第90話 ジャンキーたち。ひとりぼっち。

 ──チュンチュン


「うっ、ぁ、あ……?」


 脳の芯から弾ける強烈な痛みと悪心。それでぼんやりと意識が覚醒する。


「朝か…………頭いってぇ……」


 またやってしまった。飲みすぎだ。二日酔いになるほど痛飲して、最悪な目覚め方をしてしまう。


 大学入って、これでもう2度目だぞ、クソ。


(……あれ? 俺、昨日何してたっけ?)


 記憶にアクセス制限がかかっているかの様に、昨日の事が全く思い出せない。


(…………まぁ、とりあえずシャワーでも浴びるか)


 モソモソとした緩慢な動きでベットから這い出て───


「あ、目が覚めたんだね陣内君」

「お、おはよー陣内」

「うぉわ!!??」


 思わず奇声を上げて、ベットの上で跳ね上がる。

 自身の寝室に、髪を濡らした同級生が2人も座り込んでいたからだ。


「はぁ!? 西代ぉ、猫屋ぁ!? なっ、なんでお前らが俺の家に!?」


 まっ、まさか……ヤったか!? ヤってしまったのか!? この俺が!? 酔った状態で、2人の女を持ち帰って同時にいたした!? んなバカな!? あり得ねぇ!!


「は? 陣内君、なにも覚えていないのかい?」

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ん?」


 記憶に、か細い光が灯る。


 なんだろう。とても強いデジャブを感じる……。あれ? 俺って一度起きなかったっけ?


「えぇっと……たしか俺は、朝起きて、朝シャンしようとして? お前たち2人が泊ってるって聞いて……その後は……んん? なんだっけ? どうなったんだ?」

「君、脱衣所で服を脱ごうとして足を滑らせたらしいじゃないか」


 むっとした様子で、西代は経緯を語り始める。


「そのまま頭を打って気を失ったんだってね。まったく、危ないね」

「頭?」

「そっ、そーなんだよねー!! いやぁー、急に動かなくなっちゃったからー、私すっごく心配しっちゃったー!!」

「…………」


 スリスリと顎を手で撫でてみる。顎の先端がわずかに痛んだので、どうやら本当に顎を打って気を失ってしまったようだ。


 ……という事は、俺は大学に入って3度も意識を飛ばしたのか。気絶しすぎじゃないだろうか?


