第6話

 家に戻った時分にはまだ日は落ちていなかった。

 志乃はまず燕弥の部屋の前でひざを揃えた。「戻りました」と声をかけ、ひいふうみいまで数えてこたえがないのを確認してから、浮世絵包の紅猪口をふすまの前に置く。今日も燕弥は芝居小屋へとけいに出かけているようだ。ならば、部屋には決して入らない。煙草盆の灰を替えようと燕弥の居ぬ間に部屋に入った際には、怒った燕弥に障子の一ます一升に指で穴を開けられた。一人で障子を張り替えた腰の痛みはいまだ記憶に新しい。

 台所に立ち、かまどにとろりと火を入れたところで、表戸を叩く音がある。だが、火から離れるわけにもいかず、志乃はその場で「すみません」と声を張り上げる。

「今日の夕餉は煮売り屋で購ってまいりましたので」

 表戸を叩く音はぴたりと止んで、じゃりりじゃりりと草履が路地をゆっくり擦る音が小さくなっていく。お菜の一つでも持ってってもらえばよかったわ。ぶかねぎを刻みながら、志乃ははたと気づいて一寸ばかりへしょげたが、それならお菜を具にしたおにぎりをこしらえておこうと気を取り直す。昨日はせっかく来て下すったのにごめんなさいと朝餉のときにでも渡せばいい。

 志乃が嫁入りして初めて用意した夕餉は、部屋に入ってきた燕弥に横目でちらりとやられるなり、眉をこれでもかと寄せられた。燕弥はそのままきびすを返し戻ってこなかった。その次の日には通いのばばを紹介された。

 実家で言い聞かされてきた、質素であることこそ食の第一義との考えを志乃は思い切ってえいやっと頭から追い出して、朝晩、家にやってくるおたみに料理を習っている。近頃はようやく志乃の作った飯にはしを伸ばしてくれるようになったものの、やっぱり木曽屋のお菜は、箸の運びがいつもとは段違い。はちはい豆腐より田楽がお好き。なるほど、はあまりおつけにならない。ここで味噌汁おみおつけわんを手にとって、あら、叩き納豆を汁の実にしたのはまずったかしら。

「おやめくださいと言ったはずですけれど」

 燕弥の言葉に志乃は、びくりと背筋を伸ばす。

「ちろちろと目玉でめられるのは、ひのき舞台の上でもう十分味わっております」

 燕弥の眉間に皺が寄ったのは汁の実が理由でなかったようで、志乃は「申し訳ございません……」と消え入りそうな声で謝ってから、燕弥のはこぜんから己の膝へと目を落とす。

「今日も食べないのですか」

 顔を上げると、燕弥の箸は箱膳を指している。

「もちろんです」

 志乃は力強く頷いた。

「殿方が食べ終わるまで妻は殿方の傍で控え、食事の手伝いをするものと実家で教えられてきましたので」

 燕弥は志乃の顔をじっと見て、「ふうん」と小さく呟いた。それきり黙って、箸で田楽を細かく刻む。田楽をつまみ上げ、左手で口元を隠しながら、ゆるくほどけた唇へと持っていく。その美しさが志乃は恐ろしい。

 どうしてこのお人は私を女房にしたのだろう。

 志乃は燕弥を眺めながら、ぼんやりと考える。

 燕弥には聞かない。聞けない。なぜって志乃は女房だからだ。夫に従い、夫のために行動をする。飯をつくり、汚れ物を洗い、温く柔らかい肉で夫の労をねぎらって、ぽんぽん子を産む生きものだ。それに、己はどうやらそれなりの顔らしいから、見目で夫をいやすこともできるはずとそう志乃は、一寸自信もあって嫁いできたはずなのに。

 目の前には女の己より美しい女がいる。

 ならば、私はなんのためにこの家にいるのだろうか。私の価値は一体どこにある。

 志乃は行灯あんどんの火を消し、布団の中にもぐりこむ。燕弥とは寝所を別にしている。燕弥がそう申し付けたからだ。志乃は体を丸め、右手を己の胸に当てる。思ったよりもそいつは柔らかく、志乃はほうっと息が吐けた。

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