第78話 恋心マスカレード・前


 愛人と、温泉旅館に、不倫旅行。


 男女が逆であり細部は異なるが、そんな不貞を働くやからの心情とはこのようなものであろうか? 


 あれよあれよと流されるまま、ついにこの日が来てしまったでござる……。


「いってて、やっぱり夜行バスってのは腰が痛くなるな」


 我の隣で大きく伸びをする男。陣内は夜行バスの移動疲れのせいでひどく億劫そうであった。


「安瀬はどうだ? 身体、痛くないか?」

「…………別に。特に問題はない」

「そうか」


 『少し実家に帰省する』と、猫屋と西代に嘘を付き、夜行バスに乗り込んだのが昨日の事。


 拙者たちは2人だけで県外旅行に来ていた。


「悪いな、予算の都合で夜行バスになって」

「よい。少し体が強張っておるが、気にはならん」


 正直に白状するのなら、夜行バスの狭い座席に隣り合わせで一晩を過ごすのは満更ではなかった。頭を陣内の肩に預けて、彼を枕にして眠るのは………………松竹梅の竹くらいには悪くない気分であった。


(じゃが、猫屋がこれを知ればどう思うであろう……)


 旅行に行くのが拙者と陣内ではなく、と立場を逆転して考えてみる。


 夜行バスの狭い座席で2人きり。翌日は朝から日が落ちるまで2人で遊び、夜は温泉旅館で一緒に就寝。上手くいけば、2人はそのまま結ばれることもあるであろう。若い男女が2人きりなので、相手が陣内と言えども大袈裟な話ではない。


(う、うむぅ……あまり、悪い気分ではない、の)


 この2か月、猫屋を応援し続けたおかげか、我はその光景をどこか待ち望んでいた。きっと猫屋の一途さを目の当たりにした事が要因であろう。


(例えが悪かった)


 想定を変え、が陣内と旅行に出かけたと仮定しよう。名も風貌も知らぬ、交友の無い女が陣内と楽しそうに遊び、最終的には男女の関係になる。


「…………」


 心がざわざわした。極めて不愉快だった。お気に入りの品を汚された気分になる。


 でも、これからの旅行は猫屋にとってはそういうモノではないのか?


「……………………」


 だけど、この旅行をすっぽかすという選択肢は存在しなかった。


 陣内は誓ったあの約束をとても大切にしてくれていたからだ。


 そもそもの話、我が無茶ぶりしたこの約束を守るために、陣内は色々と準備を頑張っていた。バイトで資金を稼いで、プランを練って、交通手段や宿を確保する等々。その忙しさのせいか、ここ数週間は疲れた顔を見せる時もあった。


 その頑張りを無下にするのは非常に心苦しい。


「…………………………………………」


 それに……心の隅で、どこかこの旅行を楽しみにしていた自分が居た。はしたなくも何かを期待して、淡い感情を持つ自分が居た。


 我の為に頑張ってくれている彼を、好ましいと思った自分が居た。


「ぅっ」


 猫屋に対する罪悪感。陣内への配慮。そして、ゲスな自分の卑しさ。


 3つの想いは決して混ざり合わず、胸の中で強く反発を繰り返し続けた。


「うっ、ぅ、ううううぅぅぅぅううぅっ……!!」

「え!? おい、急にどうした!?」

「き、気分が、気分が悪いぜよ……」


 胸の中が複雑怪奇で気持ちわるぃ。……今日は一体どういった気持ちで陣内と遊べばよいのじゃ!? まるで気持ちの整理がつかないでござる!!


「車酔いか!? ちょっと待ってろよ!」


 大きなリュックを地面に置いて、陣内は中身を漁り始める。


 陣内は普段は偏屈であるが、そのじつ、優しくて献身的。世間一般的に言う所のツンデレと言うやつでござる。事実としてこの前、我らが風邪をこじらせた時も自分も熱がある中率先して看病してくれた。


『風邪? んなもん、卵酒たまござけ飲んだら治ったわ』


 鼻水を垂らしながらそう言う彼の姿は見栄っ張りであり滑稽であったが……そういう所が、我はとても気に入っていた。


 今も、こんな我の為に、陣内は酔い止めの薬を探してくれているのであろう。


(でも、今はあまり優しくして欲しくないのじゃぁ……)


