第16話

 何が気に障ったか知らないが、隠したのはなんとなくで、見せて困ることなぞ何もない。志乃は泥だらけの手を差し出して、その手を検分しようと伸びてきた手にぎょっとする。左の小指が一本欠けている。女伊達だてらに博奕ばくちを打つのか、もしや足抜けの花魁おいらんだったり。何かいわくがあるお人には違いがなくて、しかし、女にはそれを気にする様子はない。

「あたしには分かってんのさ。あんたの手はここんとこ毎日泥でべったりだったろう」

 ほら、爪の間も泥まみれ、と志乃の爪をかりかりと搔く。

「それがどうかいたしましたか」

 聞くと、女はふん、と鼻を鳴らす。

「あたしの宿は森田座の『なつまつり浪花なにわかがみ』に出ているのさ」

 志乃は顔を跳ね上げ、目の前のいわく女をじっと見る。

 今この人は、森田座と言っただろうか。それじゃあ、その下にくっついていた夏祭から始まるお題目は芝居のだいで、いや、でも、燕弥の話から拾い上げた演目の名は違っていたはずだ。ならば、この女は噓をついているとそういうわけか。

 だめだめ、その見立ては外れ。前に言ったはずだぜ、しんぞうさん。

 頭のうちに響いた声に、志乃はきしりと奥歯をむ。

 ひとたて目は時代物、ふたたて目は世話物。その間々に大部屋、見習い役者たちの幕が入る。日の出前の明け六つから、日が落ちる暮れ七つ半までぶっ通しでるんでさあ。

 そうか、だから一つの興行に二つの名題があってもおかしくはないのね。

 得心しかけた己に、ああ、と志乃はため息をつく。

 ついでに江戸には三つほど座というものがございまして、と奥役、善吉は森田座の遣いで家にくるたび、何かにつけて志乃に芝居の話をしたがった。なかむら座、いちむら座、森田座のこの三つしかお上の認可を受けておりません。この三つをほんやぐら、その控えにかりやぐらがございまして、本櫓の興行が立ちゆかない、差し止めとなった際にはこの仮櫓が代わって興行を行なってですね、なんて話が深くなってきたぐらいで、志乃は己の両耳にぐっと小指を差し込むことにしている。志乃は武家の女でなければならないのだ。芝居の話なんか頭に詰めて、武家のもとが薄まってはどうしてくれる。

 だから、このいわく女が密通も含めて芝居の話をしようとしているなら、早々に誤解を解いてお帰り願うべきだろう。役者の女房なんぞとお付き合いを深めるなんて、とんでもない。

 志乃は一呼吸置いてから、女に「それで」と静かに話しかける。

「夏祭とやらがどうかいたしましたか」

「それが浮気の証左だって言ってるのよ」

 首を傾げると、女はいきり立つ。

どろよ、泥場!」

「どろば」と聞き返しておいて、ああ、嫌な予感がする。耳をふさごうと思っても、その手をぎゅうと握りしめられては、どうにもできない。

「本当の泥を使っての場面に決まっているでしょう。ほんどろよ、本泥」

「ほんどろ」なんてつぶやきたくもないのに、繰り返してしまうのはどうしてか。

「あのほうすけめ、舞台の本泥のついた手であんたに触れるから、あんたの手もそうやって泥がついてるってえわけだろう!」

 なにからなにまで無茶苦茶だ。

「違います。この泥は先ほど大川にいた時の泥で」

「まだしらばっくれるとは、性根がずんと図太いね。そんなら、いいわ、夜な夜な手を擦りあったお相手とご対面といこうじゃないか」

 女は己のそでまくり上げると、そのまま志乃の手首を取った。

「ご対面って、あの、どこへ」

「芝居小屋ァ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る