「と、ところでさー? 脱衣所での事は思い出せちゃうー?」

「脱衣所? いやだから、そこで足を滑らせて気絶したんだろ、俺? 他に何かあったのか?」

「いっ、いーや、なーんにも。な、何もなかったからー」

「良かったね、猫屋。幸運な事に、君の痴態は綺麗さっぱり消えてしまったようだ」

「?」


 猫屋が恥ずかしそうに赤い頬を人差し指で掻く。その仕草の理由が分からず、俺は軽く首を傾げた。


「……まぁ、何でもいいや。とりあえず、俺もシャワー浴びてくる。まだ昨日の酒が残ってるしな」

「あー、それは私もー。まだ気分がわるーい……」


 陰鬱な表情の猫屋が自身のミニバッグに手を伸ばす。水でも取り出すのかと思ったが、バッグから出てきたのは手鏡だった。


「飲み過ぎでー、顔むくんじゃってないかなー?」


 そう言って、猫屋は自分の顔を確認し始める。


「…………はぁ」


 女々しさの塊。その動作を見せつけられて、俺はげんなりとした気分になった。


 美貌がこの世で一番大切だと思っていそうな女はとにかく嫌いだ。昔引っかけた女で、デート中ずっと自撮りばかりしていたヤツを思い出す。あの時のデートは本当に怠かった。


 彼女から目を逸らすように、俺は風呂場に向かって足を動かした。


 ──ちょんちょん


「?」


 風呂場に向かう足がピタリと止まる。


 振り向くと、西代が背後から俺の袖を掴み、引っ張っていた。


「陣内君、ちょっといいかな?」

「あん? なんだよ」

「昨日の酒比べ。あのを忘れていないだろうね?」


 西代が口にした約束事。潰し合いに負けた者は"これから相手を邪険に扱わない"という物だった。


 そして、あの勝負の敗者は俺だ。


 受け入れ難い結果だが、実際にそうなってしまった。


「………………」


 よし、とぼけよう。

 忘れたふりだ。

 あの飲酒量だ、猫屋も覚えてはいまい。


 それに、この俺が女のご機嫌伺い? 冗談じゃない、勘弁してくれ。


「何の事だ? 記憶にございま──」

「あれ? 君って『酒の席での約束事なんて無効だ』とか言っちゃうタイプなのかな?」

「……!!」

「くくくっ」


 挑発的な言葉に驚く俺を見て、西代は人を喰ったように笑う。


「僕はてっきり、陣内君はお酒絡みの事にはプライドを持って誠意的に対応をするのだと思っていたよ」

「な、なんだと?」

「昨日の取り決めを猫屋は覚えていないようだし、このまま有耶無耶うやむやにしちゃう腹づもりかな? ……まぁ、僕と君の仲だ。君が黙っておけって言うのなら、僕からは何も言わないでおいてあげよう」

「ま、待て。お、お、俺の、ア、アルコール様への態度が、不誠実だって言いたいのか……?」

「まさか。僕はただ客観的な意見を述べたまでさ」


 子供に話しかけるような優しい声音と、持って回った語り口。それでかしているつもりのようだが、彼女が言いたいことは明白だった。


『君のこだわりって、その程度?』


 これが言葉の裏にある全てだ。


「………………猫屋」


 意を決して、猫屋に声をかける。


「ん? なぁーにー?」

 

 手鏡と睨めっこしている猫屋は、俺の方を見向きもせずに返事をする。


「だ、台所にインスタントのシジミ味噌汁がある。ふ、二日酔いが辛いなら飲んでもいいぞ」

「え、マジでー!」


 シジミ味噌汁と聞いて、猫屋はピカッとした笑顔でこちらに振り向く。


 物欲に素直なヤツめ……。


「陣内、気が利くじゃーん。急にどったのー?」

「いや、ほら、あれだ……学友には優しくするべきと言うか、友情は人生の酒であるてきな?」

「なに言ってんの? 早口でちょっとキモいよ?」

「ぐっ」


 これだからバカ女の相手は嫌なんだよ、ちくしょう!!