 猫屋に悪い。とても引け目を感じる。


 また、胸奥がジクジクと痛み出す。


「あった。ほら、飲め」


 我が胸を抑えていると、陣内がバックから水筒を取り出した。


。飲めば楽になるぞ?」

「……はぁぁぁ」


 深いため息をつく。


 先ほどまでの全てを撤回するでござる。こ奴は、優しいとかそれ以前に一般常識が欠けておる。やはり、陣内は脳みそアルコール漬けのアル中ぜよ。


「…………中身は?」


 心底呆れはしたが、体調自体は普通なのでそこまで悪くはない差し入れではあった。


 陣内アルコール猫屋ヤニ西代ギャンブルと違って、我には全心血を注ぐほどの中毒的趣味はない。で、あるがその3つは好きじゃ。どうにも退廃的で琴線に触れる。


 それに今は酒でも飲んで気分を紛らわせたい。


「中身はセベデの炭酸割りだ」

「ん? なんじゃ、それ? 聞いた事がないぜよ」


 銘からして洋酒のようである。我は日本酒はよく知っておるが洋酒の知識はそんなでもなかった。


「日本で売られ始めたのは2022年からだからな。結構最近の酒だし、お前は知らないか」


 そう言って、陣内は唐突にコホンっと軽く咳ばらいをした。


「これは、大麻から作られたお酒様だ」

「──────」

「コカの葉を使ったコカレロが刺激薬アッパー系だろ? 幻覚剤サイケデリックな香りが特徴的なのはニガヨモギが原料のアブサンだ。それでこのセデベはなんとリラックス効果が顕著な抑制薬ダウナー系の酒なんだ! 今のお前にはピッタリって訳だな!!」

「…………………………」

「飲んで暫くするとチルい感じが押し寄せてくるんだ。これが堪らなくてな! こう、なんていうかな? 脳そのものが脱力する、みたいな? 自立神経が整った感じがして気分がいいんだぜ!? おまけに味もジンジャーが効いてて超うめぇ!!」


 アル中は目に生気を宿し、イキイキと早口で酒についての解説をしていた。


「うっわぁ……」


 陽気にヤバいセールス文句を謳う陣内を見て、もはや完全に気持ちが萎えた。不倫旅行などと考えていた自分が、途端に馬鹿らしくなる。


 胸に渦巻いていた感情は陣内の異常さで全て上書きされていった。


「お主、相も変わらず酒のチョイスだけは完璧でござるな」


 皮肉だけで構築された褒め言葉を目の前のアル中に贈ってやる。


「きゅっ、急にそんなに褒めるなよ。これくらいは普通だろ? ま、まぁ褒めてもらえるのは嬉しいけどな、へへへっ」


 何を勘違いしているのか、陣内は照れくさそうに笑った。無茶苦茶嬉しそうな顔をしている。


「うむ、ちゃんと引いたぜよ! やはりお主は社会不適合者じゃな! 下の下の下、ゴミクズのカスで本当に安心した!!」

「……はぁ!?」


 すぐ隣で、陣内は馬鹿デカい怒り声を発する。


「んだテメェ、朝から喧嘩売ってんのか!! 人が心配して高い酒をくれてやってるんだぞ!!」

「うむうむ、意味の分からぬ逆ギレもまた品が無くて醜いのう。あぁ、落ち着いていく……」


 こ奴に惚れた人間がいるというから、この世は摩訶不思議であるな!! 


