第12話

 ココン、と一際大きく空桶を打ちつけると、善吉は照れたように空咳をした。

「父様ゆるして下さりませと、わっと叫ぶところ含めてこの燕弥さんが大層お美しいってんで、こわいろれんはこぞって真似をしておりやすよ」

 善吉の声はどこか遠くの方で鳴っていた。志乃の頭の中では三浦之助と時姫の刀を握りしめてのやり取りが繰り返されている。ぎゅうと志乃は眉間に皺を寄せて、麦湯を飲んで一息ついている善吉をにらみつけた。そんなに語りがお上手なんて聞いていない。頭の中にへばりついたこのお姫様をどうしてくれる。

「まあ、この後は藤三郎が実は味方であることが明かされたり、長門が時姫の持つやりを己の胸にぐいと突き立てたりと色々とあるんですけれど、おいらはここがいっち好きでして」

 茶碗に麦湯のおかわりを注ぐふりで志乃が板間から離れても、善吉の声は志乃の背中を追っかけてくる。

「そして、此度の燕弥さんの大当たりは、時姫のそのけなさ」

「健気さ?」

 振り向こうとして、表戸を叩く音に動きを止める。昼餉時にお民を呼んでいたのを思い出し、志乃はわざと大きな声でいらえを返した。よかった、お民のおとないで善吉の芝居語りは一旦幕引きと思ったところで、

「時姫もそうなんですよ」

 志乃は善吉を見た。善吉はにこにこと志乃を見返している。

「時姫も近所の百姓の女房に飯の炊き方や味噌汁の作り方を教わっているんです」

 三浦之助が戦場から戻ってくる前、絹川村で長門を看病しているときの場面だと言う。

「時政から時姫を連れ戻すよう申し付かった御殿女中が侍を引き連れやってくるんですが、肝心の時姫がどこにもいない。すると、道の向こうから、時姫様が豆腐を盆にのせ、酒を入れた徳利を手に提げながらやってくる」

 善吉は懐から一枚の浮世絵を出し、志乃に向かってぺろりと広げた。

 赤振袖の美しい女子が侍を引き連れ田舎道を歩く。その両手で支えている丸盆の上、笊をかぶせられた豆腐が編み目の間から覗いている。

「豆腐が崩れちまうってんで笊を被せてるんですよ。そんなことで豆腐が崩れるわけがねえのに」

 崩れるわけがないではないですか。たしかに燕弥もそう言った。豆腐を盆にのせ、徳利を手に提げ帰ってきた志乃に向かって。戸口の前に立ち、志乃の体に目で針を刺し込みながら。

「でも、そういうところがいいんです。そういうところが世間を知らねえお姫様、健気な女房振りですずめたちの心をきゅっと摑んだ」

 私だと志乃は思った。あの日の志乃がこの浮世絵の中にいる。

「絹川村での魚の振り売りとのやり取りも、これまでのかまさんにはなかったものでしてね。燕弥さんの思い付きに森田座付きの狂言作者が、おう、そりゃいいねと正本に取り入れたそうで」

 御新造さん、魚はどうだい。あら、夕餉にはなにがよろしいんでしょう。コノシロ、フグにマグロってとこですかい。

「すると、時姫がその振り売りをきっと睨みつけ、無礼者! と叫ぶところがしびれるんでさ」

 善吉は胡座をかいた膝小僧にぴしりと手のひらを打ち付けて、

「どういうことか分かりやすか」と志乃を見る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る