第5話

 志乃の言葉に、木曽屋は黙って煮っ転ばしに目を落とす。

「成り代わるというよりは、そのお芋のように役が染み込んでいると言った方が近いかもしれません。だから日によって漬けが甘い日と漬けが深い日がございます。漬けが甘い日は、元の燕弥さまの性の根で、衣も食も燕弥さまの好みが出ますが、漬けが深い日なぞは演じていらっしゃる人物が燕弥と名を変え、うつつに生きているかのようで」

 その上、その漬けの甘い深いは日毎に変わって、当て込めないのも困りどころ。

「そりゃあ、同じ屋根の下、過ごすのは骨が折れるね」

「所作やくちさばきで判じるしかありません。それでも分からない時は、お姫様と呼びかけてみるんです。少しでも燕弥さまが残っていれば、なんだいその呼び方はとけんに皺が寄ったり、お口がへの字に曲がったりするんですが、今日はちっとも」

「姫様と呼ばれることを一寸たりとも疑っていない。姫様に成り切っている漬けの深い日だってえ、そういうこったな」

 志乃は、動くことのなかった燕弥のりゆうを思い出しながら、こっくり頷く。

「ですが、今日は苛々があっても煙草盆をひっくり返されませんでしたので、丼鉢の底の煮崩れしたお芋ほどひたひたではいらっしゃらない」

「煙草の灰をぶちまけるなんて真似、赤ん坊であってもげんこつもんだぜ。そんなことができるのは、城下の火事の恐ろしさを知らねえ、いや、知ったこっちゃねえ世間知らずのお姫様だけだ」

「ええ」と志乃はもう一度こっくりとした。

「ちなみにたびのお姫さんの名は?」

「確か、とき姫だとか」

 すると、木曽屋の米粒目がかっ開く。

「時姫かい! へえ、そうかいそうかい。大きな役をもらったもんだ。こいつはなんとも楽しみじゃねえか」

 時姫をご存知なんですか。口に出しそうになった言葉は間一髪舌でくるりと巻き取った。飲み下してから志乃は、いけないと己の腹をそっと押す。いけない、これは女のやることではない。言い聞かせていると、木曽屋のくふくふと笑みをみ殺したかのような声がある。

「そんじゃあ、時姫とそのお内儀かみさんの好物を教えてもらおうかい」

 どうやら腹の虫を抑えていると思われたらしい。志乃が顔を赤くすると木曽屋は笑って、そんならちょっとずつ取り分けてあげるよ、とお菜をいくらか持たせてくれた。礼を言いながら、ふと木曽屋の腰に視線を落とした。帯に挟み込んだ煙草入れから木彫りの根付が揺れている。その四つのはなびし紋は高麗屋、まつもとこうろうの贔屓だそうだが、これが抱き燕の役者紋を持つ相手となると、志乃は胸の内でふん、と気合を入れねばならぬ。

 煮売り屋からそのまま二町ほど北へ下れば、間口の一際広いおおだなが見えてくる。伊勢屋の文字が白く抜かれた暖簾のれんをくぐり、笑みを浮かべて辞儀をした女の前で、志乃はふんふんと二回ほど気合を入れた。

「紅猪口をお渡しくださいませ」

 志乃を店奥へと案内した伊勢屋のお内儀は、志乃が足を畳むなり、両手を出した。志乃が慌てて袂から取り出した猪口を持ち上げるその手拭いは案の定、燕の喉の如く赤錆色で、燕が何羽も飛んでいる。

「やはり玉屋さんの紅では燕弥様はお気に召しませんでしたでしょう」

 志乃は勢いよく顔を上げたが、お内儀はぶた絹を敷いた長方形の蒸籠せいろを手前に引き寄せ、中身を木べらで混ぜるので忙しくって、なんてご様子で己の手元に目を落としたままだ。

 志乃は邪魔をせぬよう、「よく知っていらっしゃいますね」とそっと返したが、そいつはお内儀の中のなにかを引っ搔いたらしい。

しんぞうさん」とお内儀が志乃に呼びかける。その声は川の水を吸った着物のように重く冷たい。

「もしや御新造さんは、世間の芝居好きをご存知でない?」

 存じないわけがない。実家のあるから江戸へ嫁入りしてから、志乃は江戸の芝居好きたちの、その熱狂振りに日々驚かされている。だが、芝居と己の間に一線引くことを心掛けている手前、知っていると言うのもどうか。もごもごとする志乃にしびれを切らしたか、お内儀は紅を手にとって、柄の部分で蒸籠のへりをこんと叩いた。

「役者は船頭でございます。舞台で何気なく身につけた物一つで江戸に渦巻く潮目が変わる。やれだんじゆうろうが江戸紫の手拭いを頭に巻いたと右に押し寄せ、やれたつすけが変わった帯の結び方をしたと左に押し返し、皆がこぞって役者の真似をする。商い人がこれを逃すわけがありません」

 刷毛を蒸籠の紅にゆっくり浸し、猪口の内側に塗りつけていく。その手際の良さは他のなによりも伊勢屋の商いの太さを物語る。

「私だって紅商いを生業なりわいとしている大店の内儀、役者が唇に乗せる紅にはいつも目を光らせております。それに、役者も己の屋号で化粧の品を出したりするでしょう。こちらにとっちゃあ商売敵でもあるんです。役者がどんな紅を使うのか、皆が知りたくてたまらない」

 こいつはお得意様の御新造さんを思っての言葉だと思ってくださいましね。お内儀はそう言い置いてから、志乃に向かって上品な笑みを浮かべた。

「ですからね、よく知っていらっしゃいますね、だなんてそんな素っとんきようなこと、役者の女房ともあろうお人がお口に出してはいけません」

 柔らかい物言いだ。だが、その紅の塗られた口の中で動く舌が、志乃にはふたまたに見えるときがある。

「ましてや、御新造さんはあの燕弥様の女房なんですよ。ええ、あの燕弥様と、私はそう呼ばせていただきます。今はちゆうどおり、じつひとからげの役者ではありますが、今に世を狂わすような女形になる。私にはその絵図が見えているのでございます。だからこそ、その女形の女房がそんなでは燕弥様のためにならないと言うのです」

 猪口に塗った紅が乾ききると、お内儀は紅猪口を浮世絵で包む。その浮世絵も先程の押し掛け贔屓たちが持ってきたのと同じものだ。お内儀は熱の入った燕弥贔屓で、だからこそ余計に志乃の存在が疎ましいのだろう。

 金子を渡し背を向ける志乃に、決まってこの人は口にする。

「どうして燕弥様は、あなたみたいなお人を女房にしたんでしょうねえ」

 怒りなぞ湧いてくるわけがない。背を向けたまま声に出すことはないけれど、決まって志乃も口にしている。

 ええ、私もそう思います。

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