「そ、そうキツく言うな。俺は酒飲みだから、二日酔いの辛さがよく分かるってだけだ……」

「ふーーん? あ、それならー、ついでに煙草も吸っていーい?」


 ヤニカスめ、人の家で喫煙の嘆願かよ……。


「あ、あぁ、換気扇の下でなら別にいいぜ。シンクに灰皿があるから、それを使ってくれ……紙巻きでも電子でもご自由に」

「おー! なんだ陣内って意外と話が分かるじゃーん!! それなら味噌汁作りながら一服つけよーっと。西代ちゃんはどうするー?」

「いいね。僕もご相伴させてもらおう」


 2人はそう言って、風呂場とは別方向にある台所に向かおうとする。


 立ち止まっていた俺を通り過ぎようとした一瞬、西代が俺に向かって口を開いた。


「ふふっ、紳士的で素敵だね?」

「…………」


 ふざけた軽口を無視して、俺は脱衣所に向かった。


************************************************************


 20分ほどでシャワーを浴びて、リビングに戻って来る。


「ん?」


 リビングに通じるドアを開けた瞬間、食欲をそそるいい匂いが飛び込んできた。


「おー陣内、丁度良いタイミングー」


 部屋の中央にあるテーブル上には、味噌汁とご飯。加えて、だし巻き卵やほうれん草のお浸しなどのおかずが並んでいた。


「ついでだったからー、朝ごはん作らせてもらったよー。食べるでしょー?」

「……おう」


 少し、驚いた。


 頭の中が空っぽでヤニカスの猫屋が、健康的で体に良さそうな朝食を用意したからだ。文句のつけようがないクオリティ。


 コイツ、料理とかできるんだな……。


「冷蔵庫にあった物を使ったからー、材料費は後で請求してねー」

「金はいいよ、別に」


 大した礼も言わず、席に着く。邪険に扱わないだけで、へりくだりはしない。


 …………暫くの間、猫屋の女々しさについてはあまり考えないようにするべきだ。何とか脳をバグらせて、ヤニカスモンスターくらいの認識で行こう。


「しかし、ここまでちゃんとした朝飯なんて久しぶりだな……ん?」


 俺は1人暮らしのため、食器の数は最低限。その為、おかずは大皿にまとめて盛られていた。品数豊かで充実した朝食類。その中に、異色な存在感を放つ物が見える。


 所々が焦げ、形が崩れているだし巻き卵だ。


「あ、あははー。人の家の調理器具ってー、馴染みがないから使いづらいよねー」

「えっと、その……うん。そうだね」

「…………そうか」


 猫屋がフォローを入れたのを見る限り、それは西代が作った物のようだ。


 綺麗な物との対比が激しく、西代は少々恥ずかしそうにしている。


「じゃ、頂きます」

「ぁ」


 俺はいの一番に、西代作のだし巻きに箸を伸ばした。大きく口を開けて、1本丸ごと頬張る。


「んぐ、んぐ、んっく」

「…………味はどうだい?」

「普通」


 焦げてて苦いし、卵の殻も入っていたが気にせずに咀嚼する。


「宿泊費代としては、まぁ十分だ。美味い」

「そ、そう。なら、良かったよ」


 俺の感想を聞いて、西代は味噌汁を手に取った。彼女は食器で顔を隠すようにして、味噌汁を啜る。


「……いいじゃーん、陣内」


 隣に座る猫屋が、小声で俺に話しかけてくる。


「そう言うのってポイントたかーい。ふひひ、ちょっとだけ見直しちゃったよー?」

「………………冷めるぞ、味噌汁」

「ふふっ、はいはーい」


 正直言って、キャラじゃなかった。

 猫屋なんかにも笑われて、かなり恥ずかしいが…………残念ながら、こういうのは男の役目。避けては通れない義務みたいな物。実行しなければ、俺の面目が立たない。


「はぁ」


 西代と同様に、羞恥心を隠すよう俺も味噌汁を啜る。


「あ゛ぁ゛、シジミエキスが臓腑に染みるな」

「だねー、落ち着くー」

「僕、朝ごはんなんて久しぶりに取ったよ」

「分かる。俺も一人暮らしを始めてから、朝は抜きがちだ」

「えぇー? 2人ともちょっと不健康すぎなーい? 朝は食べといた方が色々と得だよー?」

「……朝食を損得で測るってのは、また独特だな」

「え、あー……確かにそうかもー。なんか、義務感で食べてたなー……朝早いのに頑張ってご飯作ってさー」

「へぇ、それは偉いね。猫屋も賃貸が大学から遠いのかい?」

「うん。隣町のところー。西代ちゃんはー?」

「僕も同じさ。入学して1月経ってないけど、もう立地に後悔しているよ……」

「分かるー。私も遊び場ばっかり優先しちゃってー、通学の事まったく考えてなか…………って、大学ーー!?」


 まったりとした朝食の時間は、猫屋の切羽詰まった大声で中断される。


「うっそー!? もう8時20分じゃーん!! や、ヤバくなーい!? 化粧してる時間がなーい!!」

「まず第一に化粧を気にするんだね」

「悠長にツッコミ入れてる場合じゃなーい!! 急がないと遅刻しちゃ──」

「落ち着けよ。まだ余裕で間に合うから大丈夫だ」

「えー?」

「陣内君の家って、大学まで徒歩5分なんだよ」


 西代がカーテンの隙間を指差し、外を示す。

 

