が痛くなってくる。ちょっとの怒りも感じる。Uが身勝手に消えてしまえば私に悔いが残る。絶対に別れたくない。Uが、ゆうが、私には必要なのだ。
私は決意した。
外に出る。そしてUを、外に出す。
「……身体、私用意するから。明日の朝までに、こっちの世界に来る準備しておいて」
***
「ヨソモンの癖に呼び出しやがって、何なんだよ……顔出した瞬間にぶん殴ってやる、クソアマが……」
私はロープを垂らし、そのままひっかけて木の幹から飛び降りた。私と奴の足が逆方向に移動し、宙に浮く。
「ぁ、が!?……が、ぁ……ヴグぁ……!!……コラ、……ぉま、ぇ……げボ、ッぶ、っころ、……じゅ、ひっ、ぐ……!!ぅゔ」
赤黒い泡が口から溢れ出すのを見て、私は静かに肉体を父のキャディーバッグに詰めた。
なんだか、心がスッとして、笑顔が溢れてきた。久しぶりの日光、冷たい風。
鏡の前で手に入れた着ぐるみを広げる。丸裸にしてみるとところどころ、水に藍色の絵の具を広げたような痕があった。
「誰か、殺した?」
Uからのメッセージ。
「仕方ないんだよ。肉体が必要なの」
返信する。汗はだらだらと吹き出してくる。
「Uはこいつの身体に入って。……二人で逃げよう、それぞれをきつく締め付ける『世界』から」
「……そうだよね、仕方ないよね」
後ろから声がする。忌まわしい音声。だけど、私にはわかる。中に籠った、人間よりももっと人間らしい暖かみが、それを語っている。
「ゆう……」
ゆうの首元に提げられていたネックレスが消えてゆく。生命の供給によってより強い再生が行われたようだ。
こいつの肉体は、Uにとってのアカウントでしかない。中身が入れ替わっていても、誰にも分からない。人間の身体だって充分すぎるくらいの匿名性を持っているんだと、少し皮肉な事実に笑ってしまう。
「いこっか、二人だけで」
「うん」
南中へ歩みを進める太陽は光を投げつけてくる。その光を背にして、私とゆうは歩き出した。
はん:透明 湯藤あゆ @ayu_yufuji
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