言葉狩り
自分は、部落解放同盟の言葉狩りともいえなくもない糾弾を本で読みました。彼らもまた微妙な感情を持っているようです。同和問題に対して述べることは慎みますが、似たようなテーマを問題にしましょう。
「恋は盲目」これが差別であるか。
この言葉は、自分としては差別に定義します。しかし、僕は抹殺しようとは思いません。それほど重篤なものか? とためらうのです。
差別である理由は、「恋によって物事の良し悪しが分からなくなること」と「失明して目が見えなくなること」をこの用法では掛け合わせているのですが、それが否定的に用いられていることです。盲目であることが悪いことだとした上で、「恋は物事の良し悪しが分からなくなるから」悪いことだと用いるのです。つまり、どう考えたって盲目であることを侮蔑する意識があります。
しかしためらわれる理由の方は、慣用的に育んできた言語文化であり、盲目がいけないから悪いことだと意識して人は判断していないから、悪意のある差別ではない、と考えているためです。
そんな風に平和的に語を用いている人々を糾弾しようとすれば、和を乱す存在としてそれこそ排斥されてしまうのではないか、そう恐れる訳です。でも、部落解放同盟がしたことは、その和を乱す行為であり、そしてその揉め事は様々あったとはいえ、最終的に部落差別の一般的や忘却に繋がったと考えると、微妙な気持ちがあります。糾弾もしてもいい、という。
では、「恋する私はきちがい」であるとしたとき。この場合はアウトだと分かるのです。チャージマン研が流行ったおかげ語の方はうちの小学校にも広まりましたが、それでも自然と消えたものでした。ダブルスタンダードではないか、という訳です。
今日(2/12)嫁という語を止めさせるのは不当な言葉狩りにつながるのではないか、という指摘をここで目にしたので少し考えました。
そして外国語になると全く差別には疎くなります。イヌイットとエスキモーがどれだけ違うものか、ロマとジプシーがどれだけ違うものか分かりません。ただ、ジプシーの方は日本は差別に加担していた疑いを持っています。
中森明菜に『ジプシークイーン』という曲がありますし、日本人にはロマ族の人々にはノスタルジーを感じるようですが、そのノスタルジーの意識が、「周囲から差別されてさまよい歩くかわいそうな人々」でありました。これは、ロマ族に悪い偏見を持っていることではないでしょうか。
適切な言葉狩りは行われるべきだと思っています。しかし、障がい者と書こうが、障碍者と書こうが差別する人は差別します。なので、言葉狩りは差別糾弾の中ではあまり使われるべきではない緊急避難であると僕は考えています。
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