「ほら、ここからでも大学が見えるだろう?」

「んー? ……マジじゃーん!! 陣内、いい所に住んでるねー!!」

「まぁな」

「そもそもの話さ、猫屋。今日って必修の授業は無かったよね?」

「ん、あぁーそうだっけー?」

「ないぞ」


 猫屋は思い出せなかったようなので、軽くフォローを入れる。


「だよね。なら僕はサボっちゃおうかな」

「へ?」

「それ俺も賛成。今日は体調不良だしな、サボるわ」

「え、えぇー??」

「陣内君、それならお昼も一緒にどうだい? 前に話してた鍋でも一緒に作ろうよ」

「お、悪くないな」

「ちょ!? 鍋!? 鍋パ!? マジー!?」


 鍋と聞いた途端に、猫屋のテンションが跳ね上がった。


「鍋パって大学生っぽーい!! 超いいじゃーん!! キャンパス感、ハンパなーい!!」


 キャンパス感ってなんだ。頭悪そうな単語……。


「ふふっ。それなら、猫屋。……君も一緒にサボろうよ」


 唐突に、蠱惑的で耳障りの良い声音が西代から発せられる。


「う、うーん。さ、サボりかー……」

「なぁに、1日くらいなら平気だよ。出席点がほんの少しばかり減るだけさ」


 サボりに対して僅かな抵抗感を見せる猫屋に、悪魔の囁きが吹き込まれていた。


 西代は人当たりの良い柔和の笑顔を浮かべているが、瞬きほどの間、彼女の瞳が薄汚いドブ色に転換したのを俺は見逃さなかった。


「それに僕、猫屋に料理を教えて欲しいな。猫屋は手際が良かったからね。恥ずかしい話だけど、僕は自分でご飯を作った経験が少なくてさ」

「…………西代ちゃんにそう言われたら仕方ないねー! そーするー!! たしかに大学なんてー、1回くらいサボったって平気だもんねー!!」

「くくくっ、猫屋ありがとね」

(堕ちたな)


 巧妙な話術により、また1人クソ大学生が誕生した。1回サボった人間は次も容易にサボる。猫屋のように軽い性格の人間なら、なおさらだ。


「それじゃあ、今日は陣内君の家で昼飲みにしちゃおうか」

「分かった。良いぜ、それくらい。……鍋をやるならビールと日本酒が欲しいな。ジンソーダなんかも合うけど」

「いいねー、ジンソーダ。ジンって、最近よく宣伝で見るよねー」

「あれ? そう言えば君たち、二日酔いは?」

「そんなもん、もう治った」

「二日酔いなんてー、味噌汁飲んで煙草吸ったら治るよねー」

「……それもそうか」


 西代は肩をすくめて、俺たちの肝臓に呆れて見せる。自分だってかなりの性能をしている癖して、大袈裟な奴だ。


「そうだ、陣内君。昨日は君を介抱してあげたんだ。この前の白ワインみたいに、質の良いお酒のチョイスを期待しているよ」

「ん? あぁ、そうだな」


 たしかに、昨夜は彼女には迷惑を掛けた。借りをそのままにするのは、どうにも座りが悪い。


 西代が旨いお酒を望んでいると言うのなら、何か良い物を提供するか。


「……仕方ない、を出すか」

「陣内、それなーに?」

「結構前に話題になったドライジン」


 俺の返事に、猫屋が興味を示す。無知な彼女の為に、少々解説してやろう。


「ジンの発祥はオランダで、日本食とはまるで馴染みがないけど、これは京都産のジンでな。原料にライススピリッツや玉露ぎょくろ、柚子と赤松、山椒とかを使っていて和要素がとにかく強い。鍋物も日本独自の文化だし、ペアリングお酒と料理の組み合わせとしては悪くないだろ?」


 なお、お値段はだいたい4500円くらい。かなりの良品だ。この前パチンコでせしめたお金が無ければ、タダで振る舞おうとは思わなかっただろう。


「炭酸水を切らしてるから、鍋具材の買い出しついでに買ってくるか」

「…………」

「…………」


 について話していると、2人が急に黙りこくる。


「? な、なんだ、お前ら。急に静かになって……なんか変なこと言ったか、俺?」

「言ったね。無駄に造詣が深くて驚いたよ」

「私、けっこう聞き入っちゃったー。良い食レポするねー、陣内。流石は校内飲酒する化け物だにゃー、って感じー?」

「おい、誰が化け者だ」

「あははー、事実じゃーん! あ、そうだ。買い出しついでに映画でも借りにいこー。2人は映画見に行ったんでしょー? なら私も映画鑑賞したーい!」

「いいね。それなら僕は一度家に帰って遊び道具でも持ってこようかな。映画を見終わったらサンマ三人麻雀でも摘まもうよ」

「あぁー、麻雀かー。私、役は分かるけど点数計算できないんだよねー」

「大丈夫。それくらいなら、僕が教えるよ」


 猫屋と西代は、あれがしたい、これがしたいと、思い思いにやりたいことを口にする。


 予定は決めている時が一番楽しい。その言葉通り、彼女たちは淀むことなく口を回して笑い合っている。ここが人様の家だという事さえ、もう忘れていそうだ。


「…………ふぅ」


 味噌汁を飲み干して、一息つく。


 誰かの家に集まって学友とホームパーティー……たしかに、大学生っぽくはある。まるで、俺が入学前に抱いていたような楽しい生活の通り。その内訳は女2人と男1人で、理想とはかなり異なっているが……。


(…………まぁ、そこまで悪くはないか)


 食器の上に箸を置いて、俺も彼女たちの話し合いに混ざることにした。


************************************************************


 ──バタンッ!!


「兄者!! お邪魔するでござるよ!!」


 先日、陣内梅治たちが新人歓迎会を巡っていた昼の時分。


 安瀬桜の手によって、安瀬陽光の住む賃貸マンションのドアが乱雑に蹴破られる。


「いとかわゆし妹様が、世話を焼きに来てやったでありんす!! さぁ茶を出せ、茶を出せクソ兄貴!!」

「一瞬で矛盾を作るな、愚妹」


 桜ははち切れそうなほどの笑みを浮かべて、兄の仕事部屋へ突入する。


 簡素なテーブルに座し、ノートパソコンに向かっていた陽光は頭を抱えながら妹へと視線を移した。


さくら、連絡もせずに急にやって来るなって言ってるだろう? 来客が来ていたらどうするんだ」

「はぁん? 兄貴の部屋に来る友人なんぞ、どうせ野暮ったい男友達であろう? 恋人が来ているならまだしも、そんな者に我が気を遣う必要は無い」

(まだ千代美とは会わせたくないんだよ……)


 陽光は様々な思惑があり、婚約者の存在を妹には隠していた。しかし、最近は妹が神出鬼没に表れるので気が気ではなかった。


「……というか、大学はどうしたんだ? サボったのか?」

「サボるか、阿呆あほう。今日は身体測定と新入生歓迎会があって、午後は休講じゃ。兄貴こそ、仕事は?」

「在宅だよ、在宅」


 コンコン、と陽光はノートパソコンを小突く。

 

「添削と構図の直しをやってる。ずっと文字を追っているから、目がしょぼしょぼしてきた」

「うむうむ。熱心に励んでいるようで何よりでありんす。それなら客人まろうどである我が茶を入れてやろう!」

「……とびっきり熱いのをくれ。気合を入れ直したい」

「心得たでそうろう


 安瀬は勝手知ったる様子で兄の家をのさばり、台所へと足を延ばす。手慣れた所作で茶葉を用意し、やかんに水を注いで湯を沸かし始めた。


「さて、貯蓄のほどは如何様か」


 湯が沸くまでの間に、安瀬は冷蔵庫を開く。中にあったのは飲料水が数点ほど。


「4日前に作り置きしたおかずがもう無くなっておるではないか。デカい図体の通り、よく食べるのぉ……」


 大柄な兄の大食漢っぷりを改めて認識した安瀬は、火に掛けたやかんの様子を見ながら、隣室に向かって口を開いた。


「兄貴、今日の仕事終わりはどのくらいでござろう?」

「ん……このペースなら定時に終わっても問題なさそうだな」

「そうであるか。なら、仕事終わりは買い出しに付き合え。今日の夜飯と、日持ちする総菜をまた作ってやろう」

「あのなぁ桜。前にも言ったけど、ご飯なんて作って貰わなくても自炊くらい自分で──」

「ガサツな兄貴の自炊なぞ信用できぬ。拙者が初めてこの家を訪ねた時なんて、カップ麺が乱立しておったではないか」

「んぐっ。あ、あの時は仕事が立て込んでいてだなぁ」

「言い訳無用。妹の好意じゃ、黙って受け取るがよい」

「……はいよ」


 口論に負けた兄は、すごすごと語彙を弱める。


(…………親父も、世話を焼かれてこんな気持ちだったのかねぇ)


 ノートパソコンを眺めながらも、陽光は意識を妹へと向ける。


 亡き母親の代行。


 桜の甲斐甲斐しい世話焼きを、陽光は心中でそう結論付ける。


(そりゃあ、あの親父は実家から放り出すよ……むしろ、2年も良く持った)


 少しだけ居心地の悪さを感じ、陽光は頭をガシガシと掻いた。


 天真爛漫でじゃじゃ馬な妹の、家庭的な変化。


 それは成長と呼ぶにはあまりにも歪であり、辞めさせようかと考えた事もあったが、無理やり贖罪を取り上げる事が妹の為になるとは陽光にはどうしても思えなかった。


 しかし、安瀬桜は暇があれば兄の家を訪ねてきていた。若い妹が、自立している兄の世話を焼く現状も、兄として好ましく感じてはいない。


「なぁ、桜。大学の友人なんかとは一緒に遊びに行かないのか?」


 自身では解決しようがない問題の解消を、陽光は外に求める。


「ほら、花の大学生活だろ、一応は。それに、高校生の時はさ、数は少なかったけど気が合う友達と一緒によく遊んでただろう?」

「…………」


 冷蔵庫を閉じようとする手が、須臾の間ほど停滞する。


「ふん、下らんな」


 安瀬桜の動作は直ぐに再開した。彼女は兄の発言を鼻で笑い、力強く冷蔵庫を閉じる。


「そんな暇があるなら、来年の再受験に備えて勉強するでありんす。いくら聡明な我とは言え、2年ものブランクは如何とも埋めがたい。遊んでる暇なんて我には無いのじゃよ」

「お前、本気で地元の国公立を受け直すつもりなのか?」

「当たり前であろう」


 一切の躊躇なく、桜は"今の大学を辞める"と宣言した。


「講義内容に興味はなく、実家からは遠い。あそこに居るメリットが、我には感じられん」


 不愉快な思いを隠すことなく、桜は思いの丈を語った。


「それに、友人じゃと? 我に声を掛けてくるのなんぞじゃ。大学の帰り際に、新入生勧誘会とやらの近くを通ったのじゃが、そこでも執拗に声を掛けられた」

「ま、まぁ、口さえ開かなければお前はそうなるよな……」

「はぁ……冴えないクズばかりで嫌になるでござる。この調子では母に子を見せてあげるのは、まだまだ先になりそうじゃ」

「……そうか」


 大粒の涙が、安瀬桜の瞳からポロポロと溢れる。


 彼女の涙は1滴で止まるような事は無く、絶え間なく流れ続けた。


 いつも通りの落涙を兄に見せないよう、安瀬は兄に対して背中を向ける。台所と居間とは距離が離れているので気づかれる恐れはないはずだが、彼女は心情的に兄に背を向けていたかった。


「………………あぁそうじゃ。来週のゴールデンウイーク、我は来られんからな」

「そうなのか?」

「新入生オリエンテーションがある。1週間も山中のペンションに拘束されるでありんす」

「お、おぉ……けっこう楽しそうな行事だな、それ」

阿呆あほう。大学生にもなって校外学習なぞ楽しめるか。詰まらぬよ、きっと」


 やかんが沸騰を知らせるため、甲高く笛吹を喚き散らす。


「本当に…………詰まらぬよ、大学なんて」

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