第3話
こうまで漬かっていれば、志乃のどんなご提言にも耳を傾けてはもらえまい。
部屋を出るなり紙入れを引っ
四月の風は、人の肌を撫でていく春先のものとは違って力強い。
よくよく見れば女子の顔は三つほど並んでいて、
「この家の女中の方ですよね?」
志乃が言葉を詰まらせたのをどうやら頷きと受け取ったようで、女子たちから甲高い声が上がる。
「ねえねえ女中のお姉さま。これを渡して指の
猫撫で声で渡された一枚の浮世絵には、畳の上に横座りをする女子の姿が描かれていた。いくつも並べられた紅猪口の中身を吟味するためか、その目はそっと伏せられている。女子は顔のあたりへ右手を寄せて、薬指の先を柔らかに食み、
「口元! この絵の口元のあたりに
いつの間にやら女子は志乃の背中に回り込んでいて、肩から顔を覗かせようとしている。志乃が少し腰を折ってやれば、
「あなたの指じゃないですからね。
何も答えられずにいると、「なるほどね」と紙を叩いていた指がいきなりついっと志乃に向く。
「あたしがもどきの燕弥
途端、女子の小さな舌が上唇を勢いよく湿らせる。
「お江戸三座のうち一つ、森田座に春の雷の如くぴしゃりと現れた
もちろんそいつは初姫の真似ね、と女子はふふんと鼻を鳴らす。
「役者紋は抱き燕で、屋号は
ああ、惜しい。出かかった言葉は口の中で
役者絵を
これを描いた絵師は大したお腕だと志乃は思う。燕弥の輪郭ははっきりしているから、あえて墨汁をたっぷりと含ませた太筆で、でもその顔の中身を描くなら細い筆に持ち替えて。とがった鼻も薄い唇も一筆描きでしか許されないような繊細さで。特に目元は息を詰め、まるで毛先で
かわって志乃のこの指だ。ささくれは捲れ、潰れた
やっぱり言わないでよかったんだわ。
歩き出しながら、静かに喉を
燕弥が好きな紅屋は伊勢屋であることも、今からそこの紅を購いに行くことも、それから。
己が燕弥の女房であることも。
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