「み、醜い!? お、お前そこまで言うか……!?」

「ん、あぁ多少言い過ぎたかの。すまぬ、許すがよい」


 一応謝ってから、陣内から水筒を受け取り飲み口に口をつける。軽く筒を傾けると、口内にフレッシュな山椒とレモンの香りが弾け飛んだ。


「んっ、んっ、ぷはっ。うむ、美味しい!」


 爽快感が楽しい、我好みの洋酒である。


「良い、良いぞ! 今日は終始この調子で盛大に我を持て成すのじゃな、陣内!! この安瀬桜を1日中楽しませる権利をくりゃれてやろうではないか!!」

「始めはそう思ってたけど一気にやる気が失せたわ!! 何でそんなに偉そうなんだよ、テメェ!!」

「…………ふん。なんじゃ、謝ったではないか」


 大袈裟に悪態をついてみる。


「まったく、器が小さい男はコレだから困るのう」

「1回、鼻で煙草吸ってみるか? あ゛ぁ゛?」


 我の不遜な態度についにキレたのか、陣内は懐から1本煙草を取り出して、そのままにじり寄って来る。


 このままでは鼻腔に煙草をねじ込まれそうでありんす。


「誰がそんな事するか、下郎め」


 耳から煙を出すのはごめんじゃ。


 我は陣内から距離を取るように走り出した。向かっているのは、遠くに見えるレンタカー屋。


「ほれ、車を予約しているのであろう!! 早う取りに行くでありんす!!」

「あっ、待てよおい……!!」


 走りながら振り返り、鬼の形相で追いかけてくる陣内を視界に収める。やたらめったに怒っている彼が何故か無性に面白くて、自然と笑みがこぼれた。


 今日も明日も、この調子でずっとふざけていよう。


 そもそも、あんなアル中の事なんぞ本気で好きになっていたわけじゃない。あんな馬鹿でダメな奴に心を奪われる訳が無いのじゃ。きっと、一時の気の迷いであったのだろう。


 それに陣内だって、こんな我儘で高飛車な女などは御免被るはず。


 だから……今日は逢引きなどでは決してなく、深く気心の知れた友人との、ただの観光なのじゃ。


************************************************************


 怒り荒ぶる陣内をなんとか鎮めてからレンタカーを借り、我らの観光はスタートした。


 車内には早速、2人分の煙が漂っている。

 我は清涼感あるメンソールのメビウス、陣内は副流煙まで甘ったるいブラックデビルのミントバニラを燻らせながら、交通量の多い神戸市内をゆっくりと走る。我は既に酒を飲んだので、運転は陣内に任せきりだ。


「ふむ、それで? 兵庫くんだりまでわざわざ来たという事は、今夜泊まるのは有馬ありまでござるか?」


 今回は湯治の旅行。そして、兵庫には天下の三名泉と名高い"有馬温泉"があった。


「あぁ、そうだ。他にも有名な温泉は色々あるけど、この前京都旅行に行ったからな。せっかくだから兵庫にした」

なだの男酒伏見ふしみの女酒、というやつじゃな」

「流石、安瀬。話の飲み込みが早くて助かるぜ」


 なだ、とは潮荒く風浪激しい海域を指す言葉であり、兵庫県の神戸市と西宮市の沿岸部がそれに当たる。その海域の影響かは知らんが、灘の水は酒作りに適していて、醸造所として有名らしい。


「じゃが、結局どこが凄い水なのであるか? 水質で言えば、川辺かわべ仁淀にどよの方が優れているであろう?」

「灘の水、宮水みやすいってのはミネラルが豊富でな。それが麹の栄養になって発酵が促進されるんだ。他にも鉄分が少ないとか、多少の塩気があるとか色々とあって酒に向いた水質なんだよ」

「ほ、ほぉ」


 こ奴、生き字引きか。酒に関しては無駄に詳しいの……。


「まっ、要するに辛口の日本酒が美味いって事だな。夜の酒盛りが楽しみだぜ、ぐははは!!!!」

「……お主は口を開けば酒の事ばかりであるな。確かに日本ポン酒は好物であるが、酒造巡りだけで1日を潰すのは流石に嫌じゃぞ、我」


 それに、場所は違うが酒造には何度か足を運んだことがある。日本三大酒処と言われる灘、伏見、西条。その1つ、西条は拙者の出身地である広島に存在する。学校の課外授業で行って、感想文を提出したくらいには行き慣れた場所であった。


「分かってるよ。灘五郷酒造巡りは少しだけにして、夜までは観光名所を巡って記念写真でも撮ろうぜ。……ちょっとだけお洒落してな」

「ん?」


 付け足すように、陣内が小声で意味深な事を呟いた。


「お洒落、でござるか?」

「あぁー……まぁ、その、あれだ」


 我が聞き返すと、陣内は吐いた煙と前方を俯瞰しながら歯切れの悪い声を出す。


「北野異人館街って所で、はかまのレンタルを予約してるんだ。お気に召さなかったら断っても大丈夫だぞ」


************************************************************


 北野異人館街。そこは大正ロマンが色濃く残った文化的建築物が多く存在する、神戸市の観光名所。近代化する過程の和と洋が入り混じった、懐古的審美眼を擽られる街並がとても特徴的でござる。


「ど、どうでしょうか?」


 外行き用の口調で店員さんに話しかける。


「おかしくはありませんか?」

「凄くお似合いですよ、お客様」


 北野異人館街にある呉服屋の中。着付け室の大きな姿見に写る自分の姿を見て、得も言われぬ充足感に満たされる。


(か、かわいいでありんす……!!)


 ピンクの花柄着物に、胸下で結った藍染の行灯袴あんどんばかま。その胸部から足首元まである長いスカート状袴のアンバランスなシルエットが絶妙に愛くるしい。


(これ、拙者、超かわいい!!)


 内心に歓喜が溢れ迸る。店員さんに確認をとってはみたが、言われるまでもなくピッタリと似合っていた。


(これぞ、明治女学生のはいからさんでござる!!)


 以前から女袴にはとても憧れていた。


 これを着るのは大学を卒業する時かと思っていたのじゃが、思いも寄らない時に着る事ができた。


(くうぅっ、しかし、惜しい事をした……!)


 本来なら矢絣やがすりの着物と海老茶えびちゃの袴、黒のハーフブーツに赤リボンといきたかったが、そちらは人気で既に貸し出されてしもうたらしい。


「あらかじめ聞いておれば竹刀だけでも持参したものを……ええい悔やまれる」

「え、しなっ、はい?」

「あっ……い、いえ何でもないです」


 テンションが跳ね上がり、余計な事を口走ってしまった。……とはいえ、今はそれどころではない。


「着付けはこれで終わりですよね? それでは失礼して……」


 店員さんに軽く会釈し、急いで着付け室を後にする。行先は男袴の着付けが先に終わっているはずの陣内の所。


「陣内……!!」


 店頭に通じるドアを開けると、そこには同じく袴姿をした陣内が我の事をソファに座って待っていた。


「刮目して見るがよい!」

「ん?」


 彼の前まで速足で駆け寄って、全身を見せつける為にクルリと廻る。


「絶世独立の美女、ここに見参でありんす!!」

「それ自分で言うのか……まぁ、確かに見惚れるほど似合ってるけどよ」


 陣内が細い目をさらに細めて、拙者の恰好をまじまじと見つめた。


「安瀬ほど和服を着こなせるヤツはきっとどこを探してもいないな。明るいピンクがより映えて見える」

「ふふん、そうであろう! そうであろうとも!!」


 腰に手を当て胸を張り、外観がさらに美しく見えるように姿勢を整える。


「まさに非の打ちどころ無し! この美貌を持ってすれば解脱者すら魔道に堕ちる!! 日ノ本随一の解語之花とは、あぁ我ながらなんと罪深い……!!」

「あぁはいはい。よく分かんないけど凄い凄い。なんにせよ、そこまで気に入ってくれたのなら俺も嬉しいよ」

「うむ!! 褒めて遣わそうではないか!!」 


 気の利いた、よきサプライズ。明治大正の名残を残す町並みを袴で練り歩くとは、いなせでありんす。それに仮装は好きじゃ。可愛く、非日常的で気分が高揚する。


「ふふっ、陣内、今日1日このような美女を隣に連れまわせることを幸運に思うがよ………………」


 …………ん?


 浮ついた気分に影が差す。


(お、おろ? い、今、何をしたのじゃ、我?)


 袴姿を見せびらかすように陣内の前に躍り出た自分に、強く疑問を抱いた。


 異性に褒めてもらって、認めてもらって、乙女的な自尊心を潤す。それはやはり万人に共通する感性ではあるのだろう。


 でも、それを陣内に求めるのは間違っておらぬか? 相手は、ただの友人のはずであろう?


「へいへい。美しき安瀬様の隣を歩ける俺は幸せ者だよ、マジで」

「………いや、その、あの」


 なにか残酷な事をしている。今の自分を客観的に見て、そういった気持ちになった。


「そ、そんなに褒めないでください。私なんてそんなたいして可愛くもないですし、どこにでもいるような普通の女なんです」

「は、はぁ? 突然どうした?」

「いえ、本当に、あの……私なんて全然可愛くなんてないです……裏切り者で……どうしよもなくて……その…………どうぞ蛆虫とでも呼んでください」

「お、おい! さっきまでの自信はどこに消えた!?」

「ゴキブリでもかまいません……」

「本当にどうした!?」


 暴走していた自分をとにかく恥じる。


「いえ、冷静になったら、こんな醜女が何を舞いがっているのかと思いまして。ははは、どうぞ、この勘違いした痛い女をせせら笑ってくだ──」

「な、なんでそんなに卑屈になってんだ馬鹿!!」


 我の声を陣内は罵声で遮った。


「さっき言ったことはちゃんと全部本心だから!! 似合ってるよ!! 滅茶苦茶かわいい!! 俺は、世界で一番和服が似合うのは安瀬だと思ってるよ!!」


 呉服屋全体に、陣内の声が響き渡った。


 それを皮切りに数秒間、他のお客もいるはずなのに店内を静寂が支配する。


「「……………………」」


 客と店員の生温い視線を一身に受け、陣内共々硬直した。


 ほんのり、頬が熱くなる。


 モニョモニョとした、形容しがたい羞恥心が吹きあがった。無性に身体をよじりたくなる。


「じ、陣内。て、店内でその様な事を大声で叫ぶでない……」

「お前が言わせたようなもんだろうが!!」


 どうやら恥ずかしかったのは陣内も同じようで、彼も顔を真っ赤にした。


************************************************************


 20件以上ある洋館を点々と、陣内と袴姿で歩き廻る。港近くに建てられた異国情緒のある木造住宅物は時代転換の気っ風を感じさせて、歴史の一幕を覗いているようであった。


 一番好きな時代は文化発展が目覚ましい江戸であるが、この時代も我は気に入っている。この時代にしか出せない特別な味があると思っていた。


 第一次世界大戦前のどこか不安定な時代。そこで海外の手練手管な商人を相手に、外交に不慣れな日本人が日夜奮戦していたと思うと、時代をなぞる感覚に浸ってしまう。室内に展示してある当時の調度品を鑑賞し、陣内とぺらぺらと談笑を繰り返すのも、とても面白おかしい。


 ……で、あるが、浮ついた気分はちゃんと封じ込める。呉服屋での誉め言葉などはもう既に忘れた。


 これは、決して逢引きではないのである。


「なぁ、安瀬」


 その、うぬ、まぁ……楽しいは楽しいでござるよ? じゃが、それが何だと言う? いつもと何も変わらぬではないか。まるで平常運転でありんす。


 隣を歩く袴姿の陣内は別にいつもより洒落ているという事はないし、酒類が源の先鋭的知識から出てくる調度品の話題には飽き飽きとするし、車道側を率先して歩く姿にも何も思わない。


 今も我に歩幅を合わせて歩いている。それも分かっておるが、別にトキメキはせん。当然……当然……そう、世の男がよくやる気遣いなのじゃ。


「……安瀬?」


 それに、恋だの愛だのとは、まるで青春を謳歌する高校生ぐらいのジャリガキではないか? 我はもう、酒も煙草も賭博も楽しめる立派な大人。青年期の淑女とした相応しい振る舞いという物が身についていて───


「おい、安瀬」


 トントン、と陣内が肩を叩いた。


「うみゃょひゅわぁぁぁああああああああああ!?」

「うおっ!?」


 触れられて、思わず飛び上がる。


 何、コイツ急に触ってるのじゃ!! 手か!? 手でも繋ぐつもりか!? そ、そんな事して許されると思っておるのか!?


「わ、悪い、急に触って。驚かしたな……」

「い、いや、ななな何でもないでござ、あり、やんしゅう……!!」

「そ、そうか……? それなら返事してくれよ」

「しゅ、すまん……」


 心臓がバクバクする。でも別に『気分が良いから手を繋いで歩きたかった』とかそういった浮ついた気持ちは断じて持ち得ていない。


「なぁ、そろそろ昼飯にしないか?」


 陣内は驚いた我から少しだけ距離置いて、落ち着いた声音でそう言った。


「…………あ、あぁ。そうじゃな」


 どうやら、ただのご飯の誘いだったようじゃ。ふぅ、紛らわしい…………じゃがしかし、気を抜くわけにはいかない。


 見栄っ張りでカッコつけたがりな陣内の事だ。こじゃれた創作イタリアンだの、ランチで手頃な価格となった回らないすしだのと、ちょっと雰囲気の良い所を予約しているに決まっておる。


 一般的な女子おなごが喜びそうな場所に連れて行こうとしているのであろうが、予測して備えておればなんてことはないであろう。


「実はお弁当作って来たんだ。そこのカフェでコーヒーでも買って、近くの公園で食べようぜ」

「………………」


 視野の外からぶん殴られた気分になる。


 えっと、の……そういうのは基本的に、女子側の特権ではないか?

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