第3話

こうまで漬かっていれば、志乃のどんなご提言にも耳を傾けてはもらえまい。あきらめ、志乃は紅猪口を袂に入れて立ち上がった。部屋の出口に足を進めつつ、はしたなくともしようがないのと自分に三度言い聞かせてから、畳の上の物々へと視線を走らせる。

 まりが金刺繡ぬいのそのしろりんは見覚えがあるから良しとする。横に、はなくいどりが羽を広げたちりめん帯、その横、こんねず色の煙管入れ。開きっ放しの鏡台の抽斗ひきだしにきしきしに詰め込まれているかんざしまで目をやって、やだ、そのしよぐるま柄の羽織はいつの間に仕立てあげなさったの。冷や汗が一筋背中を流れたが、先月のお人と比べればその泣き言は飲み込めた。羽織一枚なら、志乃が傘張りを頑張ればどうにか支払える。質草を入れて金を用立てた様子もないから、今日のように質屋が押しかけてくることもないだろう。おまけに畳の上の着物は畳まれ折り目がつけられて、積まれた浮世絵の山は端が揃えられている。おとなしい上にれい好きなお人だなんて、万々歳だ。

 部屋を出るなり紙入れを引っつかんで外に出たが、志乃は一寸ちよつと立ち止まり、閉めた格子戸へ貼り紙をしておいた。『姫様おわします』との一文を見れば、蛭子屋も尻尾しつぽを巻いて逃げ帰るにちがいない。先月、家に上がったところを捕まえられて、貝合わせにひな遊びと半日付き合わされたことは、絞れば泣き言がしたたるほどに骨身に染み込んでいるはずだ。

 四月の風は、人の肌を撫でていく春先のものとは違って力強い。めくれ上がった貼り紙にもう一度米粒をつけ直そうとしたその時、後ろから袂をぐいと引かれた。振り向きざまにその手を右手で押さえ込み、素早く体を回す。するとおなの顔が目の前に現れて、志乃は慌てて手を放した。己のまるまげに伸ばしていた左手もそろそろと下ろす。

 よくよく見れば女子の顔は三つほど並んでいて、はるちゃんが言ってよ、うそ、きよちゃんが言う約束だったじゃない、同じ色の着物をまとった体で押し合いへし合い戯れている。飛び跳ねるたびに簪にくくり付けられた鳥の羽がしゃらしゃらと鳴って、あんなに飾りがあっては摑みにくいでしょうに、と志乃は人知れず思ったりもする。燕ののどのようなあかさび色の着物の団子からついに一人が押し出され、志乃の顔をもじもじと見上げた。

「この家の女中の方ですよね?」

 志乃が言葉を詰まらせたのをどうやら頷きと受け取ったようで、女子たちから甲高い声が上がる。

「ねえねえ女中のお姉さま。これを渡して指のかたをもらってくださいな」

 猫撫で声で渡された一枚の浮世絵には、畳の上に横座りをする女子の姿が描かれていた。いくつも並べられた紅猪口の中身を吟味するためか、その目はそっと伏せられている。女子は顔のあたりへ右手を寄せて、薬指の先を柔らかに食み、

「口元! この絵の口元のあたりにぼくが欲しいんです! 墨をつけた薬指の先を押し付けるだけでいいの」

 いつの間にやら女子は志乃の背中に回り込んでいて、肩から顔を覗かせようとしている。志乃が少し腰を折ってやれば、つまべにを塗った指先が薄い紙をとんとんとたたく。

「あなたの指じゃないですからね。えんさまの指よ、燕様、むらえん様」

 何も答えられずにいると、「なるほどね」と紙を叩いていた指がいきなりついっと志乃に向く。

「あたしがもどきの燕弥贔屓びいきじゃないか疑ってるってえ、そういうわけね」

 途端、女子の小さな舌が上唇を勢いよく湿らせる。

「お江戸三座のうち一つ、森田座に春の雷の如くぴしゃりと現れたわか女形おやま如月きさらぎ狂言でったはつ姫はじようじようきち。今はまだ大部屋役者のちゆうかいで名は知られていないが、つばをつけておいて損はないってのが芝居好きの評。燕弥贔屓は薬指の先を食んでから、唇に紅をのせるのよ」

 もちろんそいつは初姫の真似ね、と女子はふふんと鼻を鳴らす。

「役者紋は抱き燕で、屋号は乙鳥つばくら屋。好きな紅はほんばし玉屋のまちべに!」

 ああ、惜しい。出かかった言葉は口の中でつぶす。玉屋でなくって伊勢屋です。ついでに今からその伊勢屋へお使いに、なんて漏らしたが最後、この女子たちなら、志乃が袂に忍ばせている紅猪口を奪い取りにきかねない。

 役者絵をぬぐいの上に載せてやり、「お預かりいたします」と頭を下げれば、燕弥贔屓たちはまたきゃいきゃいと団子に戻って、家の前から去っていった。絵を受け取りにくる日をきちんと言い置くところは抜け目ない。団子が大通りの角を曲がるのを見届けてから、志乃はもう一度紙に目を落とす。

 これを描いた絵師は大したお腕だと志乃は思う。燕弥の輪郭ははっきりしているから、あえて墨汁をたっぷりと含ませた太筆で、でもその顔の中身を描くなら細い筆に持ち替えて。とがった鼻も薄い唇も一筆描きでしか許されないような繊細さで。特に目元は息を詰め、まるで毛先でちようの腹を撫でるようにしてひとかわを描き上げる。この薬指を食む初姫の役者絵は、燕弥贔屓の中でも評が高い。

 かわって志乃のこの指だ。ささくれは捲れ、潰れた肉刺まめは色が変わっていて、志乃は思わず肉刺ごと手のひらを握り込む。

 やっぱり言わないでよかったんだわ。

 歩き出しながら、静かに喉をさすり上げる。

 燕弥が好きな紅屋は伊勢屋であることも、今からそこの紅を購いに行くことも、それから。

 己が燕弥の女房であることも。

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