第4話

 縁談のお話が父親の舌の上に乗せられてから、己が畳に手をつくまでのその時間の短さを、志乃は今でも誇りに思っている。

 すす払いも終えた年の暮れのこと、お前に縁談がきていると、父親が言い終わらぬうちに志乃は額を畳につけて、よろしくお願いしますと告げていた。相手のことも婚家のことも決して尋ねない。尋ねる必要がない。父親が決めた相手であるならば、志乃はその人の隣にできるだけ物静かにお行儀よくしりを落ち着ければいい。頭を上げると、そこには思い描いた通りの父親の満足そうな顔があって、志乃はうれしくなったものだ。

 そうだ、それでこそほつの女子、武家の娘。そんな風にして志乃を褒める父親の声音は優しかった。母親は父親の後ろで黙っている。喜びの声をあげるようなそんなはしたない真似はしない。目を伏せ、紙で作られたびなのように、折り目正しく夫の言葉を聞いている。尋常なら嫁側の家が娘に持たせる持参金を、なぜか夫が嫁側の家に支払った。その金子がごろごろと父親の喉を撫でていたのかもしれないが、それでもよかった。としと呼ばれる二十になる手前で嫁入りができることも志乃には最高の上がり目で、数日経つと己の出した目が信じられなくなっていた。でも、それも夫に会えば解決するもの。いつだって父親の三歩後ろで添うている母親を見習い、己も、女房としての収まりどころを早々と見つけ出して、女の役目をきちんと果たしていこう。そう思っていた。

 祝言は挙げず、顔も見ぬままびきちようの夫の家に移り住んで、二ト月が経つ。なのに志乃は今でも、己の尻を落ち着ける場所が分からない。この人の隣か後ろか、それとも前か。

 なぜってこの人が、常に女子の姿でいるからだ。


 道すがらすれ違う振りの、からおけの底がきらきらと光り始めれば、そこはもう日本橋にほど近い。ばしを渡れば、空桶の底といわず、だいはちぐるまの荷台に、大通りの地面にと、がれたうろこがきらめいて志乃を誘ってくる。しかし今は魚河岸に寄っている暇はない。足を動かすたびに袂の中で紅猪口が揺れている。大通りを曲がったところで、

「お志乃ちゃん」と声がかかった。

 振り向けば、表に店を構える煮売り屋から男が手を振っている。屋と墨書きがされた看板の下には、こんにゃくに焼き豆腐、煮豆にたこに大根にと盛り付けられたどんぶりばち棚に所狭しと並んでいる。

「芋の煮っ転ばし、今日はいくつ持ってくんだい」

 男が差し出した丼鉢の中の里芋は目一杯煮汁を吸っていて、てらてらと春の日差しをはじいていた。

 かかあはぜいたくせずに飯をつくれが口癖の亭主方も、木曽屋のお菜がゆうに出れば、口をつぐんでかっ食うとの評判だから、木曽屋には独り者の男だけでなく所帯を持った女も並ぶ。志乃も木曽屋のお菜には、幾度かお世話になっていた。だが、

「すみません、煮っ転ばしはもう」

 志乃がくちごもると、木曽屋の店主は肉にうずもれている米粒目をぱちくりとさせた。

「あれ、あのお人はこいつが好物じゃあなかったかい」

 そうなのだ。そこが難しいところなのだ。

「いえ、その、前のお人はたしかにお好きだったんですけれど」

 尻すぼみになる志乃の言葉に「ああ」と木曾屋は声を上げ、ぽんと手を打ち鳴らす。

「そういや、如月狂言は終わっていたね」

 燕弥は常から女子の格好をしている。燕弥が一生のおさんとする女形、よしざわあやめとやらが言うには、「平生を女子にて暮らさねば、上手の女形とは言われがたし」。その教えに従って、燕弥は舞台を降りても振袖を着、化粧をし、髪を結い上げ、女子の言葉を舌に乗せる。そこまでであれば、志乃だって、女形ってのは大変なものなんですねぇ、と神妙に頷くことができたと思う。実際、尋常を女子で過ごす女形は少なくないらしい。しかし、野心あふれる若女形には、それを守るだけでは物足りなかった。

「新しい芝居に入るたび、演じる役に成り代わっちまうってのは、何度聞いてもどうにも飲み込めやしねえなあ」

 言いながら、木曽屋は丼鉢の中身をさじでぐるりとかき混ぜた。山になっていた芋が次々と煮汁の中に転がり落ちる。

「そのお芋と同じなんです」

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