第9話
豆腐を盆にのせて戻ってきたあの日は
醬油染みのついた紙をめくったところで、がらりと格子戸を開ける音がして、志乃は大きなため息を吐く。
「御新造さん、お届けにあがりましたよう」
「またですか」
「こいつが
店の名前は慌てて書きつけたが、この家にはもう桶を置くところなぞどこにもないし、腹の中は骨と肉の間だって隙がない。そう訴えたが、男はその大きい
「いえいえ、御新造さん。これからじゃあねえですかい」
この男が
「幕が上がってまだ十日も経っていやしません。森田座にとんでもねえ若女形が出てきたってんで、やっとこさ
志乃は己の腹に手を当てた。おそらく腹の虫は昨日か
「もっともっと届けられるはずですぜ」
家の中に並べられていく、大量のこの豆腐に押し潰されて。
この男が突然家を訪ねてきたのは五日前のことだった。豆腐をどっさりと持ってきて、贔屓からの祝儀でごぜえやす。笑みのまま出て行こうとするものだから、袂を引っ張り名を聞けば、
土間に座り込む善吉に麦湯を出しながら、志乃は聞く。
「役者への祝儀は、豆腐と決まっているものなんですか」
えっ、と善吉は茶碗から口を離した。
「決まってやしませんよ。豆腐を祝儀として運んだことなんて初めてのこってす」
「あら、それならどうして豆腐なの」
尋ねると、御新造さん、と一寸ばかり硬めの声が返される。
「もしや、役者の女房さまでいらっしゃるのに此度の芝居の内容をご存知でない?」
押し黙る志乃に、善吉は「噓です噓です大丈夫ですよう」とへらりとする。
「そういうお内儀さまもおりやすからね。舞台の上であっても、自分の旦那が誰かと口説き口説かれて、
「それは当たり前のことでしょう?」
強い物言いになっていることは己でもわかった。
「旦那の仕事場に女房が顔を出すなんて言語道断でございます」
「なるほどなるほど」善吉の顔が近づいて、目頭についた目やにまでがよく見える。「そういうところが良いんですねえ」
「そういうところ?」
一人うんうんと頷く善吉に眉を寄せると、「でも、御新造さんはどうなんです?」と善吉はまたもや志乃の顔を覗き込んでくる。
「御新造さんは此度の芝居のお話、聞きたいとは思いやせんか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます