第91話 開幕:白いワスレナグサの断片


「いやぁ~、助かるよ陣内くん。シャカリキに働いてもらってさぁ」

「すぅ……ふぅー……。いえ、お賃金頂いてますから当然ですよ」


 居酒屋の従業員スペース。俺はそこで、バイト終わりの一服を堪能していた。


「まぁ、その通りではあるんだけど」


 目の下に濃いくまを常に携える、中年男性。健康状態が不安定な店長さんは、控えめな笑みをこちらに向ける。


 他の従業員たちは既に帰宅しており、今は店長さんと2人きりだ。


「繁忙期に雇っちゃったから、バックレられないか不安だったんだ。けど、まさかの即戦力で大助かりだよ。ドリンクなんて教える必要なかったし、本当に居酒屋で働くのここが初めて?」

「初めてですよ……でも、すいません。明日からは大型連休だってのに、シフトに入れなくって」

「あぁ~、あそこの大学はいつもそうだよ。ゴールデンウィークを丸々使って講義だなんて、大学ってのはやる事の規模がデカいよねぇ」

「すぅー……はぁー……そっすね」


 汚くて狭く、書類が散乱した小さな部屋。そんな室内で、煙草の煙を躊躇せずに吹かす。


 喫煙可能なのはありがたいが、清掃が行き届いた表とは違って、裏側は雑多と言わざる負えない。


「あの、店長さん。話は変わるんですけど、ここって掃除しないんですか?」

「あぁいやほら、エリアマネージャーってすっごい多忙で……裏の掃除とか、やってる暇ないなーって感じで……な?」

「は、はぁ。なんか、すいません」


 い、嫌だなぁ働くの。俺も将来、こうなるのかなぁ……。


「はぁ、今日もまだ作業が残ってる。履歴書の情報をパソコンに打ち込まないと……」


 そう言って店長が1枚の紙を取り出す。口ぶりから察するかぎり、どうやらそれは履歴書のようだ。


「あれ? 新入りが入るんですか?」


 そうなると、そいつは立場的には俺の後輩になるわけだ。


 ちょっとだけ気になるな。


「うん。かなり変わった子だったけど……まぁ、人手不足だし雇うよ」

「そうなんですか……ん?」


 何気なく目に入った履歴書の記入欄を見て、俺は強烈な違和感を感じ取った。


「店長、その履歴書、間違ってますよ」

「え? 間違ってる? あぁ、証明写真の眼帯は物貰いらし──」

「そこじゃないです。ほら、生年月日の所」


 言って、日付記入欄を指差す。


2005229、なんて書いてるじゃないですか、これ」

「へ? それが?」

「2月29日って、うるう日なんですよ。2004年生まれならともかく、2005年生まれじゃあ、あり得ませんって」

「え、あぁ、そっか」


 俺の生年月日は2004年2月3日。ちょうど、うるう年が関係する年月。


 2004年の2月になら、2月29日は存在するが、2005年には存在しない。


「いやそもそも、ダメだよ、人の履歴書を見たら。ほら、これって個人情報だからさ」


 店長はデスク上の履歴書をいそいそと机棚に隠した。


「あ、あぁ、すいません……じゃあ、俺はもう帰りますね。明日早いんで」

「あぁうん、お疲れ様」

「お疲れ様です」


 ……しっかし、自分の生年月日を書き間違えるとか、どんなバカだよ。


 俺は、ちらりと見えた間抜けの名前を思い出した。


 それは、大場おおばひかりという、女の名前だった。

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