第8話
煮立った油の玉が破裂したかのような勢いに、志乃はひっと息を詰まらせる。
「く、腐っておりましたから」
「この
顔が美しくあればあるほど、怒りをたたえた際に
「腐らせていたに決まっているだろうが!」
怒鳴り散らして
「あの飯はわざと腐らせていたんです」
一瞬の内に喉をすげ替えたような、その柔らかな声音はいつもの馴染みのあるもので、志乃の
「どうしてそんなことを」
「決まっているでしょう」と燕弥は
「芝居に使うんですよ。芝居ってのは言ってしまえば
「とてもよい色とよい匂いになっていたのですけれど」
志乃はただただ板に額を擦り付けることしかできなかった。
離縁だ。志乃は自室の布団の上で座り込んだまま、ぼんやりと考える。離縁に違いない。
次の朝、朝餉の品数を増やす
「豆腐が食べたい」
志乃が顔を上げると、燕弥は少し顔を背けていた。口が鳥の
「夕餉は豆腐が食べたいと言ってるの」
志乃は泣きそうになった。ああ、求められている。この人はとってもお優しいお方だ。きちんと自分に役割をくれる。女房として己を使ってくれる。
「
燕弥の朝餉が終わるのを待たずして、紙入れを手に取った。土間へ駆け下りると、「お待ちを」と志乃を引き留める声がある。
「こいつを使ってくださいな」
燕弥に渡されたのは丸盆で、志乃は黙って受け取った。意図など問うはずがございませんの一文字の口を見てもらいたくって、志乃はゆっくりと頷いてみせる。
「酒もつけてもらおうかいね」
言って、燕弥は
「酒でも回れば、昨日のことなんてぽーんと飛んでってしまうさね」
台所横で目についた
「志乃!」と一際大きな声が背中にぶつけられた。
心持ちは軽く、なんでも御座れと振り返った志乃を待っていたのは、
「お帰りをお待ちしております」と燕弥は優しげな笑みを見せた。
「戸口の前でお待ちしております。ずうっとずうっとお待ちしておりますから」
志乃は通りを飛ぶように走った。
家に戻ってきたとき、燕弥は告げた通りに戸口の前に立っていた。肩で息をする志乃の姿を見つけると、笑みの形に細まっていた目が開き、まるで針のように輝いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます