第13話

 いつの間にやら表戸を叩く音は消えていた。

「……コノシロもフグもマグロも全部、武士には法度の食べ物です」

 コノシロはこの城を食うに通ず。戦場にて死すべき武士がフグの毒にあたって死ぬのはもってのほかで、マグロの又の名、シビは死日に聞こえるとの理由から。

「さすがですよう」と善吉はまたぴしりぴしりと膝を叩く。

「この場面は城にお勤めの御殿女中たちのお気に入りなんですぜ。その人気で割りを食ってるのが振り売りだ。なんでも町の女子たちがこぞってこのやり取りをしたがるとかで、日に何十回も、ねえおじさん、あたしに魚を勧めてよ。そんなら、この魚なんてどうですかい。無礼者! ってなもんで、なじられるんだとか」

 志乃は無礼者とは言わなかった。戸口の前でコノシロを勧めてきた振り売りに、思いっきり眉根を寄せて、お帰りくださいましとそうけただけだ。あのとき、たまたま家に居た燕弥は、どうしたんだい、と鼻息を荒くして志乃に詰め寄った。問われると、魚一匹に口を荒らげたことがどうにも恥ずかしく思えてくる。言葉を濁す志乃に燕弥は舌打ち、思い切り畳表を叩いた。志乃は口ごもりつつもコノシロをいとう理由を説明し、聞いた燕弥はにこにことしていたが、赤くれた燕弥の手のひらは、今でも志乃の頭をふっとよぎる時がある。

「旦那方がいっちお好きなのは、百姓女房のほどきによる時姫様の米研ぎに味噌すりに違いねえ。姫様の世話女房振りが健気でいいってやからもおりやすが、男は品くだるいきものですからね。そんなすりこ木の持ちようで、よく殿御が抱けるもんだ、なんて時姫が詰られるのを、やんややんやとはやし立てる。ああ、駄目だよ、御新造さん、引いちゃあいけねえや。こいつは男の性ってもんなんだから」

 志乃は確かに血の気が引いている。

 ほうだ、阿呆じゃないか。通いの女中を志乃につけた理由を、燕弥の優しさだなんて、そんな己に都合のいい解釈をして。

 燕弥は、此度の芝居のために、志乃を時姫に仕立て上げた。そうして、時姫もどきと相成った志乃から、仕草や口癖を吸い上げたのだ。

 ああ、そうか。あの人は、己の芸のために私と一緒になったのか。

 私が武家の娘であるから。

 私は武家の娘であるから、あの人に買われたのだ。

 燕弥に持たされていた駄賃を善吉に渡し、ぼんやりと飯を炊き、気づいたら目の前で燕弥が夕餉を食っていた。志乃にはどうにも拵えた覚えがないが、今宵の菜はあんかけ豆腐だ。豆腐を細かく箸で割り、皿の底にまったくずあんに軽く擦り付ける。燕弥は口を椀に寄せ、とぅるりと口に流し込む。

「武家の娘であるから、あなたは私をめとったのですか」

 言葉はとぅるりと志乃の口から出ていた。志乃は震える手で己の口を押さえたが、もう遅い。燕弥は口の端から一寸ばかり葛をこぼしたが、取り出した懐紙で拭うと、膳の上に箸を置いた。

「姫と名のつく役は芝居に数々ございます」

 さくら姫、さぎ姫にくも姫。燕弥の舌は葛が塗られて、なめらかに動く。

「姫様役は色の振袖を着ることが多いのもありまして、まとめてあか姫とも呼ばれておりますが、中でも、時姫、ゆき姫、がき姫。この三人はちいと特別。このお三方は三姫と呼ばれ、女形でも殊更難しい役とされている。座の中でも実力があって貫禄ひれもある格の高い女形しか演らせてはもらえません」

 遠くで木戸番が鳴らす送り拍子木の音が聞こえている。日はすでに落ちた。行灯の光が燕弥の顔を撫で上げて、志乃は初めて燕弥の頰に小さな黒子ほくろがあることに気がついた。

「その時姫がいる鎌三、鎌倉三代記を次の芝居でやるらしいとの噂を聞いたとき、わたしは頭の中で、お稲荷いなりさんの神棚に貯めた小金を数えていた。いくら渡しゃあいい役がもらえるかしらん、ってね。狂言作者には常から愛嬌振りまいて尻尾を振ってやってんだ。小金を袂に落としてやれば、百姓の女房役くらいにはじ込んでもらえるはずだ」

 それだけ燕弥は狂言作者に気に入られているという。

 お前の芝居にゃあ、時々きらりとするものがある。狂言作者は燕弥に飯を食わせるたびにそう言ったが、そんなおべんちゃらを信じるほど己に時間は残されていない。

「小金は全枚はたいてやったってよかったんだよ。なにせわたしはもう二十三だ。ここいらで芽を出しておかないと、わたしは種粒のまま終わる」

 先の如月狂言での初姫は一寸ばかり芝居好きたちの中で話題に上ったようだが、あれは正月のはつはる狂言がねて大立者たちが休みを取っている間、若手を集めて興行を行なっただけのお茶濁し。己は、名前のある役なんてもらえるはずもない役者ばかりが押し込められた中二階で枯れて死んでゆく。

「時姫は座で最高位の女形が演じます。だから、時姫役は決まっておりました。森田座のたて女形はたまむらよいじよう。こいつがみようせきをついだだけのぼんぼんでしてね。踊りはど下手くそ。首は太くて色っぽさもへちまもねえ」

 燕弥は口端を嫌な角度にあげていたが、「あら、いけない」と口元を袖口でそっと隠した。

「駄目だわ。仏さまにこんなことを言っちゃあ」

「……仏さま?」

 思わず燕弥の言葉を追いかけた志乃に、燕弥は膝でにじり寄る。そうして、燕弥は志乃の耳たぶに掠れた声を擦り付けるようにして、

「宵之丞はおっんだんですよう」

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