第2話


一、時姫


 つばめ菖蒲あやめの絵付けがされたお猪口ちよこが二つ、こちり、こちりと目の前に置かれる。猪口から指を離す際、人差し指の爪でざりんと畳の目を引っいていくところは、いかにもいらっておりますといった感じだが、はいくらかほっとしていた。先月みたく煙管キセルの灰をそこら中にき散らされることはないし、「その右のお猪口」と言いつつ、指で指し示してくれる気遣いも、先月とはまるでお人が変わったようにお優しい。

「こちらが昨日、お志乃さんがあがなわれた紅」

 志乃は猪口ににじりより、おずおずと中をのぞき込む。猪口の内側には紅が塗り込められている。赤で、つやつやきんぱくはなし。うん、と一つ志乃はうなずく。

「こちらが今日までわたしが使っておりました紅」

 左の猪口に首を動かす。赤で、艶々、金箔はなし。うんうん、と二つ志乃は頷く。

「なにが違うか分かりませぬか」

 言われて、志乃はびくりと肩を震わせた。

「分かりませぬか」

 重ねて問われても、揃った三拍子に指折り満足していた志乃には、全くもって分からない。ふうと深いため息が聞こえて思わず身構えたが、煙草盆が引き倒される音は聞こえてこない。

 こわごわ顔を上げるとその人は、唇の端で薬指の先をんでいた。志乃の目に気づくと、そでぐちで口元をそっと隠し、れた薬指の腹で左の猪口の内側を素早くぜる。ほら、どうです、と手の甲に擦り付けられた赤は、その人の、新芽の薄皮を一枚いたかのような透いた肌にはよく映えた。

「色がきれいに伸びるでしょう。これこそ質の良い紅のあかして。がみの紅花で作ったべにもちは粘りがあって、こいつを絞ってできた赤は、唇のしわの間に吸い付いて離れない」

 そこでいつたん言葉が切れて、小首がちょんと傾げられる。志乃が慌ててたもとから杉原紙すいばらを取り出せば、目の前にある口端は分かりやすくつり上がる。

「左の屋も右のたま屋もどちらも吸い付きのいい上物ではありますが、わたしの唇は上より下がほんのぽっちり厚いので、より赤の濃い伊勢屋のものが入用です」

 言われたことを手元の紙に書きつけながら、志乃はちらりとその人を見やる。どうやら今回のお人は随分とおとなしい女人らしい。やっぱり、先月とはまるでお人が変わったよう、と思ったところで、志乃はううん、と首を横に振る。まるで、も、よう、も必要がない。

 だって、この人は本当に、んだもの。

「お志乃さんなら、わたしが使っている紅くらいお分かりになると思っていたのですけれど」

 その下がりまゆにもお初にお目にかかりまして、と思いつつ、志乃は額を畳に近づける。

「申し訳ございません。次は必ず手抜かりのないよう」

「それはようございました」

 体を起こせば、そこには卵の白身だけを泡立てたようなやわい笑み。志乃がほうっと胸を撫で下ろしたのも束の間のことで、

「では、お気をつけて」

「え」

 志乃は思わず声を上げた。その人は口の端に笑みを泡立たせたまま、なおも言葉を繰り返す。

「お気をつけて、いってらっしゃいまし」

「ですが、今日はその、えび屋さん、質屋が家に訪ねてくることになっていて……」

「蛭子屋ならよかった。みになら、わたし、紅なしでも顔を出せますもの」

「顔を出すって、蛭子屋さんに会われるおつもりですか?」

 あなたのようなおひいさまが。

 口からぽとりこぼれ落ちたていつぶやいてみたが、その人の顔の上では眉毛の一本たりとも動かない。

「だって、誰かが蛭子屋に言付けなければいけないでしょう。お志乃さんなら伊勢屋に紅を購いに行っていて、家内にはおりませんよと」

 ここで志乃は確信した。

 今日は随分日だ。

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